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2024年
12月
05日
木
第13回田村明読書会
第13回田村明の市民論を読む(田村明読書会)
田村明「都市政策の総合性と都市のグランドデザイン」都市問題第88巻第9号pp.17-30 1997年9月号、東京市政調査会
実施の日時と場所:(2024年12月2日(月)15:00~17:00 横浜市市民活動協働推進センター(市庁舎1F)
参加者:4名
田村明の都市づくり全6巻の教科書を読んでいる。
月刊誌の14頁にすぎない論文なのに、そんな広がりを感じさせた。
課題は以下の項目
「都市とはなにか」
「都市政策」
「都市の総合性」
「都市のグランドデザイン」
「都市づくりの進め方」
「企画調整機能とプロデューサー」
どれも深いし、難しい。
市民による地方政府としての自治体が軸になって都市づくりを進める。
この論文から27年。
今でも私たちに同じ課題が突き付けられている。
次回は12月16日(月)15:00~17:00 会場:横浜市市民活動協働推進センター(市庁舎1F)開催。
資料は田村明「『第2章完全自治州を考える』日本の未来をつくるー地方分権のグランドデザインー」pp.20―46、2009、5(日本の未来をつくる会)文藝春秋社(この文献はNPO法人田村明記念まちづくり研究会ホームページの著作の「B66田村明2009日本の未来」としてされ収録されています)
(檜槇貢)
田村さんの真骨頂は実践にあり、その実践面で不明な部分が多々ある。著書や論考で語られているのは一部であり、実は本人以外知りえないことも多々ある。つまり、その語られていない部分を明らかにすることが当NPO設立目的なのだが、簡単ではない。次世代の人々が学び直すためにも必要なのだが、霧に包まれた田村像では学べない。田村さんにはそのような部分を語ってほしかった、という切実な思いが私を含め参加者から出た。(田口俊夫)
2024年
12月
01日
日
NPO理事の檜槇貢氏の半生
当NPO理事の檜槇貢氏がかつて在籍した山梨総合研究所会報に寄稿されたものの転載です。長年、市民と地域について研究し活動してきた檜槇氏半生の集大成です。
2024年
12月
01日
日
田村明のビデオ
田村明のインタビュービデオを入手しましたので、公開します。場面設定は不明ですのでご了承ください。撮影年も不明ですが、1980年代後半から1990年代前半かと想像されます、まだ元気ですので。
2024年
11月
25日
月
田村明が設定した調整区域と農業
NPO田村明研究会ではいま、工学院大学星卓志研究室と共同で文科省の科学研究費の助成を得て、市街化調整区域内における都市農業と住まい方について研究を進めている。先週、横浜市内の泉区にある天王森泉公園の管理棟和室を借りて研究会を開き、その後周辺の農業集落を散策した。都市環境的視点と農業経済的視点から地域分析をしていく過程で、農地転用(農地法)の許可事例から農家の実情に迫ろうとしている。優良農地がある反面、資材置場という作業場も点在し、都市内における農業の難しさも感じた。
2024年
11月
22日
金
第12回田村明読書会
第12回田村明の市民論を読む(田村明読書会)
「とくしま自治体会議の意味―地域の自立をめざす全国的動向」田村明・三木俊治編著『地域の自立をめざして―とくしま自治体会議報告集』、公文社pp.197-224 1988年3月発行
実施の日時と場所:(2024年11月18日(火)15:00~17:00 横浜市市民活動協働推進センター(市庁舎1F)
参加者:田口俊夫,遠藤包嗣,檜槇貢
市民、首長、自治体職員の3つの会議が徳島市という地方都市で開催された。1987年8月6日からの3日間だった。徳島市に全国から結集した延1500人に及ぶ自治体関係者の熱い討論に田村明は感動していた。くしくも、田村にとっては、横浜市を辞めて10年目だった。
この時期に東京一極集中解消に向けた遷都をはじめ省庁移転を含む多極分散型国土(四全総)を政府は打ち上げていた。そのなかで何よりも必要なことは全国自治体による地域の自立である。とくしま自治体会議はそれを実証してみせているという思いを強くしていた。「とくしま自治体会議の意味」とはそのことである。
政策交流会議と自治体学会は続いている。コロナ禍の全国的広がりで休止がやむなきにいたった2年を除き、現在も続いている。今年は鹿児島県日置市が開催地だった。
あの地域自立の熱意が今も続いていることを祈りたい。
次回は12月2日(月)15:00~17:00 会場:横浜市市民活動協働推進センター(市庁舎1F)開催。
資料は田村明「都市政策の総合性と都市のグランドデザイン」都市問題88巻9号、pp.17―30東京市政調査会、1997、9(この文献はNPO法人田村明記念まちづくり研究会ホームページの著作の352としてされ収録されています)
(檜槇貢)
下記の写真は、山手の丘にあった旧横浜女子商業学校の校舎(フランクロイドライト弟子の遠藤新が設計)
2024年
11月
02日
土
第11回田村明読書会
第11回田村明の市民論を読む(田村明読書会)
田村明「中央政府と自治体間の政治手続き」年報政治学1985日本政治学会編、共著、岩波書店pp.197-224 1986年3月発行
実施の日時と場所:(2024年11月1日(金)14:30~16:30 なか区民活動センター第1研修室
参加者:三名
市民の政府の自治体は、中央政府との関係において、政治的手続きだと認識すべきである。その理解によって、自治体と中央政府は国家間の国際関係のような対等関係に位置付けることが可能になる。
公害防止協定、宅地開発指導要綱、アーバンデザイン、身の丈にあった産業づくりは市民の政府の自治体だからこそ創造的に進めることができた。それが特定地域の政策にとどまらず、中央政府の政策も変えたことはかつての国と地方の関係として説明するのではなく、新たなパラダイムとして位置づけることだ。
田村明は政治学の世界で「成熟型民主理念」実現にふさわしい中央政府と市民の政府の関係を描いてみせている。2000年代の地方分権改革の形骸化が進むなかで、もう一度戻るべき道を教えているように思えてならない。
次回は11月18日(月)15:00~17:00 会場:横浜市市民活動協働推進センター(市庁舎1F)開催。
資料は田村明「とくしま自治体会議の意味―地域の自立をめざす全国的動向」田村明・三木俊治編著、公人社、1988、10(この文献はNPO法人田村明記念まちづくり研究会ホームページの著作のB39としてされ収録されています)
(檜槇貢)
2024年
11月
01日
金
田村の実践の理論
いまの時代に「自治体」という言葉はありふれている。あるひとはそれを地方公共団体の言い換えに過ぎないと言うかもしれないが、かつて「自治体」という言葉に強い意味を託した地方自治のムーブメントがあった。1960年から約20年にわたって続いた革新自治体の時代である。その理論的な支柱であった政治学者・松下圭一(1926-2015)によれば、それは「市民自治」や「都市型社会」を前提として国の機構や法制度を「自治・分権型」に再構築しようと試みた最初の画期であったという(松下・中嶌 2010: 77)。言うまでもなく、1960年代は爆発的に増加する人口とそれにともなう社会資本の不足、また公害や交通問題の発生など、数多くの都市問題が噴出した時代であった。したがって日本社会における旧来の中央集権・農村型社会からの転換という現実に即した都市自治のモデルが求められたのであった。
都市政策プランナー[i]・田村明(1926-2010)はこれまでそうした革新自治体を代表する横浜の飛鳥田一雄市政(1963-1978)におけるブレーン[ii]のひとりと目されることが多かった。実際に現代に至る横浜市のインフラの骨格を形成した六大事業や都市デザイン行政などの歴史を語るうえで田村の名前は必ず参照される。しかし革新市政期・横浜という文脈ではなく、総体としての革新自治体における田村の役割はどのようなものだったのだろうか。じつはこの点に関してはこれまで十分な検討がなされてこなかった。そもそも革新自治体でさえ、地方自治における過去の遺物として扱われ、現在積極的に研究が進められているとはいいがたい。その理由のひとつとして我々[iii]がいま仮説を持っているのは、革新自治体の「政策が先進的」であるとまとめられてしまったためであるというものである。すなわち同時代に提唱された政策がのちの都市政策や文化政策を先取りするものであるために、それらは、ときに乗り越えられるべきものとして、あるいは現在の都市政策の土台として参照されるようになった。松下らも「先進的な政策」を『資料・革新自治体』(地方自治センター編,日本評論社刊,1998)のような形でまとめている。もちろんそれは各々の革新自治体の政策を相互に参照して、さらなる発展に対する期待が込められたものと解される。しかしその一方で革新自治体内部の実践やその受け皿たる職員のあり方については驚くほど検証がなされてこなかった。この点に革新自治体の批判的継承に問題があると我々は考えている。
もちろん松下自身もそうした問題については自覚的であり、自治体学会の設立や職員の三面性論(自治体職員が公務員であり、労働者であるとともに、市民であることを自覚的に捉えて「市民として考える」職員参加のあり方を模索した)などを展開している。重要なのは「先進的な政策」の中身を問う以上に、「なにが先進的」だったのかという実践を丁寧に検証することであると思われる。興味深いことに田村明が横浜市を退職後に唱えるようになる都市やまちづくりの見方、また晩年の「市民の政府」論に見られるような自治体の位置づけは、松下が1980年代以降に提唱した自治理論(シビルミニマム、地域民主主義、自治体改革)にかなりの部分で響き合っている。実際に両者は革新自治体の時代以前から交流があり、1980年代以降もたびたび対談を行ったり、ともに自治体学会の設立を主導したりするなど、強い結びつきが見られる。ここで両者の違いや共通性に深入りするわけではない。重要なのは政策ではなく、システムとしての革新自治体と具体的な実践のあいだをどのように両者が結びつけようとしていたのかを見直すことである。改めて革新自治体の時代は変化の時代であった。その変化は現在の都市をとりまく変化とは異なるものの、変化に対応する都市自治のあり方を模索した試みとして十分に参照される意義があるだろう。我々はこれまで革新自治体における職員個人の実践に着目して研究活動を進めてきた。そこで得られた研究の成果を田村や松下の自治体理論と結びつけることで、革新自治体の批判的検討やその現代的な意義の展望へとさらに開いていくことを当面の目標としたい。(青木淳弘)
注
[i] 田村明は横浜市退職後(1981)、それまで都市プランナーを名乗っていたが、最晩年は「都市政策プランナー」と名乗るようになった。恐らく、「都市プランナー」は物的側面にのみ着目した印象となるめ、田村が本来意図した総合的な自治体行政を実現する政策に焦点を当て「都市政策プランナー」としたと考えられる。田村の横浜市役所時代の役割とその後の活動姿勢を的確に表現するものとなった。(田口俊夫)
[ii] 飛鳥田のブレーンには政治担当の鳴海正泰(1931-2021)がいた。鳴海は都政調査会時代から松下圭一との共同研究で親交を深めてきた。鳴海は自分が、日本の都市計画コンサルタント第一号である環境開発センター代表の浅田孝(1921-1990)や田村を飛鳥田と結び付けたと述べている。(田口俊夫)
[iii] NPO法人田村明記念・まちづくり研究会では、田村明が提唱実践した企画調整機能について定期的に研究会を開催してきた。その一環で、当時横浜市にあった都市科学研究室(1970-1990)について研究を進める過程で、田村明の市民論やまちづくり論に松下圭一がおおきく影響しているのでないか、との仮説を得た。(田口俊夫)
以下の写真は自治体学会鹿児島日置大会(2024年8月)での当NPO会員による発表風景
2024年
10月
17日
木
第10回田村明読書会
第10回田村明の市民論を読む(田村明読書会)
田村明「市民とまちづくり―魅力ある地域づくりをめざして―」法政Vol.No.8 pp.2-11(法政大学)1989年10月発行
実施の日時と場所:(2024年10月15日(火)15:00~17:00横浜市役所1階横浜市市民協働推進センター会議室
参加者:3名
「官」のまちづくりから「民」のまちづくりに転換すること。それが主題の田村明の法政大学主催の講演記録を読んだ。
市民のまちづくりのことである。そこに市民参加を語らない。市民のまちづくりの「骨の部分」を自治体が支え、市民はまちづくりの「肉の部分」を創り上げることだという。人間環境重視のまちづくり。地域性と個性を大事にするまちづくり。それは漫然とできるものではなく、意識的な市民活動によるものだ。
市民のまちづくりをしないと、地域から人口が流出し、いい人間が住まないことになる。これからの社会はソフト産業の時代になるのであって、市民のまちづくりこそが求められる。1989年夏の岡山市での市民講演である。
田村明は平仮名のまちづくりを提唱した。この講演でも平仮名の意義を語っている。そして、市民は「骨の部分」の自治体と一緒になってまちづくりを進めることを期待している。これは田村明の実践からの語りであろうか。横浜市での中央省庁との対峙において、立ち位置として理論的「市民」なのではないか。
平仮名のまちづくりが、本当に田村明が創造した表現なのかとともに、田村明の市民活動との関係をあらためて検証してみる必要があるのではないか。読書会での議論されたことである。
次回は11月1日(火)14:30~16:30 会場:横浜市中区区民センター開催。
資料は田村明「中央政府と自治体間の政治手続き」年報政治学1985、日本政治学会編、共著、岩波書店。PP197-224,1986.3(この文献はNPO法人田村明記念まちづくり研究会ホームページの著作のB32としてされ収録されています)
(檜槇貢)
2024年
10月
03日
木
第9回田村明を読む
第9回田村明の市民論を読む(田村明読書会)
田村明「都市工学からみた過密対策」横浜市立大学都市問題講座1号横浜市立大学都市問題講座運営委員会(横浜市立大学)1968年6月発行
実施の日時と場所:(2024年9月30日(月)15:00~17:00横浜市役所1階横浜市市民協働推進センター会議室
参加者:4名
本稿には大都市政策への提言が3つ。
1つは大都市で市民の生活の最低水準の基準設定すること。
2つは都市空間の合理化は必要なことであって、土地利用に当たって高密とそうでないもののリズムをつけること。
3つはモータリゼーションの進行に対する人間の主張をすること。車両の移動条件より上位の人の移動機能をつくること。
この当時の田村さんは環境開発センターから横浜市の企画調整部長になったばかりである。
過密都市の実態と都市にまつわる政策ジャンルの構造を明らかにした上で、市民の立場からの対応すべき政策を語った。第1の提言はこの時期に各地に広がる先進自治体におけるシビルミニマムのことである。
田村さんは都市工学に当時の都市づくりを進めていた造園、土木、建築をこえた実践的な政策研究を期待してのではないか。そんな希望を感じる公開講座の講演録である。
次回は10月15日(火)15:00~17:00 会場:横浜市市民活動協働推進センター(市庁舎1F)開催。
資料は分類番号280田村明「市民とまちづくりー魅力ある地域をめざしてー」法政(学内機関誌)Vol.16(通巻399号)1989年10月号所収
本HPの田村明→著作で検索できます。ワード原稿とPDF原稿が掲載されています。
なお、第7回から本会の愛称を「田村明読書会」としました。
(檜槇貢 2024年10月2日)
2024年
9月
19日
木
飛鳥田市政一期目の記録
第8回田村明の市民論を読む(田村明読書会)
飛鳥田一雄「革新市政の展望:横浜市政4年の記録」社会新報1967年4月6日発行
実施の日時と場所:(2024年9月17日(火)15:00~17:00横浜市役所1階横浜市市民協働推進センター大会議室
参加者:遠藤包嗣,田口俊夫,曽根和久,檜槇貢
直接民主主義を基調に横浜市経営を進める。そのキャッチコピーは「1万人市民集会」だった。1963年4月からの1期4年は市民との密接な結束をもって国政と市政の問題に対峙する。そんな覚悟を飛鳥田市長は当時150万都市横浜の経営に乗り出した。
本書はその決算書でもある。そこに滲むのは4年間の「親切行政」からの脱却の必要性であり、革新=社会福祉万能主義、ご用聞き行政をやめることだった。
1965年には横浜づくりの新しいパラダイムが田村明中心の環境開発センターから提案されていた。横浜市の未来を展望する六大事業である。2期目に向かうなかで、飛鳥田市長には確実な新たな風を感じていたはずである。
次回は9月30日(月)15:00~17:00 会場:横浜市市民活動協働推進センター(市庁舎1F)開催。
資料は田村明「都市工学からみた過密対策」横浜市立大学都市問題講座1号pp20-39横浜市立大学1968.6。
この資料はホームページの田村明の著作リストに掲載
なお、第7回から本会の愛称を「田村明読書会」としました。
(檜槇貢 2024年9月18日)
2024年
9月
05日
木
飛鳥田さんとわたし
第7回田村明の市民論を読む(田村明読書会)
田村明「市長・飛鳥田さんとわたし」地方自治通信170号、PP39-42,地方自治センター1984.1
実施の日時と場所:(2024年9月3日(火)15:00~17:00横浜市役所1階横浜市市民協働推進センター大会議室
参加者:4名
飛鳥田一雄さんを田村明さんは叱った。
本論は当時の社会党委員長だった飛鳥田さんへの手紙のような立ち位置の文章であって、私には田村さんはおなかの底から怒り飛鳥田さんを叱っているように思えた。1984(昭和59)年飛鳥田さんは社会党委員長を辞め、それを機に政界を引退している。その年の1月5日発行の月刊誌に載せたものだ。
もちろん田村さんは飛鳥田さんとの出会いに感謝し、飛鳥田一雄という自治体首長と一緒に仕事ができた奇跡を喜んでいるのだが、その反面で、国政への復帰してからの飛鳥田さんは「市民の都市も見えなくなったとしか言いようがない。」(3頁目)と嘆いてみせている。
飛鳥田さんと一緒に歩んだ横浜づくりがわが国政策モデルとしての兆しがあっただけに、その片割れの役目を担っていた田村さんは残念でならなかったのではないか。
当時の田村さんは法政大学でまちづくりを講じている。
次回は9月17日(火)15:00~17:00 会場:横浜市市民活動協働推進センター(市庁舎1F)開催。
予定資料は飛鳥田一雄著「革新市政の展望:横浜市政四年間の記録」(社会新報),1967。
この資料はホームページ(田村明関係著書)に掲載しますので、ダウンロードしてください。
なお、第7回から本会の愛称を「田村明読書会」としました。
(檜槇貢)
2024年
8月
29日
木
自治体学会鹿児島・日置大会
自治体学会鹿児島・日置大会に参加に参加した。8月23日(金)と24日(土)で鹿児島県の日置市で自治体学会が開催され、NPO田村明研究会として土曜日のポスターセッションに参加した。ポスターのテーマは最近整理が完了した田村明の著書論考目録である。著書71冊(共著を含む)、論考374遍が現在のところ確認されている。まだあるだろうが、分かっているだけでこれだけある。自治体の主体性や職員の自立性を熱く語った田村明の思いが、このポスター説明からわずかでも伝わることを期待して説明役のNPO会員(川﨑)がポスターの前に立ち続けた。意外と反応があった、まだ田村明は役に立ちそうと実感した。なお、NPO会員(吉田)による研究発表もあった。因みに、人口わずか4万人の日置市の市長が田村と同じく熱かった。まだ一期目だが、職員体の主体性を引き出すことに腐心して、役所の雰囲気がおおいに変わってきたという。若い人材がマチを変えることを期待したい。(文責:田口)
2024年
8月
21日
水
田村明の手紙 Letter from Akira Tamura
田村明から檜槇貢氏への手紙である。檜槇氏は田村と永い親交があり、田村がよく話をする間柄だった。檜槇氏は財団法人都市センターから大学教授を経て、故郷の佐世保市で行政内シンクタンクを創設した。現在、八王子に居住し当NPOの理事を務めている。田村は悪筆で有名で、その手書き文字を判読できる者は少なかった。今回、檜槇氏の好意で手紙を掲載することができた。田村の人柄も読み取ることができる。なお、文中の檜槇氏の著書は、『市民的地域社会の展開,日本経済評論社,2008.10』である。
2024年
8月
14日
水
第6回田村明の市民論を読む
第6回田村明の市民論を読む
田村明「飛鳥田横浜市政が残したもの」地方行政8380号、PP.2-9 時事通信社1990.11
実施の場所と期日:(2024年8月13日15:00~17:00横浜市役所1階横浜市市民協働推進センター
参加者:遠藤包嗣、田口俊夫、檜槇貢
田村明さんは飛鳥田一雄さんの横浜市長時代のブレーンだったのか。この読後の率直な感想である。飛鳥田さんは1963年4月から1978年2月末までの16年の4期を横浜市長として務めた。その2期2年目の1968年に田村さんは企画調整部長として市役所入りし、10年間の横浜市地域プランナーを担った。
本論は飛鳥田さん逝去の1カ月後の1990年11月に発表された。この時期の田村さんは法政大学教授だった。本論の内容は飛鳥田横浜市政の自治体首長としての立ち位置、その意義と展望をまとめたている。飛鳥田横浜市政は市民自治の市政を体現し、「地域の時代」につながる都市政策と政策スタイルを創造した。それによって、「自治体を市民と地域に根差す政策主体として改革した」(7頁)ことである。飛鳥田さんなればこその仕事だった。
さて、田村さんは飛鳥田市長のブレーンだったのか。これを読んであらためてブレーンの定義を確認したくなった。ブレーンでもいいのだが、2人の関係は市民自治を標ぼうした横浜市の自治体づくりに向けた同志関係にあったということだ。もう少し、田村さんを通しての飛鳥田さんを学んでみたいという気分になっている。
次回は202 田村明:「市長・飛鳥田さんと私」地方自治通信(地方自治センター)pp39-42,1984.4
9月3日(火)15:00~17:00 会場:横浜市市民活動協働推進センター(市庁舎1階)開催
(檜槇貢 2024年8月14日)
きれいな整理、ありがとうございます。私も、当時を思い起こすと、田村さんと飛鳥田さんの関係が同志的関係に思えてきます。年は離れていますが、市民を意識した街づくりと、市民を主体とした自治体の在り方を、二人して実践しているようです。飛鳥田さんが、社会党委員長になった時、もしかして横浜市モデルの市民と政治の関係にチャレンジできていたらと空想してしまいます。中央の政治はイデオロギー過多で、飛鳥田さんのリアリズムが受け入れられなかったようです。そういう意味で、飛鳥田さんについても少し勉強したくなりました。(遠藤包嗣)
田村さんの論稿を読めば読むほど、飛鳥田市長なくして都市プランナー田村明も存在しなかったと理解できる。ブレーンなどという臨時的顧問のような薄い存在でなく、「市民と行政のあり方」を大改革する正に同志であった、と思う。我々NPO会員は田村さんのことを中心に勉強してきたが、意外と飛鳥田さんのことを知らないまま来ていた。勉強しようと心に決めた。(田口俊夫)
2024年
7月
27日
土
田村明の市民論第5回
第5回田村明の市民論を読む
田村明『自治体の政策プランナー』(ジュリスト増刊総合特集22号「地方の新時代と公務員」(有斐閣)PP203‐209〈1981年4月〉
実施の場所と期日:(2024年7月23日15:00~17:00横浜市役所1階横浜市市民協働推進センター
参加者:HAN Changhee,遠藤包嗣、田口俊夫、檜槇貢
田村明さんはまさしく自治体の政策プランナーだった。私は田村さんに出会ってお別れするまでそう思っていたし、今でも田村さんは政策プランナーだと思っている。
自治体職員よ、自信をもって地域の政策づくりに向き合うべきだ。同じ公務員でも中央省庁のキャリア官僚とは違うものなのだから、全国各地で活躍することが可能であり、またそれが地域を発展させることになる。本稿はそんな励ましの論文である。自治体職員が自ら政策プランナーになろうとする際の応援歌であり、案内書である。
私は私なりに自治体の政策プランナーを目指した。弘前大学大学院地域社会研究科専任教員を辞めてふるさとの自治体に就職した際のことである。当時の市長の依頼で2014年4月に佐世保市政策推進センターのセンター長になった。佐世保市という自治体のシンクタンクとして、政策プランナーの自覚があった。自治体政策に関する縦割り、部局中心に動く市役所の行動に対して、私なりにもがき苦しんだ6年だった。田村さんが書いていることは理解できるが、残念ながら、そこで想定された成果をもたらすことはできなかった。それでも私が追体験できたことは、政策プランナーは計画書づくりではなく、シクミを創り独自の地域社会を創り上げることだった。だが、私にはそれが実現できなかった。「計画書」から離れて動く力がいるということを学んでいる。(檜槇貢 2024年7月26日)
田村さんが、1981 年に「ジュリスト増刊総合特集・地方の新時代と公務員」に書かれ た論文を久しぶりに読んで、最初に感じたことは、「不完全燃焼」でした。 中央・国に対して、「総合性」「地域性」「実践性」を強く主張し指導してきたのに、 横浜市での「6 大事業」が触れられていなかったことです。様々な課題・困難を乗り越え、 事業を軌道に乗せてきた、生きた事例なのに。 この特集号は 1981 年 4 月に発行されて、当時田村さんは企画調整局長を外れ、技監の 肩書でした。そして同年に横浜市を退職しています。 あえて、これからも多くの課題を乗り越えていかねばならぬ「6 大事業・横浜の街づく り」と「田村さんを継承する政策プランナー」に触れなかったのかもしれません。「自治 体の政策プランナー」の「序論」のように感じました。(遠藤包嗣)
当時、田村さんが考えている「自治体の政策プランナー」について、少し理解が深まりました。地方自治体の公務員は、最終的には政策プランナーとしての役割を果たすべきだと考えていますが、理想論は言いやすいものの、現実とのギャップも感じています。首長の交代や外部的要因、人事などの状況を考慮に入れながら、プランナーとして計画設計だけでなく、実施設計まで行えるスキルを身につけるにはどうすればよいかを考える必要があると認識しました。答えはまだ整理できていませんが、悩みを重ねることが大切だと思います。また、当時の田村さんの立場上、自由に意見を述べることが難しい場面もありましたが、書き記すことで思考を整理することの重要性を改めて感じました。―韓―
昨日の「田村明読書会(仮称)」の展開は面白かった。田村明が書かなかった、又は書けなかった背景を参加者が想像し意見交換できた。田村が本文で、自治体政策プランナーの始まりとして上げた具体事例が企業との公害防止協定(1964)と宅地開発要綱(1968)で、なぜ田村に率いられた企画調整室(のちに局)がチームとして取り組んだプロジェクトを事例に挙げなかったのかが議論となった。それには時代の背景をみる必要がある。田村がジュリスト増刊総合特集22「地方の時代と公務員」に彼の論稿「自治体の政策プランナー」を書いたのは1981年4月である。ただし、彼の肩書は「横浜市都市科学研究室長」となっている。田村は、すでに企画調整局長を1978年細郷道一が市長になった時点で左遷され、「技監兼都市科学研究室長事務取扱」という屈辱的な扱いにされていた。1981年3月末に横浜市を退職し法政大学に同年4月から移るのだが、この原稿を書いた時点ではまだ市職員だった。
田村とそりの合わない細郷市長は、田村に育てられた横浜市の有能な官僚たちの反乱を恐れた。田村を積極的に排除したいが、それではその有能な官僚たちを使いこなせないと、組織運営上の不安材料となる。それを恐れた。しかし、彼らは自分たちが担当したプロジェクトに邁進した。政権が変わってもやることは同じである・・・という行政官僚意識が作用した。六大事業はすべて動いていった、一番の目玉事業の「みなとみらい」も田村の腹心の小沢恵一や広瀬良一が十二分に頑張った。田村を慕って入庁した若手専門職員たちも頑張った。細郷市長は安心した。田村がいなくなってもミニ田村がいる。
田村も自分の腹心たちがそれぞれのプロジェクトで頑張っていることを理解していた。それゆえ、現在進行形のプロジェクトに言及するのを控えたのかもしれない。腹心の部下や若手職員たちは田村を慕い、プロジェクトを進めるそれぞれの局面で「田村だったらどうしただろうか・・・」と自問自答した。田村は昔から職員たちに向かって「君はどう考えるのか・・・」を問いかけていた。
もう一つ、田村には「革新自治体横浜市の田村明」という説明書きが常につきまとう。革新自治体のリーダー的存在だった飛鳥田一雄市長がいなければ「都市プランナー田村明」も生まれなかったのは確かである。では、田村の都市づくりは「革新自治体的」だったのだろうか・・・それが曖昧になっている。田村はこの論稿で「選挙次元のスモール政治」から離れることを推奨している。しかし、自治体の首長は選挙に当選しないと継続性がなくなる。いや、それを超越するのが自治体職員だ、と言い切るまでの学術研究での結論はでていない。1960年代から70年代にかけて、横浜の新住民の期待と地元経済界の期待があった。その二つの期待に飛鳥田市長、いや都市プランナー田村明が的確に応えた、という説がある。横浜を元気にする大プロジェクトを田村は推進しつつ、宅地開発要綱で人口急増に対応する学校・保育所等の最低限の公共施設を充実させた。他の革新自治体では見られないものが多い。
田村の論稿を読むことは、その背景を深く知ることによって、意味が深まる。それゆえ、今後も続けていく。(田口俊夫)
次回の課題図書は297 田村明:「飛鳥田横浜市長が残したもの」地方行政8380号(時事通信社)pp2-9,1990.4
予定は、8月13日(火)15:00~17:00 会場:横浜市市民活動協働推進センター(市庁舎1F)開催
2024年
7月
11日
木
田村明の読書会
第4回田村明の市民論を読む
田村明『まちづくりの思想~都市とごみをめぐって~』(思想の科学107号思想の科学社PP32‐39〈1988年9月〉
実施の場所と期日(2024年7月9日15:00~17:00横浜市役所1階横浜市市民協働推進センター
参加者:HAN Changhee,遠藤包嗣、田口俊夫、檜槇貢
思想の科学という月刊誌の「環境破壊と<現代>」という特集テーマ全体での「都市とごみ」に関するインタビュー内容が今回の論稿。
ごみ問題は市民の生活の局面と広域処理の側面があって、前者は沼津市でのゴミュニティという造語が現れるなど市民レベルでの分別回収等が動き始まっていた。後者は七大首長懇談会等によるデポジット制やリサイクルへの挑戦が始まっていたが、まだ模索の時代だった。それでも横浜市では自治体現場として高齢者施設としての浴場やプールを清掃工場に併設する動きが起きていた。子ども対応が中心で老人にまでサービスが広がらなかった時代である。
田村明はそのなかで2つの課題を提起していた。1つは中央省庁による清掃行政の縦割り行政から立地地元還元機能をもつ総合行政への転換だった。市民を味方につけると国の役人には絶対負けない。これはごみ問題だけではなく、道路、民生等も同じことだという。もう1つは都市における土地利用計画の必要性だった。まちづくりには地域に応じた「力学と技術」が必要で、「トータルに都市を考える人間がいないといけない」と自治体職員を位置づけている。
余談であるが、田村明さんから土地問題等で筆法をふるった故本間義人さん(毎日新聞編集委員、九州大学教授・法政大学教授)が自分の図書に「まちづくりの思想」という表題を使わせてほしいと頼まれたと聞かされた。その経緯を存じ上げないが、私が知っている限り本間さんはその書名を出版していない。
次回は167田村明: 「自治体の政策プランナー」『地方の新時代と公務員』ジュリスト増刊総合特集(有斐閣)22号pp203-209,1981.4 7月23日(月)15:00~17:00
会場:横浜市市民活動協働推進センター(市庁舎1F)開催
(檜槇貢 2024年7月11日)
2024年
7月
11日
木
香港でこまったこと
研究学会の年次大会で、研究論文を発表することはこれまでもやってきた。ただ一発表者として自分の研究論文を短時間で発表し、ほとんどない質問を受ける・・・そんな感じであった。ただし今回は、三つの発表グループが参加する分科会で、自らの論文発表と全体の司会進行をやれと急に指名された。全体で105分、本来は四グループなので、発表時間もたっぷりあってしまう、それでも一応20分とした。質問がなければ、あっという間に終わってしまう。さて、困った・・・
これが7月2日から4日まで香港のCUHK(香港中文大学)で開催された国際学会(国際都市計画史学会IPHS)に当NPO田村明研究会の代表として出席した場での「困った状況」である。昔20代で英語ができないまま留学して、ほとんどできないまま帰国した自分にとって、英語で発表してかつ司会進行まですることは想定外であった。分科会の当日まで眠れない夜が続いた。自分の発表は原稿を用意し練習してきたため、それを読み上げることで無事終了。その場で質問を受けるのでなく、すべてのグループが終わったら質問タイムにすることで合意、どうにか切り抜けた。実は自分以外のグループも日本人研究者たちで、なんなら日本語でやれば簡単・・・となるが、それは国際会議では御法度である。自分の論文と他の二つの論文の共通点(通常はないが)を無理やり発見して、それらに通じる課題について、共有できる視点(この場合は地域コミュニティと自治体の協力関係)を提示した。自分の研究テーマは横浜本牧における接収解除と跡地開発における行政と市民の協働作業で、他の二つも災害復興に際しての地域コミュニティのあり方であったことが幸いした。
発表者や指導教授たちの協力により、実は与えられた時間一杯盛んに質問や意見交換が行われた。司会役からも質問をぶつけ、答えのない答えを引き出そうとした。当然、自分の研究課題も正直に話した。香港の場で、このような視点で楽しい時間が持てたことに感謝したい。(文責:田口俊夫)
2024年
6月
26日
水
第3回田村明読書会
第3回田村明の市民論を読む(仮称)
田村明『都市行政から都市経営へ~都市経営論序説~』(世界362号岩波書店PP43‐56〈1976年1月〉
実施の場所と期日(2024年6月24日横浜市役所1階横浜市市民協働推進センター
参加者:遠藤包嗣、田口俊夫、檜槇貢
1978年秋に田村明さんから都市経営のことを教わった。都市における市民福祉の効果を最大化するための自治体システム形成こそが自治体主導の都市経営だということだった。40年以上も経ってそんなことを思い出している。
その頃、自治省と関連団体等が同じ都市経営という用語を使っていた。そのねらいは市町村行政の経営効率を高めるためのもので、企業経営をモデルとしていた。事務管理の機械化、コンピュータ導入、市町村長期計画の策定、PPBSの導入だった。小手先の技術的なものだった。その後に、東京都知事になった鈴木俊一さんが盛んに都市経営を唱えた。
この論稿は田村明さんが横浜市企画調整局長時代のものである。それにもかかわらず、横浜市のことはほとんど触れられていない。わが国の都市を襲う人口集中の波と構造的な中央集権体制における都市政策運営の課題が中心である。もっとも行間には横浜市の現実が見えなくもない。また、田村明さんの手練手管が垣間見えることも確かである。
田村明さんの都市経営はなにか。それは市民から発している。そして、「出入り自由のクラブ組織のようなものに似ている。しかし出入り自由でも、会員が作ったクラブであれば、規律も必要だし、会員個人のなすべき役割もある。」(56頁)と書いている。行政の文脈とは異なった市民から発したクラブ組織のような都市経営主体をイメージしていたのである。
具体的には、「自主的自治的な市民が育ち、市政を動かし、まさに都市経営の主体となり各市民もまた役割を分担するとき、自治体は市民のものとなる。」と書いた(56頁)。ここに田村明さんの市民論があると思う。
本稿のタイトルには副題として「都市経営論序説」とある。筆者の田村明さんはこの考え方が一般的ではないものの、市民論を基礎とした都市経営論をもっと深く描くことが必要だと告げられているようでならない。
(檜槇貢 2024年6月25日)
田村明の「市民論」は常に明快である。では、その詳細となると自分たちで新たに考えるしかない。果たして、すべての市民が田村の言うように「自覚ある市民」となるのだろうか、我々の議論では市民の歴史的かつ地縁的そして情報的に複雑な集団に複合的に属している。すべての市民が「自覚ある市民」になるわけではない。つまり、一部の自覚ある市民がいて、それを見守る多数の市民がいて、少数の社会生活環境的に参加できない市民がいる。そのような構図でないか、となった。また、田村の市民論は、つまるところ「自治体職員論」につながる前置きでないか、との意見もある。まだまだ、田村の論考を読み込んで、「分かったつもりの田村明像」を崩すしかない。(田口俊夫)
2024年
6月
14日
金
NPO社員総会が終了しました
2024年6月11日(火)午後5時30分より、なか区民活動センター研修室1号で、当NPO法人の2023年度決算と事業報告そして役員改選、続いて2024年度事業計画について、社員総会が開催されました。
2023年度決算と事業報告は無事承認されました。
役員(理事と監事)の改選も行われ、全員(任期途中に後退した監事を含め)再任されました。なお、田村千尋役員より理事長辞任の申し入れがあり、再任された理事で臨時理事会を開催し互選により、遠藤包嗣(えんどうかねつぐ)役員の理事長就任が承認されました。副理事長は引き続き田口俊夫役員です。任期は今年7月1日より2年間となります。
また、2024年度事業計画も、学術研究を深め国内外の学会等で発表すること、その一環としての研究資料アーカイブを充実すること、また田村明の著書目録が完成したことで田村明の著書を読む「読書会」を定期的に開催することが決まりました。
次に、総会記念講演として、都市社会学の専門家である青木淳弘さんより、田村明研究の視座等についてお話がありました。
2024年
5月
24日
金
田村明の市民像勉強会
田村明『自治体職員の誇り「市民の政府」のスタッフとして』(地方自治職員研修571号PP12‐13〈2008年4月〉を読む (檜槇貢)
田村明さんの「市民」をどう読むか、がテーマである。
その勉強会に参加した。
対象にしたペーパーは表題のもの。
NPO法人田村明記念・まちづくり研究会メンバー6名(在野の研究者2名、博士課程1名、社会人大学院生1名そして韓国とドイツの研究者)の協議となった。
横浜市役所1階にある横浜市民協働推進センターで16時から18時過ぎまでのフリートーキングだった。
市民、住民は地域政策、都市政策の名宛。
市民、住民のために地域政策を研究しその実現の途を模索する。
田村さんもそれは同じだと思っている。
議論でえぐり出したことは2つ。
1つは自治体職員が「市民に所有されるものだ」ということ。
もう1つは市民の政府の実現は制度変更ではなく、自治体職員が学び、変わることだ。
この論文は地方分権一括法が施行され、地方分権が定着するかに見えたころの文章で、市民の政府を実現できる運動を自治体職員にしかけている。
田村明さんは都市自治を実践者だった。
1960年代から10年の時期に横浜市を大きく変えた。
それまでの東京の郊外から都市ヨコハマへの実現の途を創り上げた。
この論文は田村明さんにとっての「まちづくり」を語っているのではないか。
自治体職員は地方公務員法以前に市民の所有なのだ。
パブリックサーバント(公僕)とは市民の所有物だという認識がいる。
そんな指摘を確認評価したい。
市民の政府は分権制度によって創られるものではなく、市民の所有物の自治体職員がそのような行動をとることによって初めて市民の政府が実現する。
それが田村明の意図であり、田村さんから私たちに向けた「宿題」である。つまり、田村さんは自身の市民論を詳細に整理せず、それをどう読み取り現代社会で実践的に生かすかは我々の仕事だと理解する。
次回は、6月4日(火)午後4時より市民協働推進センターで。NPO会員外でも参加可ですが、課題図書24「都市政策における保守と革新」1968を読んでくること。NPOのHP「ホーム」→「田村明」→「著作」下段に掲載しています。
2024年
4月
30日
火
News from NYC ニューヨーク学会参加報告
Urban Affairs Association(以下、UAA)の学術大会がニューヨークのタイムズスクエアに位置するマリオット・マーキスホテルで開催された。私にとって「世界の首都」は初めての訪問。とにかくすべてが大きい。東京に住んでいれば、大抵どこの大都市に行っても、それほど驚くことはない。世界における日本のプレゼンスが全体的に凋落してきているとはいえ、東京以上に栄えている都市を探す方が難しい。しかしニューヨークは違った。地方から初めて上京した人が都会に圧倒されるという話を聞いたことはあったが、生まれて初めてその感覚を味わうことができた。その活気にも人間の多様性にも、そして大都会としての歴史の厚さにも、圧倒されて、初日はただホテルについてそのまま疲れて寝てしまったほどであった。都市について研究しようとするのに、ニューヨークにも行ったことがないなんて、と田口さんに言われていたけれども、ようやく身を持ってそれを実感した。このことだけをとっても私がここにきた意義があったと思えるほどである。そして改めて米国の物価高騰と歴史的な円安にも関わらず、こうしてニューヨークの学会出張に派遣してくださった田村明記念・まちづくり研究会の皆さまに感謝したい。
UAAの大会自体は4月23日から27日が開催期間であった。アメリカ国内からの参加者が比較的多い印象を受けたが、ニューヨークということもあり、世界中からの参加者に会うことができた。私が会話を交わした限りでは、都市計画や建築を専門としている人が多かった。どのようなオーディエンスが参加しているのかを事前に想定してテーマの切り出し方の戦略を立てることは、とりわけ、研究成果を発信するうえでは重要である。この点については後述するように反省すべき点もあった。
私自身が今回発表を行ったポスターセッションは4月25日(木)の午後2時半から午後3時までの30分間であったが、その前後にそれぞれ30分のポスター展示時間が設けられているので、トータルで1時間半ほどの研究成果の発表時間が与えられていた。私が今回こだわったのは、田村明とそれに関わる人々、つまり「個人史」をアーカイブすることが現代の都市空間のあり方を考える上で重要であるという点を強調することであった。これは2023年にメルボルンで開催された社会学の国際学会(ISA)での口頭発表でもらったコメントやディスカッションを踏まえたものであった。特に政策史として語られる革新自治体の「革新性」を考えるにあたって、むしろ「個人」がどのように動いたのか、ということを考えなければ意味がない。私はそのような立場を強調した。幸いにしてそのようなアプローチは斬新であるとして好意的に受け止められることが多かった。ただし、ここで先ほど述べたオーディエンスの関心というものが問題となった。すなわち社会学者が多かった前回の国際大会の場合には、いわゆる「正史」からこぼれ落ちる「個人史」を拾い上げるということの意義は、特に必要以上の説明をしなくても理解されやすかった。しかし今回のようにより広範な領域(広い意味での「都市学」)からの参加者が見込まれる場合には、そうした「個人史」の研究がもつ「効果」についてより明快な答えを要求されることが少なくない。したがって私の発表がどこか曖昧なものに見られてしまった懸念は否定できない。今回寄せられた「効果」の宛先は、環境問題、ジェントリフィケーション、アフォーダブルハウジング、創造産業の誘致、そして安全な都市といった現代都市社会がある意味で普遍的に共有する問題に対する解決であった。対して我々がこれまでに行ってきた研究の中心にあったのは、田村明を中心とした歴史的な事実の解明、そして、そこからいかなるインプリケーションを引き出せるのかということであった。前者については随分と研究が進んできたように思うが、後者については更なる追究が必要であることを痛感している。もっとも、我々の関心や活動について口頭で説明を行い、また事前に作成しておいた英語版のWebページへと誘導できたことはそれなりに成果があったと思うし、ポスターセッションというものの性質を生かすことができたと自負している。
最後に今回のUAAでの発表とその反応を踏まえて、我々の今後の課題について所見を述べておきたい。まずは田村明の資料のアーカイブ化(日本語・英語両方とも)は継続して進める必要があることは間違いない。この部分はNPOのアイデンティティとも言える部分でもある(英語版のWebのドメインもそれを意識したものにした)。最初に田村明やその周辺の人びとの営為、またそれが生み出したユニークなまちづくりの活動になんらかの形で興味を持ったとしても、その資料が簡単に手に入らなければ、そのまま忘れられてしまう。今回のポスターセッションでも、テーマに興味をもったオーディエンスからなんらかの読める資料はあるのかについて問い合わせが複数寄せられた。これは継続的にページをアップデートしていくことで対応可能である。次に我々の既存の研究成果を現代的な都市課題とどのように結びつけるのか、ということである。これは、例えば、企画調整機能や都市科学研究室ということの歴史的な検証に意味がないというわけではない。しかしそこから見出された事実、特に「個人」の分析からなにかしら役に立つ「効果」が取り出せるというわけでもないということである。これは個人的な反省でもあるが、我々はもう少し現代都市空間の問題について、田村明や1960年代〜70年代という文脈を離れて勉強する必要があるように思う。それによってはじめて「企画調整」や「革新性」に関する研究の発展的な可能性が見出されるのではないか。また個人的に重要だと感じたのは、UAAにおけるジェンダー比の問題である。これまで都市研究においては男性中心的な傾向が見られたように思う。しかし参加者のジェンダーバランスも刻々と変化しており、実際に田村明に興味を持ってくれた参加者の多くが女性であったことも注意すべきであろう。それはただちにNPOに女性の参加者を増やすべきである、ということではない。むしろこれまで十分に論究されてこなかったジェンダーの理論的な視点も踏まえたうえで、都市研究の可能性を構築すること、そしてそれを通じて田村明のまちづくりや自治体における「個人」のあり方についても考えることが必要不可決であると思う。以上のことは、もちろんひとりの努力では実現不可能なことであり、引き続きNPOのメンバーの協力を得ながら進められたら幸いである。
2024年
4月
04日
木
大通公園の彫刻
田村明は著書『都市ヨコハマをつくる』(中央新書1983)で高速道路地下化に伴なう大通公園を完成させ、そこにまだ贅沢だといわれる彫刻を置く苦労を述べている(p.50)。税金を用いないで設置するために「機会をとらえてよい寄付者」を見つけたと記述していた。公園には三体の彫刻がある、オーギュスト・ロダン、ヘンリー・ムーア、そしてオシップ・ザッキンの作品である。筆者は田村本人に、寄付者は誰なのか聞いたことがある。民間の会社という以外教えてくれなかった。
そこで、その寄付者を探してみることにした。公園を管理する南部公園緑地事務所に問合わせた。親切な担当者が管理台帳をくくってくれた。答えは意外なものだった。確かにザッキンは寄附だが、あとの二つは市が購入して設置している、と。では、その寄付者を教えて欲しいと頼んだ。相手方に問合せて承諾をもらい明らかになった。東京に本社がある不動産管理会社でM殖産株式会社という。その前身が1951年に設立された「あるメーカー系列の自動車販売会社」だった。M殖産から「大通公園周辺に当時土地をもっており、新たに整備された大通公園をよりユニークな横浜のシンボルとしていくために近代彫刻はどうか、と考え寄贈に至った」と回答があった。物語はここで終わるはずだった。素晴らしい話だったが、それならば他にも不動産価値が上がった土地をもつ地権者は多くいるはずで、他にも寄附がありそうな気がした。
筆者はM殖産のホームページで、大通公園沿いにあるワシントンホテルを所有していることを確認していた。そこで、1990年にオープンしたワシントンホテル敷地の前の用途を1968年の『中区明細地図』で調べた。驚いたことに、そこには伊勢佐木警察署と中消防署があった。県と市の施設である。不思議なことにその二つともに大通公園沿いに離れた処にあることを知っていたので、移転したことを理解した。その移転先の土地には「あの自動車販売会社」の駐車場があった。手狭な敷地を広めの敷地と交換したような印象をもった。そこで、筆者は不動産登記所で登記を調べた。1973年に神奈川県とM殖産は土地交換をしていた。田村がいう「機会をとらえた」とはこのことであった。ワシントンホテル(現在はチサンホテル)が建つ場所は、地下鉄伊勢佐木長者町駅と幹線道路に隣接したより価値の高い土地といえる。なるほど、これだけの背景があると彫刻の寄付につながるのかと納得してしまった。ただし、ひとつの仮説だが、警察署が手狭で移転の情報を事前に掴まなければ、土地交換は発生しなかっただろう。同時に、周辺の不動産情報をもっていることも必要だった。これをして、田村流の総合調整という。
田村の物語には秘密が多くあって、その歴史的事実を追うことが簡単でない。田村たちが横浜のまちづくりで築いた実績は、それらの秘密があっても損なわれることはない。ただし、次世代の市民やプランナーそして自治体職員たちが田村たちの総合調整機能を学ぼうとしても、難しくなることがある。だからこそ、我々のNPO法人では学術研究を深めることで、歴史的事実を明らかにして、次世代の若者が学べるアーカイブを構築してきた。やるべき対象は限りなくあり、成果がでるまでには長い時間がかかる。それでも、若者たちが関心をもってくれるかどうかは、まだ分からない。(田口俊夫)
2024年
3月
03日
日
Jane Jacobs and Akira Tamura ジェーンジェイコブズと田村明
いまジェーン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』を読み返している。50年前に買った英語版で初版は1961年である。因みに黒川紀章が翻訳したことになっている日本語版(SD選書)は、オリジナル本の半分しか翻訳していないようだ。当時の英語力そしていまの英語力でも苦労しながら読んでいるが、最近友人から自治体運営についての章(Governing and planning districts)があることを聞いた。早速読んで吃驚した、これは正に田村明でないか・・・と。行政組織が縦割りで相互の調整がなく、横割りになっているのは大きく分割されたそれぞれの地域事務所しかない。公聴会も形式的なもので、事前に結論は決まっているようだ。それを改善しようとして、新たな調整機関がつくられるが、自らも調整できない調整機関となっている。
そこで、ジェイコブズは最適な人口規模で関係機関をまとめた「地域事務所(District Administration)」をつくることを提唱している。ニューヨークでもバラBourghがあるのだが、規模が大き過ぎ権限も限られている。その地域事務所に副市長級の役人を据えるか、公選の事務所長を置くべきという。しかし、これで、縦割りの総合調整ができない現状を改善できるかは、やはり役人の意識次第となる。ジェイコブズを1968年の横浜市に連れてきたかった。そして、企画調整室をつくった田村明に会わせたかった。
I am currently rereading Jane Jacobs' The Death and Life of Great American Cities, an English edition I bought 50 years ago, first published in 1961. The Japanese edition (SD Selected Books), which Kisho Kurokawa, famous architect, is supposed to have translated, seems to have translated only half of the original book. I read it with difficulty, even with my English skills then and now, but recently I heard from a friend that there is a chapter on local government management (Governing and planning districts). I was surprised when I read it and wondered if this was indeed Akira Tamura. The administrative structure is vertically divided and there is no mutual coordination, and the only horizontal division is in the respective regional offices, which are largely divided. Public hearings are also a formality and conclusions seem to be decided beforehand. In an attempt to improve this, a new coordinating body is created, but it has become a coordinating body that cannot coordinate itself.
Jacobs therefore advocates the creation of 'district administrations' that bring together the relevant agencies at the optimum population size. In New York, there are Boroughs, but they are too large and have limited authorities. The idea is that there should be a deputy mayor-level official or a publicly elected head of the office. However, whether this will improve the current situation, where comprehensive coordination is not possible due to the vertically divided system, will still depend on the awareness of the officials. I wanted to bring Jacobs to Yokohama City in 1968. I also wanted her to meet Akira Tamura, who created the Planning Coordination Office.
2024年
2月
25日
日
小雀町での講演
NPO法人ぐるーぷ・ちえのわは、戸塚区小雀町でコミュニティ活動している。その連続講座「大人の寺子屋」に招かれて、我々の研究活動をお話しする機会を頂戴した。我々の研究とは、田村明が1970年に設定した市街化調整区域の指定経緯とその後の経過を調べ、将来的に農業と住居が共存できるまちづくりの可能性を検討したい、と思っている。これまでも、ちえのわさんにお世話になり、地元の農家さんを紹介していただき、お話を聞いてきた。当日(2024年2月20日午後)は、田口が講師を務め、18名の参加者(農家、住民、町内会役員、事業者など)に来ていただいた。簡単に結論がでる話ではないが、これからも地元の人たちとお付き合いして研究を深めていきたい。
2024年
2月
25日
日
田村さんの顔
いま田村明さんの著書目録を整理している。ほぼ分かっているだけで、論考365、著書71だから、数が多い。すべて現物に当たって確認することを原則に活動している。そのため、えらく大変な作業になっているが、でもどこか楽しい作業でもある。それは、自分が知らない田村さんに会えるからである。つい最近出会った論考は、横浜市の動物園誌『ZOOよこはまに』に1973年書いていたものだ。論考の内容は別にして、そこに掲載されていた田村さんの写真に驚いた・・・精悍な企画調整局長の姿であった。この表情で盛んに仕事をしていたのだな、と妙に感心してしまった。自分が知っている田村さんは、そのほとんどが1978年に左遷させられてからである。そして、1981年市を退職してからの表情は温和な大学教授であった。部下は大変だっただろうな・・・と思ってしまった、失礼ながら。
2024年
1月
30日
火
Japan Urban Planning Council 日本都市企画会議
田村明は実におおくの活動をしてきた。その全貌を弟子を自認してきた人たちも補足できていない。いま、田村の著書目録を整理していて、驚くほど多様な場で論考や著書を書いていることを発見する。
1970年代から80年代にかけて活動した日本都市企画会議の雑誌に、田村は論考を発表している。ただし、この日本都市企画会議なるものの実態が分からなかった。ネット検索や図書館情報で、まったくヒットしないのである。そのような中で、たまたまヒットした雑誌情報から、その編集者を探し、その編集者から当時の関係者を教えていただいた。その人物がNPO法人まちづくり協会理事長の増田勝氏であった。
増田氏は日本都市企画会議の事務局を務めた片桐達夫(都市総合研究所代表)の事務所に所属していたことがあり、日本都市企画会議の動きを脇で見ていたという。増田氏は田村明とも親交があり、保存されていた日本都市企画会議の年報を寄贈していただいた。その資料から、1967(昭和42)年、自治体による全国的な研究・研修機関の本格設立までの仮機関として総合計画センター(片桐達夫が事務担当)が設置されたことが判る。調査研究や研修活動の実績を積み、1973(昭和48)年、研修受講者OBや県庁所在都市の企画担当者が中心となり同年5月に設立発起人会が開かれた。その後、1974(昭和49)年6月に正式に設立された。田村は横浜市企画調整局長として、当初から当該会議体に関与してきた。
ただし、その後、増田氏によると「そんな中で、都市総合研究所自体、経営の悪化に伴い吸収合併され、日本都市企画会議も時代とともに運営が厳しくなり、かつ関係者が亡くなり活動が止まった状態になってしまった」という。
Akira Tamura has been involved in a great many activities. Even those who have recognised themselves as his disciples have not been able to supplement the full picture of his work. In sorting through the catalogue of Tamura's books, we discover that he has written essays and books in an astonishingly diverse range of venues.
Tamura published an article in the magazine of the Japan Urban Planning Council, which was active from the 1970s to the 1980s. However, I did not know what this Japan Urban Planning Council was really about. There were no hits at all in internet searches or library information. In such a situation, I found the editor of the magazine through the information I happened to find, and the editor told me about the people involved at that time. That person was Masuda Masaru, President of the NPO Machizukuri Association.
Mr Masuda had been a member of the office of Tatsuo Katagiri (President of the Urban Research Institute), who served as the secretariat of the Japan Urban Planning Council, and he had been watching the activities of the Council from the side. Masuda was also friends with Akira Tamura, who donated a preserved annual report of the Council. From these documents, it is known that in 1967 (Showa 42), the General Planning Centre (with Tatsuo Katagiri in charge of administration) was established as a temporary organisation until the full-fledged establishment of a nationwide research and training organisation by local authorities. After accumulating a track record of research and training activities, in 1973 (Showa 48) a meeting was held in May of the same year by the promoters of the establishment, mainly consisting of alumni of training courses and those in charge of planning in the cities where the prefectural governments were located. It was officially established in June 1974. Tamura had been involved in this body from the outset as Director General of the Planning and Coordination Bureau of the City of Yokohama.
However, according to Masuda, "his office itself was merged with the other institute due to deteriorating management, and the Council also became difficult to manage over time, and its activities came to a halt when the people involved passed away".
2023年
11月
29日
水
高速道路60年史 the 60-year history of Yokohama motorway
金近忠彦氏講演会 概要
2023年11月22日(水)午後6時~8時45分
なか区民活動センター研修室1号
参加者:講師1名、聴衆5名、計6名
衝撃的な講演内容だった。歴史的事実の研究は多角的にアプローチしないと、見誤ることになりかねない。どの専門分野でも暗黙知がある、それを持たない専門外の人間には伺い知れないものがあることを実感した。
首都高速道路の地下化とベイブリッジについて金近氏は語ったが、その背景となる組織間の関係や有力人物の関与などが主たる内容だった。高速道路地下化は1968年からわずか一年間で決着した前代未聞の事案であり、それに係わった組織間の調整は困難なものであった。当該事案については田口俊夫による研究論文(日本建築学会計画系論文集,769巻号,p.603-613,2020-03、土木学会論文集,Vol.79,No.9,22-00290,2023)があるが、不確かであった「国と市の費用分担の件」について、道路専門家である金近氏の解説がおおいに参考となる。
地下化交渉が開始するには、建設省から求められた費用増加分を横浜市が受け持つ必要があった。田口はその負担分を、首都高速道路公団に対する横浜市からの「出資金」で賄った、と類推した。金近氏は派大岡川埋立て上部(地下に高速道路)と既存側道を使った関連街路事業(市道整備)で、対応したと結論づけた。つまり、企画調整室の「経緯メモ」に記載されていない市道路局高速道路課(池澤利明課長)の決断があったとしている。
池澤は「地下化の立役者」といわれる企画調整室部長の田村明と対立しており、建設省寄りと見られていた。この池澤が飛鳥田市長の地下化方針に従い、調整役を果たした。地下化の経緯は田口論文にあるように、吉田川での高速道路との共存による地下鉄工事への甚大な影響を被る運輸省の猛反発で、建設省も政治交渉で妥協する。ただし、派大岡川での決着がなければ吉田川での交渉に進めなかった。因みに、池澤は自宅に、飛鳥田と一緒に撮った当該関連街路事業の完成式典の写真を生前飾っていた。
田村の著書によれば、地下化事案によって建設省は横浜市に禍根を残すことになったと読める。金近氏によれば、組織間で正式に決着した(建設事務次官と市長)事案で禍根を残すことはありえない、という。別に、禍根を残す大きな事案があった。それが、市が米軍戦車を止めた「村雨橋事件」である。1972年8月に車両制限令(道路管理者による通行する車両の幅・重量・高さ・長さ等を制限する政令)を根拠に、20トン制限の橋に100トン近い戦車輸送車を通せないとした。飛鳥田市長に率いられたデモ隊が、10月に閣議決定で政令が改定(非常時の自衛隊車両と駐留米軍に非適用)されるまで通行を阻止した。革新市政のおおきな実績となったが、国政を巻き込む一大事件であった。これによって、「横浜市は独立国か」と国の官僚に揶揄される。独立国なら国からの補助金もいらないだろう、という論理となり、本来出るべき補助金を渋られる事態が続いていく。それが改善されるのが、飛鳥田以降の細郷道一市政(元自治事務次官)になったからのことである。ベイブリッジ事業はこのため、計画と設計が飛鳥田市政で完了していたにもかかわらず、事業化の目途がつかなかった。
そして、車両制限令の知恵を飛鳥田市長に出した池澤は、飛鳥田市政で何度も国会への陳情団を組織したが、国は聞き置くだけで効果がまったくなかった。また、NHKによる番組「プロジェクトX」でベイブリッジが取り上げられ、その立役者が田村明でなく池澤となっていたことに、田村が激怒したことがある。なにしろ、金近氏の講演は、政策がどう立案され事業化されていくかについて、国と地方の政治家と官僚が係わる「仕組み」が垣間見せた。くれぐれも、当該講演録の校正で、現役の官僚が公開を望まない核心部分が消されないことを願っている。
The content of the lecture was shocking. Research on historical facts must be approached from multiple perspectives or it can be misguided. I realized that there is tacit knowledge in every field of expertise, and that there are things inaccessible to people outside of the field who do not have such knowledge.
Mr. Tadahiko Kanechika, highway expert, talked about the history of the undergrounding of the Metropolitan Motorway and the Bay Bridge, but he mainly focused on the inter-organizational relationships and involvement of influential people behind the project. The undergrounding of the motorway was an unprecedented project whose planning coordination among the concerned organizations was completed in just one year from 1968. The case was studied in research papers by Toshio Taguchi (Journal of the Architectural Institute of Japan, Vol. 769, p. 603-613, 2020-03, and Journal of the Japan Society of Civil Engineers, Vol. 79, No. 9, 22-00290, 2023). The explanation by Kanechika is very helpful.
When starting full negotiations for undergrounding, it was necessary for Yokohama City to share in the increased costs requested by the Ministry of Construction. Taguchi examined that Yokohama City's "deposit" in the Metropolitan Motorway Corporation was used to cover this burden. Kanechika concluded that the city responded by using the upper part of the Haohka River landfill (motorway underground) and related street projects using existing side roads (city road maintenance). In other words, he states that there was a decision made by the Motorway Division of the City Highway Bureau (Toshiaki Ikezawa, section chief) that was not included in the "background memo" from the Planning and Coordination Office.
Ikezawa was at odds with Akira Tamura, the director of the Planning and Coordination Office, who is said to be the "driving force behind the undergrounding" and was seen as leaning toward the Construction Ministry. Ikezawa was part of the coordinating body of the undergrounding project by Mayor Asukata. As described in Taguchi's paper, the process of undergrounding was fiercely opposed by the Ministry of Transport, which suffered tremendous impact on subway construction due to the coexistence with the motorway along Yoshida River, and the Ministry of Construction finally had to compromise through political negotiations. However, they could not proceed to negotiations on the Yoshida River without a settlement on the Haohka River. Incidentally, Ikezawa displayed a photo of the completion ceremony of the relevant street project taken with Asukata at his home before his death.
According to Tamura's book, the undergrounding project left the Ministry of Construction in a hotly disputed situation with the City of Yokohama. According to Kanechika, it is unlikely for a matter that has been officially settled between organizations (between the vice minister and the mayor) to leave a bad feeling lingered. There was another major case to cause severe frictions between them. In August 1972, based on the Vehicle Restriction Order (a government ordinance issued by the road administrator restricting the width, weight, height, and length of vehicles that may pass on roads), the city stopped a tank carrier weighing nearly 100 tons from passing over a bridge with a 20-ton limit. Demonstrators led by Mayor Asukata blocked the passage until the Cabinet decided in October to revise the ordinance (making it non-applicable to SDF vehicles and U.S. troops stationed in Japan in case of emergency). This was a major achievement of the innovative city administration, but it was also a major incident annoying the national government. This led to the bureaucrats of the national government ridiculing the city, saying, "Is Yokohama an independent country? The logic was that an independent country would not need subsidies from the central government, and the state continued to be reluctant to give subsidies that Yokohama should have needed. This situation was only improved after Asukata was succeeded by Michikazu Saigo, former vice-minister of local government affairs. The Bay Bridge project was thus not on track for implementation, even though the planning and design had been completed during the Asukata administration.
Ikezawa, who had presented the wisdom of the vehicle restriction order to Mayor Asukata, organized petitions to the Diet during Asukata’s administration for the Bay Bridge construction, but the state merely listened to him, to no effect. And, Tamura was outraged when the Bay Bridge was featured in the popular television program “Project X” by NHK and Ikezawa, not Tamura, was the architect of the project. Kanechika gave us a glimpse of the "mechanism" by which national and local politicians and bureaucrats are involved in the planning and implementation of policies. I hope that the proofreading of the transcript by the lecturer does not miss any of the important details that current bureaucrats would not like to publicize.
2023年
10月
01日
日
田村明の肉声公開 Voice recording of Akira Tamura
田村明研究者でも、田村の肉声を聞いた人がどんどん少なくってきている。この度、長らく「横浜田村塾」を運営された真矢正弘さんが、田村の最後の講演音声記録を公開してくれた。田村が亡くなる前月(2009年12月)のものである。酸素呼吸器を身に着けているが、いつものように張りのある声であった。
2023年
9月
23日
土
土木学会論文集に高速道路地下化論文が掲載されました Taguchi's motorway undergrounding thesis accepted by the Japan Society of Civil Engineers
横浜市都心部における高速道路地下化事案にみる自治体による総合的調整の役割
田口 俊夫
土木学会論文集2023 年 79 巻 9 号 論文ID: 22-00290
発行日: 2023年
公開日: 2023/09/20
DOIhttps://doi.org/10.2208/jscejj.22-00290
ジャーナル 認証あり
抄録
首都高速道路横羽線の横浜都心部への延伸部分を地下化した事案は, 一旦都市計画決定した高速道路事業を変更したものである.首都高速道路を所管する建設省と高速道路と路線で競合する市営地下鉄を所管する運輸省, そして首都高速道路公団と神奈川県に対して, 都心部再開発の軸線として大通公園を構想する横浜市が主導して 1968年から一年間に及ぶ総合的調整作業を行った.自治体が都市景観の保全という地域的価値観を掲げ, 路線的かつ構造的に競合する都市インフラ事業を総合的に調整した.地域の価値観により都市づくりを総合的に実践するため, 飛鳥田一雄市政は都市プランナー田村明を招き企画調整室を立ち上げ, 総合的調整の事務局とした.当研究の目的は, それまで詳細が不明であった高速道路地下化に関わる総合的調整過程を明らかにすることである.
解説(田口)
当該論文は、日本建築学会計画系論文集Vol.85 No.769 2020/3に採択掲載されたものを、新たな経緯資料の発見によって補足したものです。高速道路とまちづくりに係わることから、本来的に土木の世界での評価も求められるものでした。残念ながら、建築学会は補足論文の趣旨を共有できなく、採択不可となりました。それゆえ、まちづくりと行政運営の観点から、土木学会が1960年代事案の意義を認めた頂いたことに感謝します。
2023年
8月
27日
日
自治体学会川崎大会でポスターセッションに参加
2023年8月26日土曜日、自治体学会川崎大会が開催されました。当NPOは会場のカルッツかわさき1階でのポスターセッションで、展示説明を行いました。1970年に横浜市企画調整室に設置された行政内シンクタンクである「横浜市都市科学研究室」についての研究成果を発表しました。当NPOから檜槇貢、青木淳弘そして田口俊夫が説明役で参加しました。NPOが進める行政関係資料を収集公開する「アーカイブズ」についてのご質問が多数ありました。ご見学ありがとうございました。
2023年
8月
18日
金
Report by Aoki about the ISA conference 国際社会学会発表
日時:2023年8月16日(水)午後3時から4時30分
会場:なか区民活動センター研修室2号(中区役所隣)
講師:青木淳弘(東京大学大学院博士課程・NPO田村明記念・まちづくり研究会会員)
青木淳弘がInternational Sociological AssociationのMelbourne大会で発表した革新自治体横浜市に集まってきた若者たちのライフヒストリー研究は、自治体職員がどう自分たちのモチベーションを維持しつつ都市づくりに挑んでいったかを明らかにしようとする意欲的な試みである。革新自治体論はその首長が社会党か共産党に支援されて当選したかで判別する研究があるが、青木は革新自治体の政治の革新性と政策の革新性に着目し、特に政治情勢が中道化するなかで「政策の革新性」を継続しようとする当時の若手職員たちに注目した。今後の研究の深化が期待される。
The life history study of young people who gathered in Yokohama, an innovative municipality, presented by Atsuhiro Aoki at the International Sociological Association's Melbourne conference, is an ambitious attempt to reveal how municipal officials maintained their own motivation and took on the challenge of urban development. While some studies on innovative municipalities discriminate whether their chiefs were elected with the support of the Socialist Party or the Communist Party, Aoki focused on the political innovativeness and policy innovativeness of innovative municipalities, particularly the young officials of the time who tried to continue their 'policy innovativeness' as the political situation became more moderate. Further research is expected to deepen this study in the future.
2023年
8月
10日
木
Tea House in Aizu 会津茶室見学
NPO会員の遠藤博さんは難病患者で、数年前に住み慣れた横浜から主治医がいる福島県会津若松に転居した。その彼が一念発起して千利休流の茶室を作ってしまった。やっと(数年間工事をやっていた)ほぼ完成した茶室を見学に、私用で(NPOの調査研究活動でなく)会津若松までやってきた。二畳の茶室は確かに狭いのだが、妙に落ち着く空間であった。まだ植栽などの庭園工事が残っているが、もはやお金がない…。ついでに、炉を切ったが窯の準備がまだできていない。遠藤さんが「風流人」であったことを実感した酷暑の8月1日であった。(文責:田口俊夫)
2023年
7月
04日
火
国際社会学会メルボルン大会に参加 ISA Melbourne Conference Report
From June 25 to July 1, 2023, I participated in the World Congress of Sociology held at the Melbourne Convention and Exhibition Centre (MCEC), a general convention facility in Melbourne, Australia. Like the Olympics, the International Sociological Association (ISA) holds a large-scale conference every four years that brings together sociologists from all over the world, and this year was the 20th such conference. As a post-Corona world congress, it was held in a hybrid format of in-person and online, but it attracted a total of over 4,500 participants, of which 3,024 were in-person, announced ISA President Sari Hanafi. The venue for this year's event was a so-called integrated resort (IR), which combines a conference center with casino facilities and hotels, and the large space was very lively as sociologists from various countries and regions of the world gathered there. Unlike Japan in the rainy season, Melbourne in the dry winter was cold, but I strangely forgot the change in climate with the excitement and tension of such a large venue.
I presented my research at the first morning session of the Urban and Regional Sociology Group (RC21) on June 27. The overall theme of the session was Civic Society, Public Institution and Governance, a topic strongly related to "planning and coordination" and "citizen government" in which we are conducting research at NPOs. I presented my research concept of rethinking "innovative local government" from the perspective of "individual experience," rather than institutions and policies. Following the individual research presentations, there was a question-and-answer session on basic issues, followed by a general discussion in the latter half of the session. Although my research is still in its budding stages, I felt that our perspective of seeking a deeper understanding of postwar local government and its connection to contemporary urban space through the collection and analysis of life histories had gained a certain degree of understanding. Although I was not able to communicate the contents in depth or discuss them in connection with further global academic trends due to my own lack of ability, I believe that the constructive comments and interest in our research were a valuable asset.
In addition to these academic exchanges, I was very happy to be able to reconnect with old acquaintances. It was a pleasure to have the opportunity to interact with Japanese researchers (strangely enough, I think we were able to have more active conversations and exchanges of opinions with each other than when we met in Japan). Also, a friend I met at a conference in Auckland last year came to my section meeting to offer support and comments. This personal connection was one of the things that made me truly happy to have attended this year's ISA conference.
Reflecting on the Q&A and comments at the conference, as well as on my own presentation, I have gained some insight into my perception of the current situation, as well as some challenges for the future. The first issue is how we should position and discuss the case of Yokohama City, including Akira Tamura. Needless to say, there are many cities in the world, and there are as many people who create cities as there are cities, but to what extent are the attempts made in Yokohama during Asukata-led city administration and the practices inherited from it suggestive for such people? At initial stage, I thought it would be important to extract a certain degree of universality from the case studies and derive a common denominator that would enable global comparisons. Recently, however, I have come to believe that it is more important to actively talk about particularities rather than commonalities, and the comments I received at this conference have further strengthened this belief. I wondered where the motivation of those who created the cities originated from (one commenter used the Japanese word "Ikigai," meaning "purpose in life"). What kind of outcome did this have in later times? What practices in the name of "planning and coordination" and "citizen's government" did Akira Tamura and those around him perform, and how did they make sense of their own work? There is no doubt that it is significant to talk about this particular experience. However, I think that we (at least I) have not yet sufficiently prepared the theoretical background to which we should conform when illuminating this particular experience. I would like to leave this as an issue for the future.
Another comment from several people was that they would like us to collect life histories of municipal officials who have had unique experiences, as many as possible and in as much depth as possible. This will provide material for thinking about local government in postwar Japan, but in terms of motivation, it will be an important reference for thinking about local government officials and governance in various regions of the world. I would like to continue to conduct interviews, but I also thought it important for us as an NPO to continue to maintain our role as an archive of such life histories (and, of course, documents related to urban development and local government).
Although there are many difficulties involved in conducting activities in English (partly due to my own inexperience with English), I believe that this will once again be an important opportunity for us to deliver our research activities to the world. Of course, it is important to publish completed papers, but I believe that it is also important to continue to promote the archiving and distribution of our work, and to share the achievements and practices of Akira Tamura and his colleagues with the world, and to open the way for us to think about city planning and local governments in a broader context, including both evaluation and criticism. I believe that this will open the way for us to think about urban development and local government in a broader context, including evaluation and criticism. I would like to thank you from the bottom of my heart for giving me this precious opportunity, and I hope that I can continue to contribute to such activities in my own way to the best of my ability.
By Atsuhiro Aoki
2023年
7月
02日
日
記録・革新自治体 A Record of Yokohama Innovative Local Government
横浜市における飛鳥田一雄革新市政(1963~1978)が終焉を迎えた1978年に、市役所有志と革新市政を支えた研究者たちによって当該記録がまとめられました。よこはまの「革新市政」を総括する冊子は、岡村駿(元都市科学研究室)が実質編集発行責任者でした。岡村駿氏の許諾を得て、ここに主要部分を公開します。当該冊子の所蔵は横浜市中央図書館ですが、著作権は岡村氏たちに帰属します。トップページ→研究資料→企画調整機能で検索できます。
2023年
6月
12日
月
まちづくり研究会の記録を掲載しました History of Machi-ken being opened on the website
「まちづくり研究会」とは、1980年に結成され、その後約20年間つづいた横浜市役所の若手職員たちによる自主研究会です。当時すでに左遷された田村明元企画調整局長を囲む勉強会でした。若手職員が自分たちが携わる仕事の課題や悩みを、自分の言葉で語り意見交換した自由な場でした。田村さんは会の最後に短くコメントするだけで、若手職員たちの自主性を尊重してくれました。おおいに語り学んだ役所内「番外地」のような場でした。その記録を公開します。
2023年
6月
12日
月
Christian Dimmer クリスティアン・ディマさんの博士論文を掲載 C. Dimmer, professor of Waseda Univ., opens his doctorate dissertation written about Yokohama's urban design and Planner
この度、当NPOの会員になった早稲田大学教授のディマさんの博士論文(部分)を掲載します。研究資料→都市デザインでご覧になれます。
2023年
4月
30日
日
米国ナッシュビルでの学会参加
テネシー州ナッシュビルでの学会に、4月27日と28日参加した。Urban Affairs Association(都市社会学会)第51回大会で、NPO田村明研究会より田口俊夫が論文を発表した。発表題目は、「横浜都心部における高速道路地下化事案」である。会場はナッシュビル中心部にある巨大ホテルで、コンベンション施設を借り切って、146の分科会が開催された。正直なところ、アウエー感がぬぐい切れなかった。田口の分科会はInter-governmental Relations行政組織間調整と理解できるものだったが、社会学の分野はどうしても「社会的弱者minority」を行政組織と対峙して、その権利をどう守るかに焦点があるようだ。分科会では90分の枠で5名が発表したため、時間が大幅に限られていた。行政組織間調整というよりは、行政組織の問題をどう指摘するかに力点が置かれているように感じた。毎回、国際会議で感じる自分の英語力のなさが今回も響いて、15分での論理的な説明に難しさを感じた。それでも、30名ほどの研究者が集まり、特に田口の発表には、「よくもまあ、遠い日本から来てくれましたね」と初老の女性研究者から熱い目線を感じた。数千人の参加者の中で、日本人はどうも田口一人であったようだ。中国人と韓国人は少数いて、ほとんどが在米の留学生か研究者のようにみえた。ナッシュビルはカントリーミュージックの聖地で、街中にライブハウスが並んでいる。観光する間もなく、慌ただしく参加して、次なる目的地のニューヨークで人に会うために空港に急いだ。知人の紹介で、かつてニューヨーク市で都市計画担当官を務め、退職後に法律家に転職し、今はニューヨークで都市計画関係を専門とする法律事務所を開いている人物に会う予定である。それにしても、国際会議では毎回緊張する。
2023年
4月
23日
日
2022年度決算社員総会での記念講演の報告 Commemorative speech delivered by the urban design office of Yokohama city at the annual meeting of NPO Akira Tamura
2023年4月20日(木)午後6時より、NPO田村明研究会の社員総会での記念講演として、横浜市都市デザイン室の光田麻乃室長と桂有生係長から「横浜のこれからの都市デザインを考える『未来会議』の報告と今後」と題して講演があった。1時間の公演と30分の質疑応答で、参加者からいろいろな意見がでた。都市デザイン担当設置から50周年経ち、これからも横浜市にとって必要とされる存在であり続けられるかが問われる。なお、講演会の詳細については、テープ起こしをして公開しますので、少々お待ちください。
On 20 April (Thursday), 2023, at 6 p.m., Asano Mitsuda, Chief of the Yokohama City Urban Design Office, and Yusei Katsura, Deputy chief, gave a lecture entitled "Report of the 'Future Conference' on Future Urban Design in Yokohama" as a commemorative lecture at the general meeting of the NPO Akira Tamura Study Group. 1-hour performance and 30-minute Q&A session, Various opinions were expressed by the participants. The question is whether the urban design office can continue to be an indispensable entity for the city in the comng future, 50 years after the establishment of the Urban Design. The details of the lecture will be transcribed and made available to the public in due course.
講演者プロフィール Profile of lecturers
Mitsuda Asano光田 麻乃(みつだ あさの)Chief of the urban design office横浜市都市整備局都市デザイン室長
2000年、横浜市役所に建築職で入庁。
職員時代は、緑政局、都市計画局を経験し、昇任時に土木職に転職。教育委員会学校計画課、財政局、都市整備局MM21推進課、土木事務所、都市整備局企画課を経て、現職。横浜市出身。筑波大学時代に岩崎駿介氏(元横浜市都市デザイン担当副主幹)に師事。
Katsura Yuki桂 有生(かつら ゆうき)Deputy chief of the urban design office横浜市都市整備局都市デザイン室デザイン調整担当係長
東京芸術大学建築学科卒業後、安藤忠雄建築研究所、山本理顕設計工場を経て、2007年、公募による専門職として横浜市都市デザイン室。2010年正規職員となり、2023年より現職。主なプロジェクトに横須賀美術館、象の鼻パーク、新市庁舎コンセプトブックなど。鎌倉市生まれ、藤沢市育ち、横浜市南区在住。
2023年
3月
15日
水
神奈川大学人間科学部学生による社会調査とのコラボ
神奈川大学人間科学部学生とNPO田村明研究会のコラボレーション「横浜市の農地利用に関する現状と課題」Collaboration with the students of Kanagawa University and NPO Tamura on the research about the urban agriculture in Yokohama
2023年3月13日(月)午後4時より6時
神奈川大学みなとみらいキャンパス3015号教室
発表者:笹本明紀(4年生)、佐藤香波(3年生)、百々葵生(3年生)、楡井咲良(3年生)そして清水和明(神奈川大学人間科学部・特任助教)
参加者:25名(神奈川大学学生、都留文科大学学生、神奈川大学教員、横浜市農政部門職員、NPO会員)
久しぶりに、若者たちの熱気に満ちた公開研究会となった。神奈川大学で社会調査法を学ぶ学生たちが、横浜の都市農業に関心をもち調査研究を行った。その活動に対して、NPO田村明研究会の人的ネットワークを活用し、情報提供や研究への助言をしてくれる人材を紹介した。「なぜ都市化した横浜に、これほど農地が息づいているのか」という学生たちの素朴な疑問から始まった。文献資料を読み込み、関係者にヒアリングをし、現地を歩き回った。飛鳥田一雄市長と都市プランナー田村明が「都市農業」を構想してから60年が経っている。2015年に都市農業振興基本法ができて「農地は都市にあるべきもの」となったというが、あまりにも国の気付きは遅い。学生たちと清水先生の研究成果はまた別途、その詳細を掲載する。横浜の農地は、田村が1970年に果敢に設定した市街化調整区域で強く守られているが、それでも住宅建築や都市的土地利用で区域が蚕食されつつある。自治体施策の綻びも見られ、かつて田村が構想したように自治体の「総合的な施策展開」が求められる最後の段階に来ている、と感じる。(文責:田口俊夫)
For the first time in a long time, our open research meeting was filled with the enthusiasm of young people. Students studying social research methods at Kanagawa University were interested in urban agriculture in Yokohama and conducted research. The NPO Akira Tamura utilized its human resource network to introduce people who could provide information and advice on their research. The project began with a simple question from the students: 'Why is there so much agricultural land in urbanized Yokohama? They read literature, interviewed relevant people and walked around the city. It has been 60 years since Mayor Ichio Asukata and urban planner Akira Tamura conceived the idea of “urban agriculture,” and although the Basic Law for the Promotion of Urban Agriculture was passed in 2015 and “agricultural land should be in cities,” the state is too slow to realize this importance. The research findings of the students and Dr. Kazuaki Shimizu of Kanagawa University will be published soon in more detail on our website. Farmland in Yokohama is strongly protected by the Urbanization Control Zone, which Tamura boldly established in 1970, but even so the zone is being evaded by housing construction and urban land use. There are signs of an inconsistency in local government policies, and I feel that we are now at the final stage where the local government is required to “develop comprehensive policies,” as Tamura once envisaged. (Responsibility: Toshio Taguchi)
2023年
1月
31日
火
水田とみなとみらい Paddy fields and Minatomirai
港北ニュータウンでは都市農業と住宅開発が調和をもって共生する環境がつくられている。都市農業は住宅開発地区周辺に農業専用地区を設定し、元気な農業活動をしている。都市農業振興に関わる昔の経緯を知るために、横浜市環境創造局農政推進課に昔の政策決定資料の開示請求をした。大変に親切に対応していただき感謝している。その過程で近年、水田の風景が失われつつあることを知った。水田耕作が儲からず、野菜作りに移行しているという。でも、水田風景は日本的な風景で是非大事にしたいと思っている。一方、戸塚区の新庁舎の屋上に小さな水田が作られ、近隣の小学生が田植えや刈り取りをしているらしい。庁舎にある市の南部農政事務所の職員たちが水田の維持管理に協力している。できれば、そのような水田を市民に身近な場所、例えばみなとみらいや山下公園周辺の空き地又は駐車場でできないものだろうか。長期的でなくてもいい、暫定的でもよい。水田と高層ビルが共存するマチを是非作ってほしい、それが環境問題に対処する道になるかもしれない。
In Kohoku New Town, an environment has been created where urban agriculture and residential development coexist in harmony. Urban agriculture has been set up as special agricultural zones around residential development areas and is engaged in vigorous agricultural activities. In order to find out more about the past history of the promotion of urban agriculture by the city government, I made a request to the Agricultural Policy Promotion Division of the Yokohama City Environment and Creation Bureau for disclosure of old policy decision-making documents. I am grateful for the very kind response from the officials concerned. In the process, I learnt that the paddy field landscape has been disappearing in recent years. It is said that paddy farming is not profitable and people are shifting to vegetable farming. However, the paddy field landscape is a very Japanese landscape and I would like to cherish it for a long time to come. Meanwhile, a small paddy field has been created on the roof of the new ward office building in Totsuka Ward, where nearby schoolchildren are planting and harvesting rice. Staff from the city's Southern Agricultural Administration Office at the ward office are helping to maintain the paddy fields with the children. If possible, could such paddy fields be created in places close to citizens, for example, in vacant lots or parking lots around Minatomirai or Yamashita Park? It does not have to be long-term, or even temporary all right. We would like to see the creation of a city where paddy fields and high-rise buildings coexist, which may be a way to deal with the current environmental problems.
2022年
11月
30日
水
ニュージーランド国際学会派遣報告 International presentation at the conference in New Zealand
オーストラリアとニュージーランドそしてアジア地域で構成される都市計画・建築計画・アーバンデザインに関する国際学会がニュージーランドの中心都市オークランドで開催され、当NPO法人から田口俊夫と青木淳弘の二人が参加した。11月25日(金)から11月27日(日)の三日間で分科会に分かれての発表、ウエルカムパーティ、夕食会など多彩な催しが開催された。主催は、オセアニアのSAHANZ(Society of Architectural Historians Australia & New Zealand)とオーストラリアのUHPH(Urban History / Planning History Group)で、都市と建築に関する歴史研究に関する団体である。コロナもあるのだろうか、リモートでの参加者がほぼ半数に及んだ。
田口は初日金曜日の夕刻5時から30分ほど、”Local Government Coordination in the 1960s Yokohama, Japan: The Case of the Inner-City Motorway Project”(1960年代横浜における自治体による調整機能:都心部高速道路計画を題材に)について話した。20分のパワーポイント説明で10分の質疑応答であった。青木は二日目土曜日の12時から30分ほど、”Reconsideration of Urban Design from a Perspective of Coordinative Mechanism in Local Administration: A Case Study of Yokohama’s Urban Design Section”(自治体における調整機構からみたアーバンデザインの再考:横浜市の都市デザイン室をケーススタディとして)について話した。なお、質疑応答では、アーバンデザインの現場の話に集中したので田口が対応した。
全般的に非常に好意的な反応があった。聴衆は20名ほどだが、田口には質問が多く出た。その中の女性が私の姓は田村です、にはびっくりした。日本人と結婚したニュージーランド人で義父が東京で都市計画に携わっている、と言っていた。学会の準備から発表で、田口は緊張のあまり二日目夕方にはダウンして、ほぼ二日寝込んでしまった。幸い、コロナではなかったが。青木は若さもあり元気で、多くの参加者と意見交換し、連絡先も教えあっていた。これからは、当然のことだが「次世代の時代」と実感した。
また、参加者の中に、慶応大学大学院に留学して「まちづくり」をDIYと結び付けて研究しているニュージーランド人研究者(中国系)がいた。彼女と主催者には当NPOで翻訳自費出版した“YOKOHAMA: THE MAKING OF A CITY”(都市ヨコハマをつくる:中公新書)を進呈した。「ここに(自分が求めていたことが)すべて書かれている」と、彼女が他の研究者に紹介していたのが印象的だった。
非常に有意義な学会であった。今後の反省点として、発表テーマは学会誌に書いたもの(審査を経て採用されることが前提だが)を宣伝する場と心得ることがありそうだ。今回の学会も自前の「学会誌」に掲載されるし、その原稿も既に提出済みだが、更に「権威ある学会誌」への掲載に挑戦すべきだろう。飛鳥田・田村時代の都市経営とまちづくりは、確実に世界でも関心を持たれることを実感した。ただし、そのためには理解してもらう相手の社会システムへの理解と、日本との比較研究がないと宝の持ち腐れとなる。多くの気づきを与えてくれた学会だったが、でも大変に疲れた。
Toshio Taguchi and Atsuhiro Aoki from the NPO Akira Tamura Memorial participated in the International Conference on Urban Planning and Urban Design held in Auckland, New Zealand. The event was held over three days from Friday 25 to Sunday 27 November and featured a variety of events, including presentations in subcommittees, a welcome party, and a dinner party. The organizers were SAHANZ of New Zealand and UHPH of Australia. Most of the presenters were researchers from universities, and the themes of their presentations were related to historical verification. Almost half of the participants were there remotely, probably due in part to Covid 19.
Taguchi spoke for about 30 minutes on the first day in the evening from 5:00 p.m. on "Local Government Coordination in the 1960s Yokohama, Japan: The Case of the Inner-City Motorway Project, a 20-minute PowerPoint presentation followed by a 10-minute Q&A. Aoki spoke for 30 minutes on the second day, starting at 12:00 pm on "Reconsideration of Urban Design from a Perspective of Coordinative Mechanism in Local Administration: A Case Study of Yokohama's Urban Design Section.” Taguchi handled the Q&A session, because it focused on the field of urban design practice that Taguchi had done during his assignment as an urban designer in Yokohama.
Overall, the response to presentation was very positive and friendly. There were about 20 people in the audience, from them Taguchi received many questions. One of the women started her question by saying that her married family name was Tamura. Taguchi was so nervous from the preparation for the conference and the presentation that he could not sleep for almost two nights. After that he had to stay in bed for two days. Fortunately, it was not Covid 19. Aoki was in good spirits, and exchanged opinions and contact information with many of the participants. I am convinced that the future would be evolved by the next generation.
Among the participants was a New Zealander of Chinese descent who is studying at Keio University's graduate school and researching "Machi-zukuri (community building)" in connection with DIY activities. We presented her and the organizers with a copy of "YOKOHAMA: THE MAKING OF A CITY" (Chu-Ko Shinsho), which was translated and self-published by our NPO. I was impressed that she introduced the book to other researchers, saying “Everything that I have been looking for is written here.”
It was a very fruitful and meaningful conference. As a point of reflection for the future, we may keep in mind that the presentation theme is an important tool to promote what we write for the conference journal (assuming it is refereed and then adopted). This academic society organizing this conference will publish our full papers in their academic journal. Thereafter, we should try to publish in a world-wide and more prestigious academic journals. I realized that urban management and city planning by Akira Tamura will certainly be of interest to the world community. However, it will stay as a lost treasure without understanding of the social system of the recipient country and comparative research with Japan. The conference gave me a lot of insights, but I was tired very much.
2022年
11月
17日
木
Paper presentation by Aoki at the Japan Sociology Association2022年度日本社会学会大会での発表に関する報告(青木淳弘)
2022年11月12日(土)と13日(日)にかけて大阪府の追手門学院大学で開催された第95回日本社会学会大会に参加してまいりました。実に3年ぶりの対面での学会報告の場ということもあり、日本全国から数多くの社会学者が集っており、また旧知の方々にもたくさん会うことができました。私が参加したのは「地域社会・地域問題」部会であり、「住宅は地域社会の共同性構築の場になり得るのか––––革新市政期横浜市から考える」というテーマで報告を行いました。内容としては、高度経済成長期における日本の住宅政策の特徴を概観しつつ、飛鳥田市政における「住宅」をめぐる議論の特徴を明らかにしようとするものでした。戦後日本の住宅政策の基調にあったのは、まず住宅の供給量の拡充でしたが、飛鳥田市政では早い段階から「質」の充実と社会保障としての住宅を実現することが目指されていました。しかし超過負担をはじめとする財政的制約のなかで、住宅問題を「宅地」の問題と捉えつつ、宅地開発要綱の運用等を行うようになります。田村明は「宅地開発は最終的にはコミュニティ開発でなければならない」と表現しましたが、のちの宅地整備の専門分化が進むなかで部局横断的に「コミュニティ開発」を行うという視点は十分に顧みられなくなっていきます。報告のあとの質疑応答を通じても、そもそも田村のいう「コミュニティ開発」がどのようなものであったのか、そしてどのようなものでありうるのか、という点が議論となりました。その明確な答えはすぐには出ないものの、昨今の住宅セーフティネットの構築に関する議論などと関連して、今後とも重要な論点であることは間違いありません。最近進めている企画調整についての研究も、こうした現代的な論点と過去の政策・実践とを往還しながらさらに進めていきたいと考えております。
2022年
10月
23日
日
英国の専門誌に論文掲載 Our article on Planning and Perspectives, English magazine of planning history
当NPO副理事長の田口俊夫による”The post-war rebirth of Yokohama: the planner Akira Tamura’s contributions to municipal reform”(戦後横浜の再生:都市プランナー田村明による自治体改革への貢献)と題する英語研究論文が、英国の専門雑誌"Planning Perspectives"に掲載されました。
都市計画史の専門雑誌で、国際都市計画史学会International Planning History Societyの学会誌でもあります。当該雑誌に掲載いただけたことは、大変な光栄です。
以下のTaylor & Francis Onlineで概要版(Abstract)をご覧になれます。
著作権上の契約で、当該Onlineで本文は購入いただくことになります。
https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/02665433.2022.2111698
なお、ご希望の方には、当NPOのwebsiteの「お問い合わせ」からメールで必要事項(氏名、所属、住所、電話、メール)を記入の上、申込いただければ、著者特典でプリントアウト(白黒になります)して郵送させていただきます。
2022年
10月
17日
月
公開研究会「都市科学研究室を語る」What was the Yokohama Urban Science Laboratory in the 1970s ?
2022年10月12日(水)午後3時より久しぶりの対面形式でNPO公開研究会を開催しました。会場は「なか区民活動センター研修室」で、参加者は9名でした。これまで、元横浜市都市科学研究室の岡村駿さんに対するヒアリングを計4回実施しました。そして、それ以前の都市科学研究室関係の中川久美子さん、横山悠さんへのヒアリング結果を総合化して、松本得三が室長を務めた都市科学研修室とは何だったのか、を問いかけました。我々は松本得三の都市科学研究室が、田村明と鳴海正泰という三人による「企画調整三角構造」の重要な一角を占めることを認識しています。その詳細な解明はまだ緒についたばかりです。以下は、当NPO理事で企画調整研究会メンバーの檜槇貢氏のブログから転載した、当日の会合の様子です。
「個人に着眼し一人称で語れる政策を進めるべきだ」
生活現場にこだわって市民生活白書を書くことを求めた松本得三さんの姿勢だった。
その答えは参加と協働だが、依然として一人称で語られていない。
朝日新聞の記者だった松本得三さんが横浜市に入ったのは1969年12月。
約半年が経って、7月に都市科学研究室長になった。
翌年1月には「市民生活白書(横浜と私)を編集し刊行した。
調査季報の29号から46号までを編集。
1974年12月には「市民生活白書(私の横浜)を編集・刊行。
1976年1月に横浜市を退職し、相模原市長選挙に出て、敗れている。
松本得三さんは7年の横浜市役所人生を過ごした。
10月12日(水)15時から2時間半。
NPO法人田村明研究会は「科学的行政と都市科学研究室」をテーマに研究会を行った。
研究会に参加した私は、「自治体政策装置としての『番外地』」を寄せた。
松本得三さんが研究室長を務めた都市科学研究室の役割のこと。
自治体の政策形成の装置だが、自治体官僚制とは「異なる居場所」と説明。
「番外地」だったと言った。
これは私の言葉ではなく、岡村駿さんがインタビューで発した表現である。
研究会の議論は行政のスタイルを超えたところに広がった。
その行く先は「市民とその生活現場」だった。
45年も経っているのに、それが現代に引き継がれている気がしない。
行政は3人称で語っている。
特定できない「彼ら」の問題を解決しようとする。
そのために施策や事業はだいたい外れていて、成果を出しえていない。
「私は」「俺は」「私たち」はどうするのか。
責任の伴う一人称は使うことができていない。
現場や対象者に接近せよ。
そうしないと、地域社会での問題への処方箋をつくれない。
2回の市民生活白書はそんなアプローチを見せようとしたものだ。
問題の構造や答えなんか、すぐに出せるはずがない。
そんな現状認識と行政批判に貫かれている。
地域づくりは一人称であるべきではないか。
参加と協働によって政策展開は市民の生活現場で展開されるはずだから。
その意図するとこを理解し得ているのか、心許ない。
このアプローチは人口減少過程で地域社会がシュリンクする現代。
あらためて問いかけ、答えを出す必要があるのではないか。
研究会終了後の横浜中華街でのビールと肴。
酔いを道連れに議論を覚まさせる。
2022年
10月
07日
金
岡村駿ヒアリング記録 Oral history of Takashi Okamura
元都市科学研究室の岡村駿さんに、「科学的行政と都市科学研究室」をテーマにこれまで4回ヒアリングを重ねてきた。答えはまだ出ていない。当時も今も、役所組織には異質な存在であった「都市科学研究室」は、田村明が主導する企画調整局の調査研究部門であった。松本得三という特異な人物を室長に据え、当時の若者たちが勝手気ままに自主研究会を主催する「番外地」であった。松本と共に研究室を立ち上げた岡村は、地方選挙のための票読みをする「世論調査」を得意とした。実はこの票読みが、声なき市民の深層世界に入り込み、表面的な調査機関のアンケート調査では掴み切れない市民の本音を聴きだすツールとなる。岡村は飛鳥田市政から細郷市政に移行する時期に計画された「横浜開港資料館」づくりの中心人物であった。仕掛けた人間は田村明なのだが、岡村がいなければ資料館は開館できなかったはずだ。田村がいう「決して諦めない実践的調整」を真に実践したのが岡村であった。来る10月12日(水)午後3時より、なか区民活動センター研修室で、これまでの研究成果を元に「都市科学研究室」とな何だったのか、を議論します。どなたでも参加できますが、当NPO田村明研究会の会員以外の方は運営協力費として500円頂戴します。
ヒアリング結果は「研究資料」→「企画調整機能」でご覧になれます。
We have interviewed Takashi Okamura, formerly of the Urban Science Laboratory, four times so far on the topic of 'Scientific Administration and the Urban Science Laboratory'. No academic result has yet been achieved. Then, as now, the 'Urban Science Laboratory', which was an alien entity in governmental organisations, was the research and study department of the Planning and Coordination Bureau, led by Akira Tamura. It was an 'outpost' where young people of the time organised independent research groups at their own whim, with a peculiar figure named Tokuzo Matsumoto as head of the office. Okamura, who set up the Laboratory with Matsumoto, specialised in 'opinion polls' to read votes for local elections. In fact, this vote-reading is a tool to get into the deep world of voiceless citizens and to hear their true necessities or demands, which cannot be grasped by superficial surveys conducted by research institutions. Okamura was a central figure in the planning of the Yokohama Archives of History, which was planned during the transition period from the Asukata administration to the Saigo administration. Akira Tamura was the one who initiated the project, but without Okamura, the Archives would not have been able to open. It was Okamura who truly put into practice what Tamura called 'practical coordination that never gives up'. On 12 October (Wed) at 3pm in the seminar room of the Naka Ward Citizens' Activity Centre, we will discuss what the 'Urban Science Laboratory' was based on the results of our research to date. Anyone is welcome to attend, but non-members of the NPO Akira Tamura Research Group will be charged a management cooperation fee of 500 yen.
2022年
8月
11日
木
横浜市政策局ヒアリング Hearing record of the City Policy Bureau
横浜市役所の企画調整機能について、政策局政策課にお聞きした。飛鳥田・田村時代に作られたその「機能」は果たして今も存在するのか、又はしないのか。でも、そもそも「企画調整機能」とは何か、そして如何なる行政ニーズ(又は市民ニーズ)に応じて存在したのか、又はするのか、を共通言語で明らかにしないといけない。ただし、それは極めて難しいことを、このヒアリングを通じて感じることになる。
いまも、我々が飛鳥田・田村時代の企画調整機能を明確化できないなかで、現役の市役所職員に向かって自治体組織の横つなぎ機能や自立・主体性などを論じても空虚な感じがする。彼らから、目の前の現実の課題に向かって、自治体内部や外部機関との「調整」はやってます・・・と言われると、それを検証する方法がない。市長の存在をいち市民として感じることができないなかで、首長のリーダーシップといっても、これも空虚な言葉に止まる。
さて、読者の皆さんは、このヒアリング記録から何をどう読み取るでしょうか。その感想を聞きたいと願っています。(文責:田口俊夫)
We asked the Policy Division of the City Policy Bureau about the planning and coordination function of Yokohama City Government. Does this 'function', which was created during the Asukata/Tamura era (1968 to 1978), still maintains its existence, or not? But to begin with, we need to clarify in a common language what the 'planning and coordination function' is, and in what administrative needs (or citizen needs) it existed or does exist. However, this is an extremely difficult task, as we have seen through this hearing.
Even now, when we are unable to clarify the planning and coordination functions, it feels meaningless to discuss their horizontal linkage functions, and autonomy of municipality with the current administrative staff. When they tell us that they are doing a task of coordination within the municipality and with external institutions with regard to the real issues at hand, there is no way to verify this. While the mayor's presence cannot be felt near as one of citizens, even if we speak of the leadership of the chief executive, this connotes nothing.
So, what do you, the readers, address the administrative situation from this hearing record? We hope to hear your impressions. By Toshio Taguchi
2022年
8月
10日
水
秋元康幸ヒアリング記録 Oral History of Yasuyuki Akimoto
秋元康幸はアートを専門にした都市デザイナーである。早稲田大学建築学科を卒業した秋元は田村明が市の表舞台から去る頃に横浜市に入る。当初、みなとみらい事業を担当した秋元が都市デザイン室に配属されてから、色の濃い先輩たちに囲まれる中で秋元らしい独自路線を打ち出す。それがイベントとアートによる都市デザイン活動であった。2007年中田宏市政(2002/2009)で都市デザイン室長に就任するが、一貫して現代アートと都市デザイン活動のコラボレーションに執着する。そして、それが創造都市活動に展開していく。ただし、残念ながら市長も変わり師匠の北沢猛(元市都市デザイン室長・東京大学教授、1953/2009)も死去し、創造都市活動も先が見えにくい状況下にある。かつまた、横浜の現代アート活動を牽引してきたBankART1929代表の池田修が急死した。秋元は、これからの困難な役目を引き継ぎBankART1929副代表に就任した。秋元は、横浜都市デザインの潮流を変えた人物の一人である。(文責:田口俊夫)
Akimoto Yasuyuki is an urban designer specialising in art. A graduate of the architecture department of Waseda University, Akimoto joined the City of Yokohama around the time Akira Tamura left the city's major road. Initially Akimoto worked for the Minato Mirai project, he was then assigned to the Urban Design Office, where he developed his own unique line of work amidst a group of senior designers of strong characters. In 2007, he became head of the Urban Design Office under the administration of Hiroshi Nakata (2002/2009). During his urban design activities, he was consistently obsessed with the collaboration of contemporary art and urban design activities. This developed into Creative City activities in the 2000s. Unfortunately, as the mayor has changed and his mentor Takeru Kitazawa (former head of the city's Urban Design Office and professor at the University of Tokyo, 1953/2009) has passed away, it became difficult to see the future of Creative City activities. In addition, Osamu Ikeda that was head of BankART1929 and a driving force behind Yokohama's contemporary art activities, died suddenly. Akimoto took over the difficult role of deputy head of BankART1929. Akimoto was one of the people who have turned the trend of Yokohama urban design. By Toshio Taguchi
秋元康幸のヒアリング記録を掲載しました。
2022年
7月
10日
日
国際都市計画史学会オランダ大会に参加 IPHS 2022 Delft Conference
2022年7月5日(火)と6日(水)の二日間でオランダ・デルフト工科大学を会場にして、国際都市計画史学会International Planning History Society(本部はロンドン)の大会が開催された。当NPOからも淺川賢司と田口俊夫が参加した。大会はそもそも2020年にモスクワで開催されるものであったが、コロナ禍があり、そしてロシアによるウクライナ侵略があり、延期され、ついには会場変更となった。この大会も基本的にリモート参加が主体となり、我々もリモートで参加して発表した。リモートで、かつ英語という環境でも国際会議のため、会場運営や音声の問題もあり、特に運営者にとっては大変な大会となった。
田口が参加した分科会は計37ある内のひとつで、都市インフラ関係のあり方に関する歴史的考察であった。司会者は日本の岐阜大学の出村教授で、田口と、中国の大学院生、そしてスペインの大学教授の4名であった。それぞれ20分ほどのプレゼンテーションをして、質問を受け付ける方式だったが、結果としてまとめて質疑応答することとなった。聴衆は10数名ほどいたようだ。最後に時間が足りず、二三の質問で終わりとなった。田口は、「高速道路の地下化に伴う企画調整機能」を発表したのだが、おおきな収穫があった。大会終了後に発表者の中国人学生から「企画調整機能」について興味があるので研究したい、との長文のメールを頂戴した。早速、当NPOのホームページに掲載している田村明さんの「都市ヨコハマをつくる」英訳版をお教えした。また、スペインの地方都市での鉄道地下化に伴う都市再開発事業が国・州・自治体の調整がうまくいかず頓挫していることから、企画調整機能の必要性が認識された。
今回感じたことは、プレゼ用のパワーポイントを用意し、かつ発表原稿も準備して臨んだが、一番の問題は参加者の手許に論文本体が届いていないことであった。司会者には事前に送ることができたが、やはり詳細は論文本体を読んでもらわないと分からない。それでも、要点を伝えることで、論文の価値を少しでも分かってもらえたら、幸いであった。(田口俊夫)
The conference of the International Planning History Society (headquartered in London) was held at the Delft University of Technology in the Netherlands on 5 (Tue) and 6 (Wed) July 2022. Kenji Asakawa and Toshio Taguchi participated from NPO. The conference was originally scheduled to be held in Moscow in 2020, but due to the Covid 19 disaster and the Russian invasion to Ukraine, it was postponed and finally the venue was changed. The conference was also held remotely, and we gave our presentation remotely. Even though the conference was held remotely and in English, it was an international conference, so there were problems with venue management and audio, making it a particularly difficult conference for the organisers, I presume.
One of the 37 breakout sessions Taguchi participated in was a historical study on the issues of urban infrastructure. It was chaired by Professor Demura of Gifu University, Japan, and speakers were Demura himself, Taguchi, a Chinese postgraduate student and a Spanish university professor. Each gave a 20-minute presentation and took questions. There seemed to be about a dozen people in the audience. At the end, there was not enough time and the session ended with only a couple of questions. Taguchi's presentation on 'Planning and Coordination Functions of Underground Motorways' was a success. After the conference, I received a long email from the presenter, a Chinese postgraduate student, saying that she was interested in the 'planning and coordination function' and would like to learn about it. I immediately gave her the English translation of Akira Tamura's 'Creating an Urban Yokohama', which is available on our NPO's website. The need for a planning and coordination function was also recognised, as an urban redevelopment project in a regional city in Spain, following the undergrounding of a railway line, has come to a halt due to poor coordination between the national, provincial and municipal authorities.
The biggest problem was that the main body of the paper had not arrived in the hands of the participants, although we had prepared a PowerPoint presentation and a manuscript for the presentation. I was able to send it to the chairman in advance, but the details could not be understood without reading the main body of the paper. Nevertheless, we were happy if, by conveying the main points, we were able to make the participants understand the value of the paper, even if only a little. (Toshio Taguchi)
7月5日から6日の2日間に渡って開催されたIPHSのデルフト大会に参加してきました。IPHSは隔年で大会を世界各地で実施するので、前回の2018年の横浜大会の後、本来であれば2020年に開催されるところ、コロナ禍のため延期となり、ようやく今年2022年に開催されることになりました。それだけではなく、当初の開催予定地であったモスクワから、ウクライナ侵攻のため急遽デルフトにて開催することになったなど、今回の開催は異例だらけだったようで事務局は相当混乱していたようです。(事務局に対するお礼メッセージの投稿を参加者が呼びかけるなど、前回の横浜大会では見かけなかったできごとです。)
私は7月6日に、Urban Analysis というタイトルのセッションで"Managing Urban Growth using Soft-law – Lessons learnt from Yokohama in 1960s/70s and Koto in 2000s"という論考を発表しました。同じセッションになったとはいえ、通常の学会のように問題意識などに重なるところがあるわけではなく、特に私の発表はIPHSでは異端だったと思います。最近でこそ学際的なテーマをかかげる学会が増えてきましたが、学際的な分野をテーマとした論文は発表する場によって議論の視点が大きく異なるだけではなく、評価もまったく異なったものになるというのを改めて感じた次第です。(淺川賢司)
I attended the IPHS biannual conference, which was held July 5-6 in Delft. That conference was originally to be held in 2020 after the previous conference in Yokohama 2020, but was postponed due to the COVID pandemic. In addition, the secretariat seemed to be confused because of the many unusual circumstances, including venue change from Moscow to Delft due to the Ukraine crisis. So, participants voluntarily called for thank-you messages to the secretariat, which I had not seen at the previous Yokohama meeting.
On July 6, I presented a paper entitled "Managing Urban Growth using Soft-law - Lessons learned from Yokohama in 1960s/70s and Koto in 2000s" at the session titled "Urban Analysis". Among the members of the session, we hardly found a common basis for research questions and/or approaches as we often do at the similar academic conferences, My presentation looks particularly unusual for the IPHS members or the session chair at least. Although there are more conferences with interdisciplinary themes these days, I was reminded once again that papers on interdisciplinary themes are not only discussed from very different perspectives, but also evaluated in very different ways, depending on the venue where they are presented. (Kenji Asakawa)
2022年
6月
24日
金
横浜市立大学での講義 A lecture at Yokohama City University
横浜市立大学の鈴木伸治教授の依頼で、都市社会文化研究科の大学院生たちに「田村明の思想と都市づくりの現代的評価」と題する講義をやらせていただいた。2022年6月22日の夕刻5時50分から7時30分頃まで、熱心な10名ほどの大学院生たちに話をすることとなった。そもそも、60歳台後半の老人がなぜ「都市プランナー田村明」を語ることができるのか、という疑問に答えるのに10分程かかった。1978年飛鳥田市政から細郷市政に変わるなかで、田村明企画調整局長が更迭され、その渦中に英国の大学院を修了したばかりの田口俊夫君が「都市デザイン」をやりたいと宣言して入った。企画調整局や都市デザインの行く末が分からない中で、若者たちが生き残りをかけて模索していくのだが、田村明を囲む自主勉強会を立ち上げたりして、反権威主義的行動に出ていた。その若者たちが田村の思想を現代につないでいくのだが、そろそろ人生の終焉に近づくにつれ、「田村明」とその業績を客観的かつ科学的に検証したくなったきた。それがNPO法人田村明記念・まちづくり研究会が2015年に発足した背景だ。ただし注意しないと、このNPO法人は田村明を礼賛するための団体か、と疑われてしまう。いま、会員たちが国内外の学術研究誌に研究論文を発表しているが、いかに田村明を客観的かつ科学的に検証することが難しいかが分かってきた。学生たちから、国の省庁や民間会社そして計画コンサルタントに在籍した経歴は田村が役所で活躍する上で役に立ったのか、今の横浜市と昔の田村たちのまちづくりは関係しているのか、田口がいう国家的価値観と地域的価値観そして市民的価値観の衝突はどう処理されるのか、多様な質問が出た。いま、企画調整機能を研究している中で、当時の都市科学研究室が部門に関係なく若手職員たちが集まり自主研究会を繰り広げる「番外地(又は梁山泊)」であった、と考えている。当然、いまの学生たちはこの言葉自体を知らない。つまり、組織の活性化には、職員たちの自主的で自由な学びの場をもつことが重要であることを伝えている。この変わった老人との出会いが、学生たちに新たな気づきにつながれば幸いである。(田口俊夫、NPO法人田村明記念・まちづくり研究会副理事長/工学博士)
At the request of Professor Nobuharu Suzuki of Yokohama City University, I was invited to give a lecture entitled "The ideas of Akira Tamura and the contemporary evaluation of his urban planning" to the postgraduate students of the Graduate School of Urban Society and Culture. It took about 10 minutes for me to resolve a suspicious circumstance of how an old man in his late 60s could talk about Akira Tamura. Toshio Taguchi, just returning from a British graduate school, joined the city administration with the declaration that he wanted to work on 'urban design'. It was when Tamura, Director of the Planning and Coordination Bureau, was ousted in 1978 during the change from the Asukata to Saigo municipal administration, Unsure of the future of the Planning and Coordination Bureau and urban design, the young people groped for survival, consequently they set up an independent study group around Tamura and engaged in anti-authoritarian behaviour within the new administration. These young people are those who have evolved Tamura's ideas and practiced to the present day. As the end of lives comes nearer, they have come to aware of their final aim to examine ‘Akira Tamura and his achievements’ objectively and scientifically. That is the background behind the establishment of Akira Tamura Memorial - A Town Planning Research Initiative NPO in 2015. However, we have to become careful not to give suspicious impression that this NPO is an organisation dedicated to exalt Akira Tamura. Members are now publishing research papers in domestic and international academic research journals and have discovered how difficult it is to verify Akira Tamura objectively and scientifically. The students asked a variety of questions, such as whether Tamura's career in national ministry, private company and planning consultancy helped him in his role in government, whether the current City of Yokohama is related to the city planning of Tamura and his colleagues in the past, and how the conflict between national values, regional values and civic values are handled. In a research on the planning and coordination function, we now consider that the Urban Science Laboratory at that time was an 'outlying area' (or 'Ryouzanpaku') where young staff, regardless of department, gathered and held independent research meetings. Naturally, today's students do not know this word itself. In other words, the message is that it is important for any organisation to have a place for independent and free learning by its staff to revitalise itself. I hope that the encounter with this unusual old man will lead to new insights for the students. By Toshio Taguchi
2022年
6月
15日
水
中学入試問題で六大事業がでました
会員の南学さんよりのメッセージです。
嬉しいことがありました。友人から、横浜市立の中高一貫校の中学入試問題に、拙著の文章が使われたという情報がありました。「神奈川新聞」が掲載していたというので、調べたら、入試問題のPDFが入手できました。2004年に岩波ジュニア新書で、刊行した「カラー版 横浜―交流と発展のまちガイド」の一節でした。最も、強調したかった横浜市の都市の骨格を創った「六大事業」を中心とした記述の部分です。この問題を作成した先生のまちづくりにおける深い洞察力を感じました。岩波書店が中高生を対象とした新書として刊行していることも、幸いしたようです。この本は、横浜市役所を退職した直後に、岩波書店から依頼されて2ヶ月ほどで執筆し、横浜文化賞を受賞した写真家、森日出夫さんの写真撮、昨年、残念ながらなくなったデザイナーの中川憲造さんのイラストと地図による共作でした。3刷りで合計1万6千部という、私のいくつかの著作ではダントツの発行でしたが、こうして、横浜のまちづくりの一端が、これからを担う子どもたちへの考える課題として提供されたことは、本当に嬉しいことでした。
2022年
6月
09日
木
NPO総会記念講演 NPO yearly assembly and its commemorative lecture by Kazunari Doi
2022年5月27日(金)午後5時30分よりNPOの年次総会が開催されました。正会員の過半の参加又は委任により総会が成立し、2021年度決算について審議しました。監事より監査報告があり、異論なく承認されました。2021年度はコロナ禍により対面での活動が大幅に制限された年でしたが、NPO設立五周年記念誌の発行やその他の研究活動は活発で、充実した年ともいえます。会員の皆さまのご理解ご協力、ありがとうございました。
続いて、理事の改選が行われ、新理事として田村明さんと長年親交があった檜槇貢さん(ひまきみつぐ、させぼ山手研究会理事長・元佐世保市政策推進センター長)が就任されました。今後よろしくお願いします。
当日は総会記念講演として土井一成さん(NPO法人アーバンデザイン研究体副理事長、元横浜市職員)による講演「公民連携とまちづくりの可能性」が行われました。土井さんの市役所時代の経験に元に新たな知見も加え、公民がいかに連携してまちづくりを進められるか、を熱心に語っていただきました。講演録は後日アップします。
講演項目:
1.自著「まちづくり主義のススメ」について
2.横浜の都市形成ソフトと6大事業
3.大都市における自治の形
4.新たな公民連携の広がり
5. まちづくりの可能性を拓く
2022年
5月
01日
日
南学氏『公共施設マネジメント-拡充から縮充へ』Management of Public Facilities
NPO公開研究会
2022年4月25日(月)午後6時より8時 April 25, 2022
なか区民活動センター研修室2号
南学氏『公共施設マネジメント-拡充から縮充へ』Manabu Minami, "Management of Public Facilities: Down-sizing from expansion"
参加者 7名(講師含む)
全国の自治体で、その公共施設が適切にマネジメントされていない、という現実を学ぶことになった。これまで多くの「不要不急の施設」が作られ、ほとんど使われず、毎年膨大な税金がその維持管理に使われてきた。衝撃的なのは「適切に維持管理」されず放置された施設があまりにも多いのである。それを管理する人員も予算もないのが現実という。果たして「未来」は全く暗いのか、どうにかして明るく出来るのか、南氏は全国の自治体を駆けめくり「公共施設マネジメント」の必要性を説いている。
Manabu Minami addressed that public facilities built by municipalities across the country are not properly managed nor maintained. Many non-essential and non-urgent facilities have been built for
decades, are rarely used and huge amounts of taxpayers' money are spent each year on their maintenance and management. What is shocking is the sheer number of facilities that have been neglected
and not properly maintained. The reality is that there is neither the manpower nor the budget to manage them. Minami travels to municipalities across the country to find out whether the future is
bleak or whether it can be brightened somehow, and explains the need for public facilities management.
2022年
3月
25日
金
いま、あえて「都市デザイン」を考えるということ
その日、BankART KAIKOで開催されている都市デザイン横浜展には、幅広い世代の人たちが集っていました。研究会有志が進めている都市デザインに関する研究で目下取り組んでいるのは、ニュージーランドのオークランドで開催されるSAHANZ and UMPH groupの学会報告の準備。そのためのヒアリングに合わせて展覧会に足を運んできました。田村明をはじめとした企画調整室のメンバーによってはじめられた都市デザイン行政の50年の歴史の蓄積は少なくない成果を横浜の都市空間にもたらしてきました。また田村明が生涯をかけて語り続けた「まちづくり」という言葉は、いまや世の中にすっかり浸透したように見えます。都市をつくることにさまざまな人がさまざまな形で取り組んでいます。
横浜市の都市デザインには50年の歴史がある。当時それは革新的なコンセプトであったはずです。しかし裏を返せば、今の時代には古くさいものと言えないだろうか?そんなことを思う時があります。実際に岩崎駿介さんも当時考え出した都市デザインの7つの目標は「すでに過去のもの」として、新しい目標を提示しています。そのうえで展示会は「過去を振り返るのみで未来を展望せず、これから先どのような展開目指そうとしているのかがはっきりしない」と言います。現在の社会状況は50年前とは異なります。地球規模での人口問題、食糧危機、環境破壊…そうした事態に向き合っていかなければならない。また現在ウクライナで起きている悲劇にも見られるように、あるいは自然災害がそうであるように、都市は一瞬にして脆くも崩れ去ってしまうものであることを我々は痛いほど見せつけられています。
我々がヒアリングの中で印象深いと思ったのは、「流行りの言葉や概念ではなくて、あえて<都市デザイン>にこだわりたいというある担当者の方の言葉でした。さまざまな人がさまざまな形で都市をつくることに取り組む時代。価値観も社会状況もどんどん変わってしまう時代。そうしたなかで市役所ができることがきっとあるはず。それはおそらく空間のことを常に考えながら、そこに公共的価値を盛り込んでいくことだと言います。思えば、田村明も「市民の政府」としての自治体こそが「まちづくり」(ここで平仮名の…とか、運動としての…という言葉を田村明が敢えて言わなかったことの意味は改めて考えるべきだと思います)を進めていく主体であるべきと説いたのでした。
この先の展開がはっきりしている必要はないと思うのです。具体的なビジョンを出しても社会状況も価値観もどんどん変化していく。だから必要に応じて柔軟にそれを見直していく。その非定型流動性こそが半世紀もこの組織が存在してきた理由であるし、今後50年先、あるいは100年先を導いていくのではないでしょうか。ヒアリングを通じて、現実の様々な業務に追われるなかでも、そうした密かな熱いまちづくりに対する想いに触れて、我々は不思議と元気をもらえたような気がしたのでした。展覧会を訪れていた新しい時代を担っていく人たちがそうした想いに共鳴してくれることを勝手に願いながら馬車道をあとにしました。(青木淳弘)
2022年
3月
05日
土
都市デザイン横浜展 Urban Design Yokohama
今日3月5日午後、春一番が吹く横浜北仲通に、開催初日の「都市デザイン横浜展:その50周年の歩み」を見てきた。多くの若者たちが訪れていた。良かった・・・初日で人がいなかったら寂しいと思い「枯れ木も山の賑わい」と訪れた。平和な時間を感じた。人々がデザイン感覚に優れた都市をつくっている傍らで、都市が理不尽に破壊されている現実も思いながら見学した。この時とこの空間を大事にしてほしい、と願って会場を後にした。Democracy with justice will prevail everywhere over tyranny with oppression in some country. We are with you, people of Ukraine.
2022年
2月
17日
木
公開研究会・横浜の鉄道事業
太田浩雄氏『横浜の鉄道事業について』公開研究会
2022年2月16日午後5時30分から8時
なか区民活動センター第1研修室
参加者 対面で10名(内、NPO会員外3名)、リモートで4名、計14名(講師以外)
横浜市の鉄道事業専門家の太田浩雄さんの講演内容は、ひさしぶりの対面形式によることもあり、かつ内容の豊富さと迫力で圧倒された。これまで知っているようで知らなかった横浜市の地下鉄からみなとみらい線に至る、鉄道事業の計画と実践の「現場の凄さ」を感じた。これだけ正直に当時の苦労話をしていただいたので、これからのテープ起こしが楽しみであるが、内容が豊富すぎて、これを補完する調査研究の必要性を強く感じた。つまり、当事者では「当たり前の前提」が第三者にとってはそうでないため、語られた話の重さが計り知れないことがある。一つはっきりしていることは、計画者の大胆な発意がなければ(例えば、みなとみらい線の駅舎で深く広く掘り大空間を確保すること)、大胆な駅舎デザインや都市デザインも成立しなかった、といえる。「鉄道版田村明」を彷彿とする人物であった。(田口)
関根龍太郎さんの感想
昨日の太田浩雄氏の研究会『横浜の鉄道事業について』、リモートで参加しましたが、大変面白く、また、大変勉強になりました。非常に意味のある研究会だったと思います。準備された方々、お疲れ様でした。
ただ、電波の具合が悪かったせいか、音声と画像が途切れ途切れで続けて聞くのはしんどく、始まって早々席を外し、1時間ぐらいして復帰したところ、地下鉄みなとみらい線の駅の話で、以前から素晴らしいと思っていた地下鉄駅建設の事情の一端にふれることができました。
以下は、そういう断片的な形で参加した私の感想です。
太田さんは、役人の枠にはまらない役人で、語り口はざっくばらんで荒っぽいところもあります。でも、こういう方だからこういう行動ができたのかと思い、人柄、話し方、発想と太田さんの業績は切り離せないと感じました。太田さんの発言証言をどう生かすかということについては、工夫が必要だと感じました。
私が価値があると思うのは、あの時代の横浜市で、太田さんのような型破りの役人が活躍し、業績を残せたということです。不十分な参加のし方とそこで得た情報だけで断定していいか問題はありますが、私見では、担当者が、個人的な判断も含め、公権力がやるべきことをやった結果、横浜市に正の遺産が残されたということではないかと思います。
地下鉄みなとみらい線に、「モノの輸送」から「観光の輸送」という将来を読み取ったのは、データだけからはできなかったことです。現在になって振り返ればその未来予測は当たっていて、デザイン性の高い駅舎や女性客を念頭に置いたトイレ整備は、時代を先取りしたものになりました。私は、横浜みなとみらい線地下鉄駅のデザインは世界レベルのものだと思います。また、東京では実現できないものではないかと思います。
こうした、役人らしからぬ役人が比較的自由に権力を行使し、鉄道事業者と監督官庁の役割の本質を見極め、鉄道事業者に応分の負担を求める一方、市としてやるべきことはやった。これは、田村明さんの、開発事業におけるスタンスと重なり合うものです。聞いていて、一見異色の役人だったようにも見える太田さんは、正に、田村明の正当な後継者だと感じました。
私は、役人が官僚主義に陥るのは当然のなりゆきだと思いますが、それを何らかの形で突破したところに、やはり素晴らしい役人の業績は残ると感じています。それが可能になるためにはいろいろな条件が必要ではないかと思います。そこに一番興味を感じました。
NPOとして、さらに掘り下げて、田村明につながる道が明らかにされるといいと思いました。10年前の私なら、自分でやろうという気が起きたかも知れませんが…。また、これまた役人らしからぬ運輸省官僚だった亡くなった私の父と、太田さんの話を突き合せたら面白かっただろうなどという空想も浮かびました。
2022年
1月
06日
木
子供たちからの贈り物 A gift from school children
昨年の12月31日、大変に素晴らしい年末の贈り物を頂戴した。田口の出前授業(2021年12月21日実施、赤煉瓦倉庫の歴史から田村明を知る)に対する立野小学校四年生からの感想文集だった。綺麗に装丁された文集には、子供たちの感想文が可愛らしく貼られていた。酒井優里亜先生のご指導により、ここまで子供たちがやってくれたことに、おおいに感謝したい。「昔がなければ今がない」という言葉がとてもよかった。「町づくりは本当に大変だけど、これからは建築を見たら違う目」で見れると思う。「身近なことを一緒に考えて」くれて、ありがとう。「田村さんや田口さんのような人の役に立つ人」になりたい。「田口さんの授業がとても分かりやすくて田口さんが明るい性格」でとても楽しかった。「歴史はきらいだったけど、田口さんの説明のおかげで好きに」なれました。「田村さんを見習う田口さんのしせいはすごい」と思いました。「好きなことにいっしょうけんめいになっているところ」がすごい。素晴らしい感想文で感激しました。
先生からも「この度は、立野小学校四年生の子供たちのための出前授業、ありがとうございました。子供たち自身が学習の深まりを実感し、満足している姿をみることができました。田口様には本当に感謝しております。私も教育研究者として、今後もこのような楽しいチャレンジを続けていこうと思います。田口様も、お体に気をつけて研究を続けて下さいね。2021年の終わりに素敵な出会いがあったこと、大変に嬉しく思います」立野小学校 酒井優里亜
天国にいる田村明さんも、酒井先生と子供たちの活動を知れたら喜んでくれただろう。60歳で高校社会科(地理歴史)の教員免許を取得した田口には、酒井先生の授業構成のご努力が痛いほど分かる。子供たちの記憶にわずかでも残ることを、授業のなかで見つけてくれたら、その授業は成功であっただろう。大人たちは未来のある子供たちにために、少しでも貢献したいものである。
On 31 December last year, I received a very nice year-end gift; a collection of comments from fourth year students of Tateno Primary School on Taguchi's visit to the school (21 December 2021, to learn about Akira Tamura from the history of the red brick warehouses). The pad was beautifully bound and the children's impressions were lovingly pasted on the papers. I am very grateful to teacher Yuria Sakai for her guidance in getting the children to do this. Here are their comments as follow; I really liked the words “Without the past there would be no present.” It's hard to build a town, but from now on we can look at architectures with different eyes. Thank you for giving us an opportunity to think about something close to home with us. I want to become a useful person like Mr. Tamura and Mr. Taguchi. I really enjoyed Mr Taguchi's class because it was easy to understand and he has a cheerful personality. I used to dislike the subject of history, but thanks to Mr. Taguchi's explanations, I came to love it. I thought that Mr. Taguchi's way of life was amazing, just like Mr. Tamura’s. The fact that Mr. Taguchi is so determined to do what he loves is amazing.
I was very impressed by the wonderful comments by the children. The teacher said, "Thank you very much for your visit to the fourth grader children of Tateno Elementary School. I could see that the children themselves were satisfied with the depth of their learning. I am very grateful to you. As an educational researcher, I will continue to take on these meaningful challenges in the future. I am very happy to have had such a wonderful encounter with you at the end of 2021."
Urban Planner Akira Tamura, who is now in heaven, would have been delighted to know about the activities of teacher Sakai and her children. Since I received a teacher license of high school social studies (geography and history) at the age of my 60, I could recognize her enormous efforts to prepare the series of lessons. It can be a success if the children have found something in the lesson that they could remember, even if only a little one. As adults, we want to do our bit for the children who have something in the future.
2021年
12月
28日
火
小学校四年生に出前授業 Visiting class for the fourth graders
立野小学校出前授業:都市プランナー田村明を小学校四年生に語る
嬉しい依頼
コロナ禍の2021年12月21日火曜日、中区のJR根岸線山手駅前にある創立110周年の横浜市立立野(たての)小学校に、感染対策を万全にお邪魔した。小学四年生担任の酒井優里亜先生から、「横浜赤レンガ倉庫」の歴史を生徒たちと勉強している。その過程で知った田村明さんの役割についてお話(出前授業)をして欲しい、との依頼があったことによる。
我々が運営しているNPO法人田村明記念・まちづくり研究会のWebsiteを見て、田村明さんに興味をもった、ということであった。早速、電話で酒井先生と田口がお話した、田口の「歴史への敬意」がないとマチづくりはできないという解説に、えらく賛同していただいた。先生は、赤煉瓦倉庫が残され、市民に親しまれる場所となっていることは生徒たちと数回に分けて学習する。でも、どうやって田村さんは赤煉瓦倉庫の価値を理解し、そしてどうやって残そうと努力したのか、そもそもそのことが「マチづくり」とどう結びついているのか・・・を生徒たちに分かり易く話して欲しい、とのご依頼であった。
難しいテーマ
さて、大学生でも理解しづらいテーマを、9歳から10歳の小学校四年生にどう伝えるか、実に頭を悩ました。でも、これができなければマチづくりは市民に理解されない。極めて挑戦的な仕事に映った。また、田村さんを語るのが果たして田口でよいのか、それも悩ましいのだが、やるしかない。酒井先生と準備のためのメールのやり取りをして、プレゼ用の台本とパワーポイントをつくり、いざ本番を迎えることになった。
当日の話の進め方は、①自己紹介とマチについて、②田村明ってだれ、③マチづくりって何、④マチで大切にする、⑤最後にみんなにやって欲しいこと、とした。午前10時50分から12時過ぎまでの3・4時間目の授業で、体育館に四年生全クラス80名が集まってくれた。子供たちのお爺さんと同じ歳の禿げ頭のオジイサンが、田村明さんのマチづくりの話をする。自己紹介で田口の英国留学時の写真を見せた、髪の長いアジアの青年が写っている。子供たちに赤煉瓦やマチづくりに係わるクイズを出しながら、反応を見極めながら話を進めていった。赤煉瓦倉庫に使われた煉瓦の枚数は・・・636万個らしい。赤煉瓦倉庫は元々「国」の財産だったが、では国って何、そして田村さんは飛鳥田市長を助ける副校長先生のようなものです。いま市の財産になっている赤煉瓦倉庫を貸し出して、お店屋さんなどをやっているが、その貸出料は全体で年間2億円(子供たちのお小遣い月500円の40万倍)、でもそれまでにかかっている莫大な費用に比べると、横浜市は儲けることはできない。でも、市民のためにやっている。
子供たちの反応
愉しい質問があった、田村さんと田口の関係は・・・都市デザインがやりたくて田村さんがいる横浜市役所に入った。それから田村さんが亡くなる2010年までお付き合いした。なぜ歴史を学ぶのか・・・過去があって今があり、今があることで未来がある。建築ってどこが面白いのですか・・・将来は建築家になりたい、と言いに来た可愛らしい生徒がいた。
酒井先生から授業の振り返りで、この出前授業で子供たちが赤煉瓦倉庫を単に建物として楽しい場所であるだけでなく、そこには田村さんや田口さんの「思い入れ」がつまっている、と感じたようだ、とのコメントを頂戴した。この無限の可能性を秘めた子供たちが、大事に育っていってくれることを望みたい。小学生たちに田村明さんのことを伝えることは、次世代に田村さんたちの活動を伝承する当NPO法人の設立目的に合致する。この貴重な機会をつくって頂いた酒井先生と立野小学校の校長先生そして副校長先生たちにお礼を述べたい。最後に、子供たちの素朴な質問に答えるのは、実に楽しかったです、ありがとうございました。
(文責:田口俊夫 NPO法人田村明記念・まちづくり研究会副理事長)
2021年
12月
25日
土
新たな都市課題 A new urban issue
企画調整機能は「新たな都市課題」に直面する時に、その機能を発揮すべきものです。縦割り部門別に進めていた事務事業を横断的に、かつ総合的に取組まないと、新たな都市課題に対応できない。その新たな都市課題を反映しない総合計画は、世の中の変化に目をつぶった羅針盤なき航海となるでしょう。いま、当NPOでは企画調整機能研究会を立上げ、NPO会員以外にも意欲ある研究者の方々にご参加いただき、基礎研究を進めています。檜槇貢さんもこの研究会のメンバーで、佐世保市での活動事例を投稿いただきました。
2021年
12月
18日
土
都市デザイン室50周年記念講演会の雑感
横浜市の都市デザイン50周年記念事業の一環としてオンラインで開催されている記念講演の第1回と第2回を聞いてみて、思い当たったことは、こうした取り組みが属人的なものなのか、それとも組織的なものなのか、という疑問でした。第1回では横浜市の都市デザイン室の立ち上げの時期の話を岩崎駿介さんと国吉直行さんが、第2回は水と緑のまちづくりの取り組みと系譜を宮澤好さんと吉村伸一さんが語るというものでした。それぞれの語り口には個別の事業に対する愛情のようなものを感じられ、同時に、都市デザインというものの可能性に対する大きな期待が込められているという印象がありました。しかし少し穿った見方をするならば、そうした事業が成功したのは、ある特殊な時代に横浜市にそろったある特殊な人たちの力によるものではないかということもできそうです。言い方を変えるならば、いまの横浜市に講演で語られたような都市デザインが果たして可能かどうか、そして求められているのかどうか。50周年という節目でこれまでの営みを振り返るという活動自体はとても有意義だと評価できますが、それが単なる過去の事例を並べただけにしないためには、現在のあり方を建設的に捉えるために、過去の都市デザインを批判的に継承していくことが必要ではないかと考えます。都市デザイン室には個性的な人材が集まっていたということは間違いないと思います。部局横断的な連携ということは都市デザインの最重要の要素のひとつとして挙げられています。その認識は両方の講演でも頻繁に登場したテーマであり、そのための体制はかつてよりも充実してきているという認識が示されていました。都市デザインの取り組みが、あまりにも属人的なものとなってしまうと事業の継続性や発展性は失われてしまう、かといって、あまりにも組織的な規定の元に置かれると硬直化の弊を免れない。つまり体制の充実それ自体がすぐに充実したまちづくりに繋がるとは言い切れないと思われます。事務分掌以上の発展性(=非定型流動)を都市デザインに期待する場合には、魅力的なアイディアが生み出す人、そしてそれを支える体制、そしてその体制が硬直化していないことが必要でしょう。言葉で評するのは簡単かもしれませんが、実際にはとても大きな宿題が都市デザイン室には与えられているという印象を両方の講演から受けました。田村明による「企画調整」からはじまった都市デザインが時代に応じてどのような役割を与えられてきたのか、そして別様の役割ではありえなかったのか。そうした歴史的な検証が求められているのではないでしょうか。(青木淳弘)
After listening to the first and second commemorative lectures, which are being held online as part of Yokohama's 50th anniversary celebrations of urban design, it struck me that the question is whether these initiatives are personal or organizational. In the first session, we heard about the city of Yokohama, and Shunsuke Iwasaki and Naoyuki Kuniyoshi talked about the start-up of the Urban Design Section of Yokohama City, while in the second session, Yoshi Miyazawa and Shinichi Yoshimura talked about the approach and history of water and green urban design activities. However, if we look at them a little differently, we might argue that the success of these projects was due to a particular set of people in Yokohama at a particular time. In other words, the question is whether the kind of urban design described in the lecture is possible and required in Yokohama today. We believe that it is necessary to critically inherit the urban design of the past in order to take a constructive view of the present. I think there is no doubt that the City Urban Design Section was filled with unique talents. Cross-departmental collaboration by coordinative mechanism within municipal administration has been identified as one of the most important elements of urban design. This was a theme that came up frequently in both talks, and there was recognition that we are probably better placed than ever to achieve this. On the one hand, if urban design is too impersonal, the continuity and development of the urban design activities will be lost; on the other hand, if it is too systematically regulated, it will become too rigid. In other words, it is not possible to say that the enhancement of the system itself will immediately lead to an ideal fulfillment of urban management. If we expect urban design to innovate well beyond the rule of fixed duties (i.e. amorphous fluidity), it is necessary to have people with attractive ideas, a system to support them and a system that is not rigid. It may be easy to describe in words, but I got the impression from both lectures that the Urban Design Section has a very big homework to do. Starting from the theme of "planning and coordination" by Akira Tamura, what role has been given to urban design according to change of the times, and could it not have been a different role? Isn't there a need for such a historical examination? (Atsuhiro Aoki)
2021年
11月
30日
火
NPO五周年記念誌の発行 Publication of the fifth anniversary of our NPO
当NPOの設立(2015年4月)から五周年を記念して、会員による論稿で本を発行しました。研究資料・情報開示/国内外での出版にPDFを掲載しましたので、是非ご覧ください。
As a commemoration of the fifth anniversary of our NPO since it establishment in April 2015, we have published a book written by our members. You can visit the PDF freely.
2021年
11月
19日
金
地球環境時代における企画調整機能 Coordinative mechanism in global environmental age
淺川賢司・青木淳弘『地球環境時代における企画調整機能』
2021年11月17日(水)午後6時~8時半
なか区民活動センター(中区役所隣)研修室1
参加者6名(講師含む)
当NPO法人では、飛鳥田・田村時代(1968/1978)における「企画調整機能」を解明すべく学術研究会を設置しております。外部有識者として長崎国際大学特任教授の檜槇貢氏にも加わっていただき、主たるメンバーとして淺川賢司・青木淳弘そして田口俊夫が参加しています。工学院大学の星卓志教授と横浜市立大学の鈴木伸治教授にも加わっていただき、文部科学省の科研費(科学研究費としての学術研究支援費)に応募しています。今回の公開研究会では、科研費の申請内容とそれに関係する活動状況を、淺川さんと青木さんにご説明頂きました。
今回特に感じたのは、公開研究会ならではの参加者の「脱線」の面白さでした。基本的には我々が取り組んでいる企画調整研究の紹介を行うはずでしたが、参加者の皆様がそれぞれに交わす語りの中から、さまざまな示唆を得られたように思いました。淺川さんも指摘されていますが、人事評価の導入によって、総合計画の策定をはじめとする長期的な見通しが困難になっているということは重要と思われます。総花的になってしまった総合計画の内実も含めて検討する必要があると考えられます。
またやはり首長との関係で、首長にもさまざまなタイプがありますが、その首長は「誰が」作り上げるのか、言い換えれば、どのような人が政策形成において首長に対してどのような情報を提供しているのかということも重要と改めて考えさせられました。これは「ブレーン」とされたりしており、(田村明さんは否定するものの)飛鳥田市政のブレーン中心主義という批判があったことも合わせて検討の余地があるように思います。そのときに重要なのは、首長とブレーンの関係だけを固定されてみるのではなくて、ブレーンと関係を持ちそうな部局、そして首長と部局との関係も合わせて、その間の相互関係をどのように位置付けるかということであるように思いました。
もうひとつ強く感じたのは、現役職員の問題意識をもっと知る必要があるということです。
まずは横浜市。そして可能であれば、同じく「企画調整的な」取り組みをしている自治体の職員の声も企画調整研究に反映できたらより良いと思われました。
今回の公開研究会で改めて思ったのは、やはり当事者のリアルな語りの持つ面白さでした。
コメント(ときどき雑談)をしていただいた皆さんの言葉もしっかり記録しておく必要があるのではないかと強く感じました。(青木淳弘)
さて、本日は久しぶりの対面形式ということで、リモートでは難しい深い議論ができたように私も感じました。たくさんのアドバイスを頂いたなかでいくつか例示するとなると以下のポイントが挙げられると思います。
企画調整機能については、首長に大きく影響されるという点は内部でも議論していたところですが、ハード面を行政スタッフに任せず目配りしてしまう官僚OB系の首長タイプというご指摘はあまり意識していなかった点だと思います。
また、職員の人事評価(導入?)が長期的な行政を意識させにくくなっているご指摘もあり、たしかに職員の業務遂行の思考回路に大きく影響を与えているものと思います。
高度成長期と現代とでは歳入状況も大きく異なり、それに伴い職員の自由度も多大な影響を受けていることから、当時に比べて企画や庁内調整が難しくなっているのではないか、というご指摘も検討の余地はあると思います。
さらに、事務事業のアウトソーシングで自治体職員の能力が低下しており、自治体が技術職の採用を抑制している点もそれに拍車をかけているとのご指摘もあり、現場に一番近く現場の問題に一番精通している職員から実効性のある企画のアイディアが出てこないのは構造的な問題もあるように感じました。
以上、頂いたコメントの羅列となってしまい恐縮ですが、企画調整研究はこれからも方法論を模索していかないと痛感いたしました。(淺川賢司)
2021年
11月
16日
火
久しぶりの対面形式の研究会 Open meeting in person after a long period of interruption because of Covid 19
公開研究会(2021年10月26日開催)
2021年10月26日(火)午後6時より7時30分
なか区民活動センター研修室2
話題提供者:田口俊夫(NPO副理事長)「横浜市都心部における高速道路地下化事案にみる自治体企画調整室の役割(その2)」
参加者:4名(講師を含む)
2021年10月26日火曜日夕刻から、久しぶりに対面形式の公開研究会を開催した。テーマは田口が何年も研究しているもので・・・田村明の最初の大仕事である横浜都心部における高速道路地下化事案(1968/1969年)の経緯調べである。今回、当時の経緯に係る詳細な内部メモを市史資料室から入手して、やっと全体像が分かりそうな気がしている。でも、書き進めていると、それでも分からない部分が出てくる。実に、歴史的検証作業は難しいものである。日本建築学会の論文集にも当該研究の第二弾を提出したが、「新たな知見」は何かを盛んに聞かれる。こんな状態にもかかわらず、当日の公開研究会を対面形式で開催した。有難いことに、3名の聞き役が来てくれた。でも、当日、この詳細な内部メモの作者が、その筆跡を知る参加者の指摘で分かったことは大きな収穫であった。やはり、対面形式はいいものである、と感じた。
2021年
10月
17日
日
田村明の都市デザイン Akira Tamura's Urban Design
秋元康幸氏(元横浜市職員、横浜国立大学特任教授)からの依頼で、BankART Schoolで「田村明の都市デザイン」を語ることになった。2021年9月23日(木)夜7時半からBankART Station(みなとみらい線新高島町駅)で、十数名の聴講生を前にして1時間半ほどお話しした。都市プランナー田村明がいつの時代から都市デザインを意識したのか、がある。そして、横浜市で岩崎駿介などの都市デザイナーが企画調整室に入る前、槇文彦などの外部専門家をどう活用しのか、も問われる。かつ、田村の企画調整活動の中で、都市デザインの位置づけと役割は如何なものだった、のかもそれ程明らかでない。
結論的に言えば、田村は1960年代初期から、都市デザインの可能性を理解していたし、地域計画において都市デザイン専門家を活用することを考えていた。1968年横浜市に入った田村は槇文彦を信頼して任そうとしたが、刻々と状況が変わる役所内情勢に臨機応変に対応するには、どうしても行政内部に専門家が欲しい、と考え始めていた。そこに1970年末、岩崎がハーバード大学大学院留学から戻ってきた。田村は役所に都市デザイン担当を組織的に位置づけたいと思い、岩崎もその考えを共有していた。田村が新市長に左遷される1978年までに、都市デザインを専門とする多様な人材が市に入ってきた。その人材たちはヨコハマに拘り都市デザイン室として活躍するのだが、田村が主導する首長に直結した企画調整局がないなかでの都市デザイン活動はおおきな限界をもつことになる。
At the request of Mr. Yasuyuki Akimoto (former Yokohama City official, special professor at Yokohama National University), I was invited to give a talk on "Akira Tamura's Urban Design" at BankART School on Thursday 23 September 2021 at 7.30pm at BankART Station (Shintakashima-cho Station on the Minato Mirai Line). I spoke for about one and a half hours in front of a dozen audiences. There are several questions regarding Tamura’s understanding of urban design; when is Akira Tamura first became aware of urban design, how did he make use of outside experts such as Fumihiko Maki before urban designers such as Shunsuke Iwasaki joined the Planning and Coordination Department in Yokohama City? It is also not so clear what the actual position and role of urban design was in Tamura's planning and coordination activities.
In conclusion, Tamura understood the importance and its potential of urban design from the early 1960s, and was considering the use of urban design specialists in comprehensive planning. However, in order to respond flexibly to the ever-changing situation in the bureaucracy, he began to think that he really needed an expert within the administration. At the end of 1970, Iwasaki came back from studying at Harvard University. Tamura wanted to organize an urban design team in his department and Iwasaki shared this idea with Tamura. By the time Tamura was replaced by the new mayor in 1978, the city had attracted a diverse group of urban designers by that time. Since then, in the absence of a planning and coordination department directly linked to the mayor under Tamura's leadership, the urban design functions were severely limited, I presume.
2021年
9月
25日
土
日本建築学会大会でNPO会員が論文を発表しました Our NPO members addressed papers at the AIJ conference
日本建築学会大会(東海)2021年9月7日開催で、当NPOの淺川賢司会員と田口俊夫会員が、それぞれ「区域区分制度の活用における地方自治体の政策意図に関する研究」と「横浜金沢地先埋立地への内陸中小工場移転集団化事業に係る移転跡地活用状況調査」を発表しました。特に、田村明が1970年に設定した市街化区域・調整区域の区域区分制度により、50年経った今も横浜市は緑(都市農業、市民の森、大規模公園)と共存する都市として機能しています。今後、区域区分制度を田村たちが「政策意図」をもって活用した事実に関する研究が進められていきますので、適宜ご報告します。
At the annual conference of the Architectural Institute of Japan held on September 7, 2021, Kenji Asakawa and Toshio Taguchi, members of NPO, presented "A Study on the Policy Intentions of Local Governments in Utilizing the Development Control Zoning System" and "A Survey on the Utilization of Relocated Sites in Relation to the Project for Collective Relocation of Small and Medium-Sized Inland Factories to the Landfill Site in Kanazawa, Yokohama" respectively. In particular, due to the development control zoning system established by Akira Tamura in 1970, Yokohama is still functioning as a city coexisting with greenery (urban agriculture, civic forest, large scale park) after 50 years. In the future, research on the fact that Tamura and his colleagues used this development control zoning system with "policy intentions" will be carried out, and will be reported as appropriate.
2021年
7月
22日
木
インドの都市計画専門誌に論文が掲載されました Article published in Indian Journal of Urban Planning
インドとオランダを拠点に編集発行される都市計画専門誌で、世界の都市問題と都市計画分野の最新記事を集めた”myliveablecity (MLC)”に田口俊夫論文が掲載されました。田口論文は38ページからです。プロフィールが7ページにあります。戦後横浜の都市づくりにおける、飛鳥田市長と田村明の役割を書きました。この執筆の機会を頂戴した編集長のMr. Shyam Khandekar(シャム・カンデカール、オランダで長年都市計画事務所を経営)と編集作業を手伝っていただいたMr. Bruce Echberg(ブルース・エクバーグ、オーストラリアメルボルンでアーバンデザイン事務所を経営)に感謝したい。実は両名共に、田口の英国留学(マンチェスター大学大学院アーバンデザインコース)の同窓生で、田口のNPO活動に賛同してくれています。記事には以下のURLでアクセスしてください。
Article published in Indian Journal of Urban Planning
Toshio Taguchi's article has been published in "myliveablecity (MLC)", a journal based in India and the Netherlands, which collects the latest articles on urban issues and urban planning from around the world. Taguchi's article starts on page 38. The profile is on page 7. I wrote about the role of Mayor Asukada and Akira Tamura in the post-war urban development of Yokohama. I would like to thank the editor-in-chief, Mr. Shyam Khandekar, who runs an urban planning firm in the Netherlands for many years, for the opportunity to write this article and Mr. Bruce Echberg, who runs an urban design firm in Melbourne, Australia, for his help with the editing. Both of them are alumni of Taguchi's graduate course in Urban Design at the University of Manchester, and are supporters of Taguchi's NPO activities. Please access the article at the following URL.
https://drive.google.com/drive/folders/17BGb4byGVUIaiq1Q_wY2PtRvUJXGNLBm?usp=sharing
2021年
6月
15日
火
田村眞生子さま『鉄線花』Makiko Tamura publishes “Tetsusenka”
田村眞生子さまはお気持ちがお元気です、今年91歳になられましたが、句文集『鉄線花』を出版されました。田村明夫人として、当NPO法人の設立と運営に多大なるご支援をいただいております。長年親しまれてきた俳句で、旦那様の思い出や伊豆での生活など、美しく表現されています。是非、その一端に皆様に触れていただきたく、当ウェブサイトに掲載します。
This year, at the age of 91, Makiko Tamura is still very energetic in mind and has published a collection of her haiku poems and essays entitled "Tetsusenka." As a spouse of Akira Tamura, she has given great support to the establishment and management of our NPO. In her haiku, which she has loved for many years, she beautifully expresses her memories of her husband and her life in Izu. We would like to share some of them with you on our website.
2021年
5月
11日
火
松本得三を知っていますか Do you know Tokuzo Matsumoto ?
飛鳥田革新市政を支えた三人衆がいました、企画調整室主幹の鳴海正泰、同室企画調整部長の田村明そして同室都市科学研究室長の松本得三です。三人共にすでに鬼籍に入っていますが、三人が後世の人々に残した思い入れと情熱は現在もかすかに存在しています。三人の中で、朝日新聞記者から転出した松本得三は、ひとり一人の市民を大事にする自治体行政を目指しました。田村が中心となる企画調整室で、実証的データに基づいた行政を推進する都市科学研究室の初代室長に1971年6月就任しました。その過程で、自らも一人の市民として、市民生活に対する分析的視点をもつ行政職員の育成を目指し、多くの若手職員に慕われました。この度、松本に関わる方々に当時の思い出と田村たちが目指した企画調整機能とは何か、を語っていただきました。また、松本に関わる文献も掲載しました。当NPOのwebsiteを是非訪れてください。https://www.machi-initiative.com/research-materials/の「企画調整機能」をクリックしてください。
Do you know Tokuzo Matsumoto?
There were three men who supported Mayor Asukada's liberal city administration: Masayasu Narumi, the deputy head of the Planning and Coordination Department, Akira Tamura, the head of the Planning and Coordination Section of the Department, and Tokuzo Matsumoto, the head of the Urban Science Research Section of the Department. All three are now deceased, but the philosophy and passion they left behind for future generations still faintly exist today. Of the three, Tokuzo Matsumoto, a former reporter for the Asahi Shimbun, aimed to create a local government administration that cared for every citizen. In June 1971, he became the first head of the Urban Science Research Section, which promoted an administration based on empirical data for the Planning and Coordination Department led by Tamura. In the process, as a citizen himself, he aimed at fostering administrative staff with an analytical perspective on citizens' daily lives, and was admired by many young staff. We have asked people involved in Matsumoto’s activities to share their memories of those days and what the planning and coordination function was that Tamura and his colleagues were aiming for. We have also included some material related to Matsumoto. Please visit the website of our NPO.
2021年
3月
12日
金
ニューヨーク高速道路問題と田村明の結びつき Akira Tamura and his connection with the motorway issue in New York City
ニューヨーク市における1960年代高速道路問題に関する田口俊夫の研究論文が、日本建築学会の審査に通り「日本建築学会計画系論文集」に掲載されたのでご報告します。田村明研究とニューヨークとの結びつきは、唐突な感じがするかもしれない。NYマンハッタン島南端のSOHO地区に計画され断念されたロアーマンハッタンエクスプレスウエイLower Manhattan Expresswayは、1968年に推進派のロバート・モーゼスRobert Mosesと反対派のジェーン・ジェイコブズJane Jacobsが、ジョン・リンゼイ市長John Lindsayを巻き込み激しく対立した事案であった。一方、田村は横浜都心部で首都高速道路を地下化する事案の調整を進めていた。横浜では、市民要望を受けた飛鳥田市長の強い意向もあり、田村たちの粘り強い関係機関の調整を経て、都市景観に配慮した高速道路の「地下化」が合意された。NY市ではリンゼイ市長による地下化の案と半地下部分の上空利用を想定した「複合開発Joint Development」構想が提案されたが、実施されなかった。横浜が使われなくなった運河を再利用できるのと異なり、NY市では既存の街区を破壊して高速道路用地を生み出すしかなかった。当時のNY市における交渉過程を、NY市公文書館が保管する報告書や内部文書を発掘し、あわせてNew York Timesの新聞記事を経年的に検索して明らかにした。本研究の目的は、田村による横浜での事案が、実はNY市で同時代的に類似事案があったことを示すことで、田村の世界的な文脈での位置づけを図ることにある。
We are pleased to announce that Toshio Taguchi's research paper on the 1960s motorway issue in New York City has been reviewed by the Architectural Institute of Japan and published in its journal. The connection between Akira Tamura's research and New York City may seem strange: Lower Manhattan Expressway, planned at the SOHO district, the southern tip of Manhattan Island, was abandoned in 1968. The Lower Manhattan Expressway was the subject of a bitter confrontation in the 1960s between proponent Robert Moses and opponent Jane Jacobs, involving Mayor John Lindsay. Meanwhile, Tamura was coordinating the undergrounding of the Metropolitan Expressway in the central part of Yokohama. In New York City, Mayor Lindsay proposed an undergrounding plan and a "Joint Development" plan that would use the above of the open-cut. But this was not implemented unlike Yokohama, where disused canals could be reused, in New York City the only option was to destroy existing city blocks to make right-of-way for the motorway. The process of negotiations in New York City at that time was clarified by excavating reports and internal documents kept by the New York City Archives, and by searching New York Times newspaper articles over time. The purpose of this study is to show that Tamura's case in Yokohama is compatible with the one in New York City in their global planning context.
論文は、「研究資料・情報開示」→「高速道路地下化」→「ニューヨーク市におけるロアーマンハッタンエクスプレスウエイ計画の経緯」をご覧ください。
2021年
3月
02日
火
鳴海正泰訃報 Masayasu Narumi passed away
飛鳥田一雄横浜市長の政策アドバイザーといわれた鳴海正泰が2021年2月14日永眠した。89歳であった。東京都政調査会(組合系のシンクタンクで、「東京市政調査会」とは異なる)の研究員から、飛鳥田の依頼で1963年横浜市総務局調査室副主幹(課長級)として転身した。飛鳥田が市を去る1978年まで在籍した。政治の鳴海、調査の松本得三、そして都市づくりの田村明の三人の特異な人物が飛鳥田を支え、革新市政における市民のための都市づくりを実践した。ただし、残念なことに、この訃報は朝日新聞地方版に掲載されたのみで、他の主要紙では確認されていない。鳴海はおおくの論稿を書いたが、その実像を解明した学術研究はまだ存在しない。今後の研究に期待される。
Masayasu Narumi, who was said to be a policy adviser to Yokohama Mayor Ichio Asukata, passed away on 14 February 2021 at the age of 89. Masayasu Narumi was a researcher at the Tokyo Metropolitan Government Research Association (a union-affiliated think-tank, different from the Tokyo Municipal Government Research Association) before moving to Yokohama in 1963 at Asukata's request as deputy director (section chief) of the research office in the city's general affairs bureau. He remained there until 1978, when Asukata left the city. Asukata was supported by three able individuals - Narumi in politics, Tokuzo Matsumoto in research and Akira Tamura in urban planning - who put into practice the innovative city planning for citizens. Unfortunately, this obituary was only published in the local edition of Asahi Shimbun, and not in other major newspapers. Narumi wrote many articles, but there is no academic research which clarified his real image yet. Future research is expected.
2021年
2月
12日
金
昔の写真 Old photos of young people
It is a quite rare opportunity to find out and get photos of people belonged to the early days of the Planning and Coordination Section, and especially photo of Akira Tamura when he was the head of the PCS has not been available for decades. This time thanks to Mr. Atsushi Naito’s donation of his old photos, we can have a look of Akira Tamura in his busy days and his young staffers who were working with a full of enthusiasm and dreams. 企画調整室の昔の写真と田村明の同時代の写真を得ることは、これまで大変に困難なことでした。この度、内藤惇之氏(1969年から1978年まで田村の企画調整時代に一貫して在籍)のご厚意により、内藤氏が写真を寄贈いただきました。ありがとうございました。
2020年
12月
15日
火
企画調整局解体 Dismantling of the Planning and Coordination Bureau
下記は細郷道一市政(1978/1990)による「企画調整局解体」の公式見解である。全市職員向けに配布される庁内報(隔月で発行された職員向け新聞)のコラム「標的」に記載されたものを転載した。1982年7月の国連ESCAPとの共催による都市づくりYLAPの国際会議中に発表された。国際会議の事務局一員として「企画調整機能」を世界に発信しようとしていた筆者は、おおいに困惑し、かつ残念に感じた。ただし、「企画調整機能」の解釈が曖昧で、文中に「当初予定された企画調整機能をこえて…」があるが、では、その当初予定された企画調整機能とは何か、が述べられていない。恐らく、コラム担当者も分かっていなかったのだろう。
よこはま庁内報 No.267 1982年7月号(6月20日発行)全職員配布
編集:庁内報編集委員会 発行:横浜市市民局市民活動部広報課
標的:企画財政局に期待する
▼今回の機構改革で、企画財政局が創設された。埼玉県にその例がある程度で、指定市ではもちろんはじめての組織である。市政の基本にかかわる企画調整機能と財政機能をあわせ持ち、トップマネジメントを補佐するというユニークな局の誕生であり、これに伴って、企画調整局及び財政局の二局が廃止された。これは実質的な一局削減であり、行革の要請にも応えたものとなった▼新局の発足に伴い、具体的な業務の範囲や、他の局区との関係はどうなるのかなど、職員の間でも関心をよんでいるが、細郷市長が、企画財政局を創設した狙いは、大きく次の二点に集約できるものと考えられる。その一つは、企画調整機能の純化と各局区との機能分担であり、もう一つは、ダイナミックな財政運営への期待である▼これまでの企画調整局は、当初予定された企画調整機能をこえて、実質的な事業実施へも一歩ふみ込んだ形で現在に至っている。ことの功罪は別として、これにより、事業局との機能分担の範囲が不明確になり、また、ややもすれば、事業局における創意工夫の意欲を萎えさせる面も生じていたことはいなめない。これまで、市の全機能をあげてその策定に取り組んできた「よこはま21世紀プラン」も実施の段階に入ったのを機会に、改めて企画調整部門の任務を本来の企画調整機能に立ちかえらせ、21世紀プランの進行管理とともに、市政の基本方向を誤りなくリードする役割を担うものとされたことは、誠に時期にかなうものといえよう。これにより、具体的な事業の企画と実施は、担当局の責任と創意工夫によって行われるが、改めて現局における企画能力の向上が求められるとともに、職員のやる気を起すよい機会になるものと思われる▼一方、よこはま21世紀プランに盛られた事業を着実に実行して行くためには、それなりの財源が必要であるが、世界的な低成長期に入った現在、これからの財政運営には、将来を見通した積極的な取組みと、情勢の変化に素早く対応する柔軟な姿勢が必要になる。その意味で、財政運営にも企画機能に求められている的確な洞察力と健全なバランス感覚が必要であり、そのためには、既存の財政機能の枠を乗りこえ、企画調整部門と財政部門がお互いに長短を補いあい知恵を出しあうことが求められるのであり、新局が成功するかどうかの一つは、企画、財政の両部門がセクトにとらわれることなく、混然一体となって力を発揮するかどうかにあるといってよい▼企画財政局の誕生は、職員ひとしく注目しているところであり、人事異動も終了した現在、いち早く体制を整え、その優れた指導性を発揮してほしいものである。
The below is the official view published on the column named "Target" of the domestic bulletin distributed only for city employees in 1982 when the Saigo Administration (1978/1990) dismantled Tamura’s “the Planning and Coordination Bureau” after the previous mayor Asukata left the city in 1978 leaving Akira Tamura, his most trusted chief planner. The announcement was made during the International Conference on Urban Development YLAP co-hosted by the United Nations ESCAP in July 1982. As a member of the secretariat of the international conference, I was very puzzled and disappointed, because I was trying to convey the “planning and coordination function” to the world. It is obvious that the interpretation by the unknown author of the “planning and coordination function” is ambiguous: the sentence said “beyond the originally planned planning and coordination function,” but it did not say what the originally function was. Perhaps the author didn't understand it, either.
Yokohama City Hall Bulletin No.267, July 1982 (issued on June 20), distributed to all city employees
Edited by: Agency Bulletin Editorial Committee Published by: Public Relations Section, Civic Engagement Department, Civic Affairs Bureau, Yokohama City
Target: Expectations for the New Planning and Finance Bureau
As part of the recent organizational reform, the Planning and Finance Bureau was established. Actually, this is the first organization of its kind in a designated city, with the only example being in Saitama Prefecture. This is a unique bureau that will have both the planning and coordination functions, which are fundamental to city administration, and the financial functions, and will assist top management. With the establishment of the new bureau, there has been a lot of concerns among the administrative staff as to the specific scope of its work and how it will relate to the other bureaus and districts, but I believe that Mayor Saigo's aim in creating the Planning and Finance Bureau can be summed up in the following two points. One is the purification of the planning and coordination functions and the sharing of functions with each bureau and district, and the other is the expectation of dynamic financial management. The Planning and Coordination Bureau so far has gone beyond the originally planned planning and coordination functions and has now taken a step further into the actual implementation of projects. Aside from the merits and demerits of this move, it has made the scope of the division of functions between the Planning and Coordination Bureau and the other Bureaus unclear, and in some ways it has discouraged creativity and ingenuity in the other Bureaus. As the "Yokohama 21st Century Plan," which the city has been working on with all its functions, enters the implementation stage, the Planning and Coordination Department has taken the opportunity to reassert its original planning and coordination function, and has been assigned the role of managing the progress of the 21st Century Plan and leading the basic direction of the city government without error. It is truly a timely move. The planning and implementation of specific projects will be the responsibility and ingenuity of the bureaus in charge, and this will provide a good opportunity to motivate the staff as well as to improve the planning ability of the current bureaus. On the other hand, in order to steadily carry out the projects outlined in the Yokohama 21st Century Plan, adequate financial resources are needed, and as we enter a period of low economic growth worldwide, fiscal management in the future will require proactive efforts that look to the future and a flexible stance that can respond quickly to changing circumstances. In this sense, fiscal management also requires the precise insights and sound sense of balance that are required of the planning function, and this requires that the planning and coordination departments and the fiscal department overcome the sectionalism of their existing fiscal functions and complement each other's strengths and weaknesses and pool their wisdom. One of the factors that will determine the success of the new bureau is whether or not the planning, coordination, and finance departments can work in unison without being bound by sectionalism. The birth of the planning and finance bureau is attracting the attention of all staff members, and now that the personnel changes have been completed, I hope that the bureau will quickly establish its structure and demonstrate its outstanding leadership.
2020年
12月
07日
月
世界の出版界の頂点 Pinnacle of global publishing community
2020年9月に田村明著『都市ヨコハマをつくる』(中公新書1983)をNPOの事業として英訳刊行した。NPO会員や田村明につながる人々にお配りしたが、早速、世界の頂点から反応があった。英国の人文社会科学系専門の大手出版社であるルートレッジRoutledge社の「都市計画・歴史・環境シリーズ」“Planning, History and Environment Series”でその編集長のアン・ラドキンAnn Rudkin女史からである。彼女と9月中旬から二か月間に亘って、出版企画のやり取りをした。ことの発端は、英訳本を進呈した国際都市計画史学会IPHS会員で東京理科大学名誉教授の渡辺俊一先生より、ジョン・ゴールド教授Professor John Goldを紹介され、ゴールド教授が自分より優れた編集者としてラドキン氏を紹介してくれたことによる。ラドキン編集長は英訳本の内容を高く評価してくれたが、日本のことを全く知らない読者向けに高度な学術論文を紹介文Introductionと詳細な注釈をつけることを求められた。それに応えるには田口では「役不足(英語表現では「田村明に近すぎる」)」とされ、出版を断念された。残念ではあるが、2か月間に亘るやり取りで、ラドキン編集長の誠実な人柄を感じることができた。なお、当該シリーズは、世界の著名人が書く極めて質の高いもので、世界の出版界の「最高峰」ともいえる。このような破格の場を垣間見る機会を提供していただいた渡辺俊一先生とゴールド教授に感謝したい。これで、田村明が世界に通用することが分かり、かつ世界の出版界の一端を見ることができた。そして、他の可能性を模索するためにも、田村明を日本の都市計画史上で位置付ける学術論文を早急にまとめる必要がある、と感じている。益々頑張りたい、と思っている。なお、このシリーズのサイトは以下で見ることができる、
In September 2020, we completed an English translation version of Akira Tamura's book " Yokohama: The Making of a City" (Chukoh Shinsho, 1983) as a project of a non-profit organization and distributed it to NPO members and people connected to Akira Tamura. All of a sudden, we received a response from the top of the world, Ann Rudkin, editor-in-chief of the "Planning, History and Environment Series" of Routledge, a leading British publisher specializing in the humanities and social sciences. I, Toshio Taguchi as a representative of NPO, exchanged with her for two months from the middle of September to discuss the publication plan. This all started thanks to the initial advice given from Professor Shunichi Watanabe, a member of the International Planning History Society (IPHS) and professor emeritus of the Science University of Tokyo. He kindly introduced Professor John Gold, one of his friends of IPHS, to me and then Prof. Gold had a chance to talk about the book with Ann Rudkin who is an able editor. Rudkin highly appreciated the contents of the English version and saw a possibility to set it as a candidate of her publication projects. Therefore, she asked me to provide an extensive historical introduction and detailed notes necessary as a highly academic book for readers who were completely unfamiliar with Japan. I was deemed "not good enough" (or "too close to Akira Tamura" in English) to respond to the request, and thereafter the book was abandoned for publication. Nevertheless, I could feel the sincerity of the editor-in-chief's personality during the two months of correspondence. The series in question is of extremely high quality, written by world-renowned figures, and can be considered the "pinnacle" of the world's publishing industry. I would like to thank Prof. Watanabe and Prof. Gold for providing me with the opportunity to get a glimpse of the top of the world as an unparalleled opportunity. This has convinced me to see that Akira Tamura is world class and meaningful even in the world's publishing community. I also feel that I need to compile an academic paper on Tamura's place in the history of Japanese urban planning as soon as possible to explore the next publishing possibilities. I will work harder on this project. Lastly, the website of this series by Rudkin can be found at the URL as follows:
https://www.routledge.com/Planning-History-and-Environment-Series/book-series/PHE?pd=published,forthcoming&pg=1&pp=12&so=pub&view= list
2020年
10月
04日
日
古い知識の新たな役割 A new role of old knowledge
横浜市がバレエ・オペラ専用劇場を建設運営する計画を進めている。オペラ好きの林文子市長の強い要望の結果である。2500席のホールと作品制作やダンサーの育成を担う創造支援センターがある。この維持費が年間45億円かかる、大変な規模である。建設費はいくらかかるのだろうか、数百億円だろうか・・・建設費は市債で、維持費は市民税で賄われる。芸術振興に反対を唱えるものではないが、IRカジノ建設に奔走する林市長はその収入をあてにしているのだろうか。IRカジノ建設は大幅に減る税収補填であるとされたが、本当の理由は市長の「趣味」のためなのだろうか。かつて、当NPO法人が研究を続ける都市プランナー田村明(横浜市企画調整局長1968/1978)が、当時の飛鳥田市長の願いで横浜スタジアムを計画するときに、「株式会社横浜スタジアム」を市民からの株式出資を受けて設立し、施設を建設した。完成した施設を市に寄付し、代償として市が株式会社に専用利用権を与える方式を考えだした。田村明著『都市ヨコハマをつくる』(中公新書1983年)に詳しく書かれている。もし英語版が必要だったら、NPO法人のwebsite
https://www.machi-initiative.com/yokohama-the-making-of-a-city/からダウンロードできる。本当に必要な施設であるならば、市民からの合意と協力を得て進めるべきだろう。その知恵は、かつての横浜にある。
The city of Yokohama is planning to build and operate a theater dedicated to ballet and opera. The facility will include a 2,500-seat hall and a creative support center for production and dancer training. The annual cost of maintaining this facility will be 4.5 billion yen, which is a huge sum. I wonder how much it will cost to build it, maybe tens of billions of yen... Construction will be funded by city bonds and maintenance will be paid for by city taxpayer’s money. It is not that I am opposed to the promotion of the arts, but I wonder if Mayor Hayashi is counting on this revenue to receive some from the IR casino, which is supposed to be a way to compensate for the much-reduced tax revenue, but is the real reason for his "hobby"? In the past, urban planner Akira Tamura (Director General of Yokohama City Planning and Coordination Bureau, 1968/1978), with whom our NPO has been conducting research, established a company called “Yokohama Stadium Corporation” with equity investment from the citizens of Yokohama at the time of the planning of the Yokohama Stadium, at the request of then Mayor Asukata. In exchange for donating the completed facility to the city, the city came up with the idea of granting the corporation the exclusive right to use the facility. You can read more about this in Akira Tamura's book "Toshi-Yokohama-wo-Tsukuru" (Chuko Shinsho, 1983). If you need an English version of this book “Yokohama: The Making of a City,” you can read it on our NPO's website https://www.machi-initiative.com/yokohama-the-making-of-a-city/. If the facility is truly necessary, it should proceed with the consent and cooperation of the public. The wisdom of this is found in the old Yokohama.
2020年
9月
01日
火
都市ヨコハマをつくる英訳本完成 YOKOHAMA: THE MAKING OF A CITY
田村明著『都市ヨコハマをつくる』中公新書1983の英訳本が完成しました。このWebsiteから無料でダウンロードできます。是非、ご一読ください。
Now we publish an English version of Akira Tamura's famous book, "Toshiyokohamawotsukuru, YOKOHAMA: THE MAKING OF A CITY, " for the free use of general public. You can download it from our website. We hope you can enjoy it, thank you.
2020年
8月
10日
月
Under the society of COVID-19 a new style of joint research activity コロナ危機の中での新たな共同研究の姿
コロナ危機の中、皆様はお元気されているでしょうか。異常に閉塞的な社会状況となっており、NPOの公開研究会も開けない状態です。それでも、当NPOでは新たな研究テーマを構想し、外部研究者と共に研究企画書をリモート(Skype利用)でとりまとめています。テーマは「横浜市旧企画調整室にみる総合的問題解決機能のあり方(仮題)」となる予定です。旧企画調整室(田村明室長)では、六大事業や土地利用コントロールに限定せず、緻密な社会調査を元に市民生活全般に係わる事務事業の企画と実践に向けての調整を続けていました。それらのことが1960年代の歴史で終わらず、2020年代以降の自治体においても有用性をもつと仮定し、その歴史的事実を明らかにし、新たな理論の定立を目指すものです。
Under the COVID-19 we hope everybody is safe and happy. Because of the current difficult situation we cannot open seminars in person. Despite this environment we have started a new style of research activity together with outside scholars on the internet regarding a new tentative theme " A possible form of holistic local issues solution system derived as a connotation of Yokohama's planning and coordination section." Akira Tamura, director of the Planning and Coordination Section, tackled various issues concerned with citizen's everyday life besides the famous Six Spine Projects and Local Land Use Control through extensively using the results of social planning research. As we understand, Tamura's theory and method was useful during the 1960s and 70s, and it could also be utilized even after the 2020s.
2020年
5月
28日
木
Yokohama's New City Hall 新市庁舎訪問
Today I went to the New City Hall, high-rise tower by the Ohka river and the Harbor, and climbed up to the 29th floor where my familiar Division has their new office. Shocked and also surprised I was at its new style of office security system, since people and/or citizens cannot enter the office sections. It is possible that people can go up to the intended floor, however, from where they are not allowed to enter the office and have to walk around the corridors aimlessly or suspiciously. When recalling the old days of my career at the urban design team in the 1970s, many strange people, architects and planners or citizens or unknown research scholars, visited our tiny office space without any invitation and had an enjoyable and sometimes inspiring conversations for hours. This kind of informal interactions could help new ideas evolve towards new challenging team spirit that may be indispensable when tackling urban issues. I really hope that officers of the Division would maintain their informal atmosphere and enjoy such meaningless conversation with suspicious people as before.
今日たまたま新築間もない市庁舎、大岡川と港に接した場所にある、を訪れ29階にある旧知のセクションに行こうとした。でも、部外者はその階に到達できても、執務室には入れない、これが新しいセキュリティシステムらしい。実は知人が不在だったこともあるが。そのため、部外者はあてもなく、もしくは不審人物そのもので廊下をウロウロすることになる。自分が旧市庁舎の都市デザイン担当に勤務していた頃を思い出すと、執務室にはいつもいろんな人たちがたむろしていた、建築家や都市計画家そして市民又は素性がよく分からない研究者など。招待もされずに急に訪れて、長々と雑談をしていくのである。このような出会いが実に面白くて、この機会が新たな仕事上の発想や、時にはチームとしての共同体意識も育むことがある。是非難しいだろうが、今後もこのような非公式な雰囲気を持ち続けて欲しいと願っている。(文責:田口)
2020年
3月
31日
火
ネットミーティング Net meeting
Under the current corona virus environment, we made ourselves have a net meeting from home. Today three of us that would attend the planned conference of the International Planning History Society to be held in Moscow this summer made critical observation on each paper. It was originally to prepare ourselves for the conference, however, it has been decided to postpone the conference to the next year because of the corona virus. We used full two hours for it and found very rewarding.
コロナウイルス真っ只中、NPO会員三名でネットミーティングをやってみた。自宅に閉じ込められて研究している仲間がスカイプで、それぞれの研究論文について批評し合った。コロナがなければ、今年7月にモスクワで開催されるはずだった国際都市計画史学会の大会で発表する予定だった、それぞれの英語論文について意見交換した。自分では気が付きにくい点の助言をもらえて、実に有益な2時間であった。今頃になって、ネットミーティングは実に活用できる方法とみた。
2020年
3月
19日
木
かおり閉店 Close of French restaurant Kaori
横浜市庁舎にある老舗のフレンチレストラン”かおり”が市庁舎移転にともない今年4月末で閉店します。市の職員や一般市民にも親しまれてきたレストランが閉店するのは寂しいものです。”かおり”は本店が山下町にある老舗のお店です、市庁舎議会棟の地下に議員や職員向けに作られたのですが、これを決めたのが田村明さんだったのです。当時、市庁舎の職員食堂として、老舗のレストランをもってくるのは異例でした。値段は安く、でも質は高い、サービスも気持ちよい・・・そんなレストランです。名物のチョコレート菓子やレーズンサンドもお土産用に売っていました。私は職員時代から辞めてからもよく通い、好物が「カツカレー」でした。よく煮込んだカレーと肉厚のカツが美味しかったです。田村さん拘りのお店がなくなるのは寂しい限りです。
A French restaurant "Kaori" will be closed at the end of April this year since the City Hall is to move to the new place. It was Tamura who decided to set the old and popular restaurant loved by Yokohama people at the City Hall maily used by the city officials still bein open to the public for the last fifty years. One of my favorites is "Curry with pork cutlet" which I loved and came often to eat. Goodbye to Tamura's favorite, thank you for a long time.
2020年
2月
19日
水
New Publication 田村明出版計画
Publication plan to commemorate the fifth year of our NPO establishment; we are planning to publish a book about Akira Tamura and the brief history of our organization until the end of this year of 2020. The articles will be written by our members who have various concerns and perspectives, and also include papers addressed by eminent scholars, practitioners and retired city officials at our previous sessions. We would like to clarify Akira Tamura and his dreams more.
研究会で出版計画を議論しました。2015年の発足から5年、田村明没後10年を経過した今年、これまでの活動の集約と会員からの投稿により、田村明の活動と果たせなかった夢を書き集めたい願っています。2020年2月17日に開催された出版に向けての研究会では、参加者十名全員が難しい顔をしています。まだまだ、田村明研究は途上ですが、現時点での「思いの丈」を表現したいと考えます。
2019年
12月
18日
水
建築コントロール制度と田村明 Building Control Measures by Tamura
地曵良夫氏(元横浜市企画調整局)「都心部強化事業と環境設計制度を活用した開発指導」"Yokohama's central business district revitalization projects and its building control measures by Akira Tamura" by Mr. Yoshio Jibiki
NPOの公開研究会が2019年12月17日(火)午後6時から、桜木町の市民活動支援センターで開催されました。
地曵良夫氏は大学院を終えて企画調整局企画課に入り、主に建築コントロール関係の制度づくりを担当されました。当時仕えた田村明局長は、建築を学び法律を修め、国の官庁や民間会社で不動産実務を経験した偉大な人物で、法律制度の限界と運用の可能性を知りつくしていました。当時の人口急増と環境保全の対策のために、横浜市独自の建築コントロール制度が田村によって作られました。地曵氏は「田村明になりかわって」、田村の戦略を分析しながら、それぞれの制度について、その創設の戦略性と現場での運用実態について詳細に語っていただきました。詳細はテープ起こしによって後日ご提供します。
A detailed explanation about the Building
Control Measures applied in Yokohama since its 1960s until the present was made
by Mr. Jibiki, ex-official of the Planning and Coordination Bureau headed by
Akira Tamura, at his lecture held as the monthly meeting of NPO Tamura and delivered on December 17th ,2019. He was greatly impressed by Tamura’s
philosophy and strategy to utilize laws and regulations and also invent new
measures on his initiative.
2019年
11月
29日
金
ニューヨーク調査報告 A research visit to NYC
Now I am in New York, doing a research work about the Lower Manhattan Expressway and the Lindsay administration who terminated its project for ever. Among reseach scholars, this subject has been only discussed on viewpoint of the relation of Robert Moses and Jane Jacobs who battled for a decade with their totally different planning philosophies. However, after their leave from the stage of this project in 1968, it was not clear how the Lindsay administration had conducted its planning process of this highway project and finally reached the decision to end it. This time I have come to the assumption that mayor Lindsay had tried to become independent on local initiative over proceeding the project for New York City, since I have attained some related date and documents from the achives of Department of Records & Information Services, NYC. I will open them when I finish my dissertation about this subject to be submitted to the International Planning History Society. By Toshio Taguchi
いま、ニューヨークにいます、実に有益な旅でした。ここに来ないままで、国際都市計画史学会IPHSへの提出論文を書いていたら、大きな恥をかいていたはずで、内心寒気がします。Lower Manhattan Expressway(“Lomex”)をロバートモーゼスMosesとジェーンジェイコブズJacobsの関係だけから見る本や研究ばかりですが、実は二人は1968年にこの件の舞台から去っている。リンゼイLindsay市長によるLomexの廃止宣言は1969年ですから、「空白の1年間」があります。当然、行政内部は盛んに「ある検討(”JointDevelopment”という高速道路の上空利用)」を進めていて、それが結果としてダメになった、ということですが、外の人にはわからない。その市長声明文を見つけ、それに結び付く1968年からの二つの調査研究報告書も見つけました。ほとんでNY市の公文書館(NYC Records & Information Services)に日中いて、情報を引き出そうとしていました。そして、それをもう一度検討して、再び必要書類を探しにいく、そんな毎日でした。この事案は、それまでMoses主導で進められていた計画を、Lindsayが市長の下に引き戻した「自治体の主体性」の問題ともいえます。同時代、1968年の横浜では飛鳥田・田村が国から行政運営の主体性を取り戻し、高速道路地下化問題を解決した。リンゼイ市長が高速道路計画廃止宣言をしたのは、1969年5月4日です。横浜でも建設省の正式な方針変更が出たのが同じ5月です。結果として、ニューヨークは高速道路建設に失敗したが、横浜はどうにか成功した、と評価します。NY市ではリンゼイ市長の下で、アーバンデザインチームがまとめ役となっていた雰囲気です。横浜の田村もアーバンデザイン的発想をもっていた。面白い話の展開となっています。詳細は、帰国後に報告会で。(田口俊夫)
2019年
11月
19日
火
横浜の都市デザイン行政を振り返る Reflection on the history of Yokohama's urban design
2019年11月15日(金)午後6時より、桜木町の横浜市民活動支援センター4階セミナールーム2号で、早稲田大学教授・卯月盛夫氏による講演会を開催しました。
卯月氏は、早稲田大学大学院修了後にドイツで都市デザインを学び、その後、世田谷区役所で都市デザイン行政を実践されました。早稲田大学付属の専門学校で都市デザインを教えられ、現在は大学社会学部の教授として「社会デザイン」としての都市デザインを教授されています。また、横浜市の都市デザイン室とも縁が深く、横浜市都市美対策審議会の委員長も務められました。その間、みなとみらい地区に進出する「結婚式場問題」で都市美対策審議会が「審議不調」を宣言する事態も発生しました。田村明さんとの出会いを含め、興味深いお話を語っていただきました。現在、テープ起こし中ですので、近々講演全文をご覧いただきます。卯月先生、ありがとうございました。
2019年
11月
11日
月
都市計画学会でポスター展示 Poster presentation at the City Planning Institute of Japan
At the annual conference of the City Planning Institute of Japan since Nov. 8th until 10th held in Yokohama, our organization was given an opportunity to present our posters and leaflets to the participants. We are very grateful of the special treatment provided by the Institute, thank you.
日本都市計画学会・横浜大会(2019年11月8日~10日)の会場で、当NPOのポスター展示をする機会を頂戴しました。学会事務局の先生方、誠にありがとうございました。研究者や学生の方々に関心をもっていただきました。なお、当該ポスターデザインは当会会員の青木淳弘さんにお願いしました。
2019年
10月
18日
金
横浜・佐世保での都市デザイン Urban design in Yokohama and Sasebo
日時:2019年10月8日(火)午後6時より
場所:桜木町市民活動支援センター4階セミナールーム2号
参加者:8名
今回の研究会で、元横浜市都市デザイン室の西脇敏夫氏にお話しいただきました。1976年末に横浜市に入りました。それまで、外部の設計事務所で田村明さんと仕事をすることはありました。1975年に、港北ニュータウンのセンター地区の開発イメージを作成してから、当時の都市デザイン担当が自ら設計した「クスノキ広場」を見て、役所でもこのようなデザイン活動ができるのだ、と理解したとのことです。金沢シーサイドタウンの住宅開発計画案をつくり、有名建築家を束ねながら実施にもっていった経験も思いで深いようです。ただし、入ってから間もなく、政変があり田村さんが企画調整局長を降りたことで、環境がおおきく変わりました。その後も、苦労しながら横浜の都市デザイン活動を守り育て、1999年に要請を受けて九州の佐世保市の理事兼都市デザイン担当として赴任されました。7年に及ぶ期間中に、田村さんも佐世保を訪れ、西脇さんを激励されました。当日の講演の詳細は後日、テープ起こしで発表させていただきます。
Toshio Nishiwaki, ex-urban designer of Yokohama, talked about his experience working with Tamura since the 1960s until the early 2000s. Despite the relatively short term of work, eight months, under the leadership of Tamura at the famous Planning and Coordination Bureau, he could observe how the local planning system worked well and/or needed timely coordination. Since Nishiwaki had a career of architect/planner in private practice, he could understand the both sides of public and private communities. He had worked at several important projects such as conceptual design of the Kohoku New Town centers, management of the Kanazawa seaside housing development planning/design and others. After having worked for twenty three years at the city, he was then requested to move to the Sasebo city government as the chief urban designer in 1999. During his office of seven years there, Tamura one time visited him and expressed his support over the town making efforts by Nishiwaki. Although now Nishiwaki has retired completely, he yet hopes urban design activity to become a useful tool for town making all over the country.
2019年
9月
20日
金
横浜都市農業の現状と未来 “Urban Agriculture of Yokohama, its now and future” by Minoru Hirayama
2019年9月19日(木)午後6時30分より8時30分
桜木町市民活動支援センター4階
平山実氏(横浜市環境創造局みどりアップ推進部環境活動支援センター長)
Urban agriculture of Yokohama is a product of strategic planning, never the one left over by laisser-faire planning. Mayor Ichio Asukata and Planner Akira Tamura had advocated this philosophy since 1968 onwards that even densely built up urban area needs farmlands for not only farmers but also urban dwellers, though the then national government strongly opposed to this local independent policy. In 2015 the new act, “Urban Agriculture Supportive Act”, was enacted by the national government to enhance urban farmland which they claim the necessity of urban life. It took half a century that people understand the value of urban griculture.
横浜の「都市農業」は、市街化による営農環境の悪化に危機感をもつ農家を支援する飛鳥田一雄市長の意向を受け、「都市農業問題研究会」が1967年と1968年に組織され、市職員と学識者により、都市農業振興のために、港北ニュータウンでの具体的な適用を検討しています。都市づくりを担当する田村明(当時、企画調整室企画部長)が、現実的な対応策を港北ニュータウンづくりの中で進めていきます。当時まだ元気だった市農政局(後に公園部門と合体し緑政局に)がもつ市内農家への人的ネットワークからの情報を活用した、どんなに小さくても営農意欲のある農地は残すという田村の方針(1969年)で、市域面積の四分の一を複雑に入り組んだ市街化調整区域として残す画期的なことにつながりました。
当日は、大変に素晴らしい講演会でした、横浜の都市農業の現状を語りつつ未来を参加者と共に探ろうとしたひと時でした。横浜の農業は農業産出額が県内一位、農地3,000ヘクタール、農家3,500戸で、市内全域を「横浜農場」と称するほどに一般市民を巻き込みながら元気に活動しています。かつて、飛鳥田市長と田村明が苦労して残した横浜の「都市農業」がしっかりと根付き、やっと「都市農業振興基本法(2015年)」により、都市内で阻害されたいた農地が「農地は都市にあるべきもの」になったのです。横浜から農地や市街化調整区域はなくてよい、という国の方針に抗した飛鳥田・田村から半世紀経って、やっと国も都市内にその存在を認めることになりました。地産地消により地元野菜や畜産物を育てる農家を今後、更に少子化で空き家が増え変貌する都市情況を如何に農地が再び広がり、都市居住と共存するカタチになっていくかが問われます。なお、全国で、横浜のように総合的かつ戦略的に都市農業を振興している自治体はありません。これだけ市街化された横浜のマチに、力強い農地が残されているのが世界的にも不思議なことです。当日の熱を帯びた講演と意見交換の内容は、またテープ起こしによって再現します。
2019年
9月
15日
日
Research interview of Koichi Nagashima concerned with the Research Project on the Citizen’s Government of Zushi on September 2nd 2019 長島孝一氏へのインタビュー調査報告
9月2日、NPOの「市民の政府」論勉強会の活動の一環として、建築家の長島孝一氏へのインタビュー調査を行いました。逗子市新宿にある長島氏のご自宅にお伺いし、午後2時から3時間ほどお話をお伺いしました。訪問したのは勉強会メンバーの田村千尋、田口俊夫、関根龍太郎、青木淳弘、奥津憲聖の5名です。田村明は1986年10月から1993年3月まで逗子市まちづくり懇話会の会長を務めていましたが、この時、副会長を務めていたのが長島氏でした。インタビューでは長島氏と田村明との出会い、田村明が逗子市まちづくり懇話会の会長を務めることになった経緯、池子の森を守る市民運動とその後の逗子市政など逗子のまちづくりについてお聞きしました。長島氏のご自宅は法律家であった長島氏の御祖父様・長島鷲太郎氏の別邸として1900(明治33)年に建てられました。現在は国の登録有形文化財となっています。今回の訪問では田越川に面する裏庭の木陰で、お話をお伺いし、キャサリン夫人にも貴重なお話をお聞かせいただきました。今回のインタビュー調査を踏まえて、引き続き「市民の政府」論勉強会では、田村明がどのように逗子のまちづくりに関わったのかを考え、田村明の実践と「市民の政府」論との関係性を探求していきます。(文責:奥津憲聖)
2019年
9月
10日
火
建築学会での発表Presentation at AIJ
日本建築学会でNPO活動について論文発表をしてきました。
Participated the annual conference of the Architectural Institute of Japan held at the campus of Kanazawa college of technology, Kanazawa of Ishikawa, and spoke about a thesis regarding our NPO organization
日本建築学会の北陸大会(毎年全国で開催される学会の大会、今年は金沢市の金沢工業大学キャンパスで開催)で、当NPOの活動を「都市計画史人物アーカイブ」の試みとして、副理事長の田口俊夫が論文を発表しました。論文の詳細は別紙をご覧になってください。当日は20名弱の聴衆(すべて大学等の研究者)を前に、当NPOが2015年に設立されてから継続している田村明と横浜のまちづくり研究と研究に際して収集した資料の、当NPOのWebsiteでの公開活動を紹介しました。他のアーカイブが豊富な資料を基に活動していることに比べ、当NPOは何も持っていません。田村明が蔵書以外に、横浜市で活動した当時の資料を一切残さなかったため、研究活動で新たに田村明に係る資料を収集整理するしかないのです。あえて言えば、”Virtual Archives”とも言えます。会場には建築家・大高正人のアーカイブを運営されている研究者もみえて、今後の連携の可能性について話し込みました。それにしても、暑かったですね・・・
Taguchi talked about our NPO’s challenging activities since 2015 onward to research Akira Tamura and collect useful information related with Tamura and his achievements. Compared with other famous archives conerning eminent town planners of Japan, we do not have anything to be transferred from Tamura who did not possess documents or materials related with his town planning activities. Therefore, we call ourselves “Virtual Archives” or “an archive with nothing to possess.” The college campus where the conference was held is a famous masterpiece designed by Ohtani Sachio, one of disciples of Kenzo Tange, that is well maintained despite long years passed since its construction.
2019年
9月
03日
火
自治体学会堺大会に参加 Local Administrators Society
A report of participating the poster session held in Sakai, Osaka, as the annual conference of the Local Administrators Society, Jichitai-Gakkai, on Saturday, August 24th 2019.
Taguchi and Okutsu, members of the NPO Akira Tamura, attended the poster session and explained participants of the conference about the recent activities and results of our organization. Although many customers were not expected for the most time, the special occasion during the lunch break while so many people came and listen may be an exception for us and other presenters alike. Okutsu made an impressive speech to the audiences and explained our commitment as a new virtual archive regarding Akira Tamura and his works.
NPOとして、自治体学会堺大会(2019年8月24日)でのポスターセッションに参加しました。田村明に関する「都市計画史人物アーカイブ」としてポスターを展示して、来場者に説明しました。田口会員と奥津会員が説明役で参加したのですが、お客さんはあまり来ず、暇にしていると急に、昼休みに大勢の方々が来場していただきました。奥津会員が力のこもった説明をしました。そもそも、自治体学会は田村さんが創立に深く関与されたもので、自治体職員や研究者そして市民が「元気のある自治体づくり」を話し合う場としてつくられました。自治体学会として「田村明賞」を全国の頑張る個人や団体に毎年授与されています。我々も元気になった一日でした。
2019年
8月
07日
水
NYCとYKCの高速道路問題、市民の政府論勉強会の発表 Two presentations regarding highway issues of NYC and YKC and Zushi City from Tamura's citizen's perspective
Does coordination mean a compromise by the Japanese understanding ?
by Toshio Taguchi 発表者:田口俊夫
While planners are always searching better solutions for town planning activities, they become conscious of the need to coordinate tangled issues among concerned parties. We, Japanese people, are tend to use the word of coordination in good meaning in order to reach an acceptable result for most people concerned, however, it might be different in the American society. Some people may say that there is no grey area, instead clearly cut such as black or white, in that society. Akira Tamura, the chief planner of the City of Yokohama in 1968, succeeded to make the project of the new urban motorway partly undergrounded and rerouted through relentless negotiations with concerned parties. It is an issue as to how we can call it a success of coordination or a result of compromise. At the same year Jane Jacobs beat Robert Moses on the citizen’s opposing movement against the Lower Manhattan Expressway project in New York. They did not try to reach a compromise, neither a coordination among the state and city governments and the citizens. They claimed that they did not want any highway in the middle of their residential district. Then in 1970 an American scholar, who was very young at that time and later became a dean of law school, wrote a dissertation to figure out the necessity of coordination machinery within public authority that should work having with different views but economic effects for people.
横浜の高速道路地下化を調整した田村明の業績を、どう世界的文脈で位置づけるか、を研究会で議論した。まったく同時代的に、米国ニューヨークでも、都市内高速道路の建設問題があり、建設王ロバートモーゼスと住民運動家ジェーンジェイコブスが鋭く対峙していた。同じ1968年である。都市計画事業には、あるべき目標に向かって「調整行為」が必要である、との仮説をもつ。いやいや・・・調整など必要ない、絶対反対を貫くべきだ、との立場をジェイコブスたちはとった。米国社会では「妥協」はないのか・・・それもおおいなる疑問である。米国の法律学者たちも、必要な都市計画事業を推進するためには、住民を含む関係者の協力そして妥協が必要だ、との認識をもつ。そのシステムを行政内、特に住民に最も近い市政府などの自治体に設けるべきだ、との考えである。ジェイコブスの時代には、州政府と市政府が一緒になって、建設王モーゼス(州政府の外郭団体である高速道路公社の総裁)と共に、住民団体と対立した。さて、当論文がどう世界で受け止められるのか・・・興味深い。
2019年
7月
24日
水
Visit to Nishiyama NPO 西山文庫訪問
Taguchi and Sekine, members of Akira Tamura NPO, visited Uzo Nishiyama Bunko (library) NPO in Kizgawa, Kyoto, on July 5, 2019. We were impressed by the Bunko and its management as to the size and volume of materials they possess. Although our Tamura NPO has no historical documents left by Tamura, we are determined to conduct empirical research on achievements by Tamura in order to disseminate Tamura into the global stage.
「西山夘三記念すまい・まちづくり文庫」を訪ねて
7月5日、田口俊夫さんと、京都府木津川市にあるNPO「西山夘三記念すまい・まちづくり文庫」を訪ねました。お目にかかってお話を伺ったのは、副理事長の中林浩さん(神戸松蔭女子学院大教授)と事務局の渡辺恭彦さん。
西山夘三(1911~1994)は、住宅の設計や研究をする者にとって避けて通ることのできない巨大な存在です。京都大学建築学科を卒業後、石本建築事務所に勤めます。徴兵され兵役に服したのち講師として京都大学大学院にもどり、大阪・京都・名古屋の庶民住宅3600戸を調査し、町家の伝統が新しい住居タイプとして続いていることを実証しました。その後、住宅営団(前身は同潤会、戦後は日本住宅公団となります)に入り、戦時下の極限状況においてあるべき住宅の姿を追求、食事の場と就寝の場を分ける「食寝分離論」を唱えます。実際の住宅の住まわれ方を分析し、あるべき住宅の平面型を創出する方法は、日本における住宅計画学の始まりで、その計画理論は、戦災復興において大量の住宅を効率的に供給する考え方の基礎となり、戦後のモダンリビングを形づくる「n+LDK」(個室群とリビングダイニングキッチンから成る間取り)へと引き継がれました。
西山は、その後、京都大学教授として住宅団地などの設計に携わり、住宅から集合住宅へ、集合住宅から都市・地域へとその活動領域を広げました。生涯「すまい」に関心をもちつづけましたが、その原点は「すまい」と「くらし」の関係で、特に庶民の住宅を重視しました。邸宅もドヤ・飯場・船やバスを利用した住居も、長屋・木賃アパートも寮・社宅・官舎もマンションも、ありとあらゆる種類のすまいについてメモやスケッチを残し、すまいに関する本を何冊も書いています。
京都大学を退官した西山は、原稿を著作にまとめる一方、まちづくり、まちなみ景観保全に尽力します。1994年、京都駅ビル訴訟の原告側証人として論述した翌日倒れ、それが原因で死去。すぐに西山夘三研究会が発足し、翌1995年、西山夘三記念すまい・まちづくり文庫が設立されました。
西山文庫には、西山が残した厖大な数の「遺産」が保存されています。論文・書籍の他、メモ約650ボックス、スケッチブック約120冊、写真約10万コマ、ノート・日記約400点、新聞スクラップなどで、間近に実物を見せて頂き、一人の人間が残したアウトプットの量に驚くとともに、それを保存して後世に残したことに特別な思いを感じました。
西山文庫の主な活動は、資料の整理と公開、会員へのレター発行(年3回)、セミナー・「夏の学校」開催、すまい・まちづくり関連学位論文の収集・公開、そして出版です。貴重な資料を目当てに、若い研究者が訪ねてきます。また、デルフト工科大学のカローラ・ハイン教授のように海外から西山の業績に注目する人も現れ、教授による西山の主要論文の英訳本(Reflections on Urban, Regional and National Space : Three Essays)も出版されました。
「まちづくり」という語を用いたことからもわかるように、田村明との間にはつながりが感じられます。思考の根底に普通の人々の日々のくらしがおかれていること、国の政策とは相容れないところがあること、資本主義に懐疑的・批判的な立場を貫いたこと、生涯にわたりスケッチ・写真・文章を残したこと、一時代を築いたが活躍した時期と今日とでは時代環境が大きく変わっていること、などです。NPOとして、方向性が重なり合う部分が大きいと感じました。
西山文庫が恵まれていると感じたことが二つあります。一つは西山が残した「一次資料」です。スケッチ・写真・著作の他に、資料を残さなかった田村とは対照的です。もう一つは、積水ハウスによる支援です。生前の西山がプレハブ住宅を批判したにもかかわらず、プレハブ住宅最大手となった積水ハウスは、社会貢献の一環として、近鉄京都線高の原駅近くの研究所の一画を無償提供し、年間2冊の本の出版のための費用として300万円を支給、梅田のスカイビルもイベント会場として提供しています。NPOとしての悩みは、西山研究室のOBの高齢化が進んでいることだそうです。
私たちのNPOは、「物」もなければ「場所」もありません。私たちは、私たちなりのやり方で、「コンテンツ」をつくりあげていかなければなりません。田村の業績を科学的・客観的に分析し、田村の時代とはすっかり変わってしまったこれからの社会で、田村の残した何をどのように役立てられるのか考えるとともに、情報を世界に発信し、仲間を拡げていくことが大切だと感じました。
今後は、お互いのホームページにリンクを張るところから始めて、交流を進めて行こう、ということになりました。方向性の重なり合う先輩NPOとしてご指導頂くとともに、交流を通じ活動の質を高めていきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
(文責:関根龍太郎)
2019年
7月
22日
月
Progressivism of Yokohama Urban Design has been transmitted or not ? 横浜都市デザイン行政の革新性は継承されたか
A meeting that evening was full of constructive opinions and also pros and cons of Aoki’s viewpoint concerning “the Creative City of Yokohama” movement started from the early 2000s. It was said that the Creative City movement is consisted of three components such as creative core (arts and design), national art park concept (remodeling of the waterfront districts by arts), and visual arts production. Aoki pointed out that although some scholar proclaimed its transmission of the basic concept from Akira Tamura’s planning theory and practice in the 1960s into the Creative City movement, but in reality not transmitted from Tamura. However, Aoki acknowledged that the movement has contributed to the sustainable redevelopment of the urban activities, although the movement lacked citizen’s participation. It may be true that some leading officials concerned with the initiation of the movement were disciples of Tamura. Despite the movement was expected to transmit the style of integrated administrative management done by Tamura, it covered limited part of Tamura’s philosophy. All participants of the meeting hope that Aoki will corroborate his theory in the near future.
7月16日の研究会は実に「研究会」らしくなった。すべての参加者(全員で11名)が盛んに発言した。青木淳弘さんの講演テーマは創造都市運動を題材にして『横浜市都市デザイン行政の「革新性」は継承されたのか』という刺激的な研究であるが、それに対して、論理展開の分かり難さや未整理な部分が指摘された。どの指摘も実に建設的であり、今後の青木さんの研究の展開におおいに参考となるものであった。かつて、創造都市活動を提唱した海外の人物が来日した折に、田村さんがその話を聞いて「自分がかってやったことと同じでないか・・・」とコメントした、という。赤煉瓦倉庫や山手の洋館等を保存することに心血を注いだ田村さんの努力がなければ、その後のそれら施設を利用した芸術活動も発生できなかっただろう。継承したものもあれば、継承していないものもある・・・しかし、ある学者が言うように創造都市運動がかつての企画調整のように都市全体を救い文化を形づくるものと言うのも、言いすぎでないか・・・との指摘がある。それにしても、NPOの会員たちが常に考えていることを建設的に意見交換することで、NPOの意義を深めた研究会であった。
講師プロフィール
埼玉県川口市生まれ。2013年東京大学文学部卒業(社会学)。同年東京大学大学院人文社会系研究科に進学し、現在、同大学院博士課程。専攻は都市社会学。英国の都市社会学者Pahlのゲートキーパー概念を批判的に検討しつつ、都市政策に関するメゾレベルでの行政官やコンサルタントによる「継承」や「意味づけ」について研究している。
(文責:田口俊夫)
2019年
6月
30日
日
政治家市長と官僚OB市長 Politician mayor and Bureaucrat mayor
2019年6月24日(月)午後6時~8時
桜木町市民活動支援センター4階セミナールーム2号
講師:南 学
2019年
6月
30日
日
ケニアからの報告 A life in Kenya
「22世紀はアフリカの時代」とは、田村明が再三アフリカを訪れ横浜の現代まちづくり塾などで口にしていた言葉である。6月23日60年余りケニアナイロビで過ごされている
関亨氏が久しぶりに帰国された機会に旧友である我がNPOの田村千尋理事長の求めに応じお話をしていただくこととなった。
関さんを始め昭和一桁世代は太平洋戦争を挟み激動の青春を過ごされた。小学校から青山学院で過ごされた関さんは、戦後商学部で勉学をなされアルバイトで得た金銭を評判のレストランでの食事を楽しまれていた。そのうち料理人と懇意になり、調理の手ほどきを受け料理の基本を身に着けて行った。大学を卒業後、鉱山関係の仕事をしていた父の影響もあり、青森などで辰砂(水銀の鉱物)の採取にあたっていた。ある時彼の妻が朝日新聞の記事に赤坂料亭の女将が旅行途中にナイロビを訪れ気に入り現地にレストランを開くことになったという紹介記事を見つけた。以前から海外へあこがれを抱いていた妻は女将に連絡を取り同行することになり、関さんも通訳がわりに現地へ赴くことになった。この頃既に子供が2人いたのだが。頼りは3年後の帰りの航空券だけだった。
当時のナイロビは、工事従事者の昼は両手いっぱいのポテトチップスを何人かで分け合うような状態だったが、関さんがその脇を通るとその食事を勧められるくらい人々は穏やかで不安は消えていた。ケニア・ウガンダ・タンザニアの東アフリカ3か国には好印象をもっているようだ。日本食はナイロビや周辺にいた日本人を顧客に提供して成り立っていた。和食の食材は遠く港から氷詰めにして魚類などを調達した。約束の3年後経営者が変わったこともあり、食材の運搬などの事業に特化したが、現地の商社等の要請もあり日本人クラブを開くことになった。ある時ナイロビに皇太子殿下(現上皇)が訪れることとなり、大使館のパーティーでカレーライスをふるまわれたそうだ。米大使館のテロ事件のときは店のガラスが割れるなど危機一髪のことも経験されている。山崎豊子の「沈まぬ太陽」では何回か取材を受けてエピソードも使われ、主人公のモデルとも交流があった。
関さんは最近家族の中で一人だけ、日本国籍を離脱した。いつクーデターが起きても財産を取上げられることがないようにするためとは。まさに、コスモポリタン、「こんなところに日本人!」(文責:遠藤博)
2019年
6月
27日
木
越谷からの報告 A report from Koshigaya
当NPO会員の若色欣爾さんより、かつて越谷市で田村明さんが講演した記録をお送りいただきました。越谷市にも了解をとっていただき、今回公開することができました。以下は、その紹介文です。In 1998 Akira Tamura addressed the forum held in Koshigaya, Saitama Pefecture, ommemorating its 40th anniversary of city status. Mr. Wakairo, our NPO member, has made its document open by obtaining an approval from the city administration of Koshigaya, thank you.
越谷市制40周年記念まちづくりフォーラムにおける
田村明先生の基調講演について
越谷市住まい・まちづくり協議会
会長 若 色 欣 爾
本市は今年で市制六十周年を迎えました。 20年前に実施されたこのフォーラムは本市が21世紀に向けレイクタウン事業を始め、さまざまな都市整備事業が進められており、市民も街づくりに関心のあった時期でした。
この時期に田村明先生を迎えて「あすに向けたまちづくり」と題した基調講演を頂いたことは正しく時を得たものでした。その後策定された第三次総合振興計画は市内を13地区に分け各地区ごとに街づくり計画が策定されるなど、画期的なものでした。
しかし、本市は東京のベッドタウンとして急速に発展してきたので約九割が新住民であり、埼玉都民であるのでその多くは地元の街づくりには無関心になっています。そのため、策定された計画は形だけで中身がないものになっており、その後の第四次総合振興計画もこれを踏襲するものになってしまっています。
当団体ではこれを是正するため、まちづくりを行政に押し付ける受益者市民ではなく、我がまち意識をもって、地域課題を自ら解決する経営的市民を目指す活動を行っています。
本市は都市整備事業が一段落し、新たなまちづくりビジョンが求められている時期に来ています。折しも来年度に策定される第五次総合振興計画では田村明先生が提唱する真の市民政府の自治体として、先生がこの講演で言われた我が町の歴史風土を再検証し、生活者の視点から住むに値する、越谷らしい長期ビジョンを作る必要があります。 その意味でもこの基調講演はもう一度読み返す価値があり、20年前のものですが決して褪せることのない越谷市にとって貴重な指針と考えています。
2019年
6月
13日
木
静岡マチ見学会 Group visit to Shizuoka
Shizuoka is a commemorative place that young Akira Tamura lived and learnt at the old Shizuoka High School during the last war. We visited the university archives, where we found the old group booklet written by Tamura and his friends at the factory in Kawasaki during the war as student workers seconded from the Shizuoka school. Despite the severe conditions during the war, this booklet was made without censorship by the police and is full of honest opinions of young students of the time. Appreciations to Professor Tobe in charge of the archives.
6月10日故田村明さんが青春のひとときを過ごされた旧制静岡高校のアーカイブを訪ねて静岡大学を訪ねた。一行は田村千尋理事長はじめ7名。静岡に到着後昼食も早々にタクシーで学び舎の在った城北公園へ向い、安倍川餅を味わうまもなく3時から静岡大学へ赴いた。
アーカイブスの担当は人文科学担当の戸部健教授。旧制高校は静岡大の文理系の前身でもあり、OBなど同窓会などから寄せらた書籍・資料でアーカイブスはつくられている。簡単な説明後資料室へ案内されると、初めに眼に入ってきたのは始業を告げる釣り鐘。奥の方から同窓会名簿を取り出し田村さんの氏名を探し出す。その傍らにB6横和綴じの「映想」があるではないか。田村明さんの回想録?「東京っ子の原風景」P.145によれば、学生寮の結束を高めるために「回し書き」の文集がつくられた。それが「映想」だ。この小さな文集にびっしりと丁寧に思いのたけがつづられていた。戦争末期の時期に、しかも学徒動員先の川崎でも途切れることなく続けられていた。田村明さんの字もていねいに思いもかけないくらいしっかりと書かれていた。参加者7人が感激したのは言うまでもない。映想など将来的に分析を進めるなど今後の協力をお願いをして大学を後にした。(文責:遠藤博)
2019年
6月
09日
日
姫路勝原地区の150年 A history booklet published by Mr. Miki
Katsuhara district of Himeji city has a long 150 years history. Mr. Motohiro Miki wrote the history of his district highlighting its public school and local prominent figure, Kumajiro Tatsukawa who in the early 1910s published a series of popular books among local people called "Tatsukawa Bunko." Miki is one of good friends for Tamura, and whenever Tamura visited the Kansai region he had good company with Miki.
当NPO会員の三木基弘氏より、素晴らしい冊子発行のお知らせを頂戴した。兵庫県姫路市に在住の三木氏はご自分がお住まいの「勝原地区」の150年に亘る歴史を調べ冊子にまとめた。
三木氏は田村明さんと長年の交流があり、関西方面を田村さんが訪れと必ず、三木さんとそのお仲間を訪ねた、という。
兵庫県政150周年記念事業で補助金を得て、自分たちが住む地域の150年の記録をまとめたものです。特に、勝原小学校の沿革も、125年を経ているようです。同じ校区の先達として、戦前によく読まれた大衆文学としての立川熊次郎『立川文庫』の歴史なども興味深い。最後に、田村さんとの交友記録が掲載されている。
今後、地域のまちづくり運動の教材として活用するようだ。ご興味がある方は、三木さんに直接お問い合わせ下さると、冊子をお送りいただけるかもしれません。三木さんのメールアドレスは、以下の通りです。sarutobi0330@zeus.eonet.ne.jp
2019年
6月
04日
火
田村眞生子様宅訪問 A visit to Mrs. Makiko Tamura
当NPO法人の最大の理解者で後援者の伊豆熱川にある田村眞生子様宅を、会員有志が2019年4月13日(土)午後に訪問しました。故田村明の奥様である眞生子様は80歳後半になられましたので、少々体も動きが難しくなっておられますが、頭脳明晰で当NPO法人のグローバルに広がる活動をおおいに支持されています。熱川の丘陵地にあり遠くに伊豆諸島を望むマンションは、田村明が亡くなった場所でもあります。会員たちと想い出話をされ、また和歌活動などご自分の近況も語っていただきました。今後もお元気でお過ごしください。
Five members of our NPO organization visited the apartment of Mrs. Makiko Tamura situating on the Izu hill overviewing the Pacific Ocean and the archipelago of Izu islands on the 13th of April 2019. She is the chief supporter of our NPO and recognizes the importance of global activities to communicate the results of research on Akira Tamura.