Personal memory with Akira Tamura 田村明との出会い・思い出投稿欄
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田村明さんとの出会い 寺澤成介
僕が田村さんの存在を知ったのは大学時代に読んだ雑誌(SDか都市・住宅)に、横浜市の6大事業等の街づくりの紹介とともに、住民自治のもと都市計画の計画主体は自治体であると主張している田村さんの文章に出会ったのが、最初であった。この時、横浜市は面白い仕事をしているとの強い印象を受け、この出会いが無ければ、僕が横浜市に就職することも無かったと思う。
ご本人に初めてお会いしたのは、横浜市が昭和20年代の早い時期から実施していた係長試験(この試験に合格して初めて係長になれる)の面接の時だった。当時面接は集団面接と個人面接の二つがあり、出会ったのは集団面接の時である。受験者が4名、面接官は6~7名で全て局長級のお偉い方々である。その中に企画調整局長として田村さんが居た訳である。ところが面接会場に田村さんの姿はなかった。特に説明もなかったがお忙しいのだろう、会えないのは残念と思っていた。
面接は4人に同じ質問をしたり、答えを準備して待っていたら突然別の質問が飛んできて慌てて答えるなどをしながら進み、始まって半分も過ぎた頃に、悠然と田村さんが会場に入ってこられた。流石、大物と言う感じである。そして、そろそろ我々の面接時間(1時間30分)が過ぎようとしていて、やっと終わると思った瞬間に、田村さんから僕に質問が飛んできたのである。
最初の質問は一年後に開港を控えていた成田空港についてだった。反対運動の事なども聞かれたと思うが、「ボタンのかけ違いです。」と答えたことしか覚えていない。
そして、最後の質問が環境アセスメントについてであった。残念ながら不勉強で、新聞の記事で斜め読みをした程度で、中身についてほとんど知らなかった。が面接なので何か答えなければと思うも、的確に答えることが出来ずるはずもない。ゴニョゴニョと答えた結果、田村さんから一言「君は技術屋じゃない」と言われ、面接が終わったのである。時計を見ると最後の約30分間、僕一人が田村さんから質問を受けていたことになる。
職場に戻ると、上司から「面接はどうだった?」と聞かれ、田村さんの最後の一言で終わったと報告すると、上司からは「来年頑張る事やね。」と。僕にとって、田村さんとの初めての出会いはほろ苦い思い出となったのである。
20年後に田村さんとお会いをする機会があったので、係長試験の面接の話をするも、記憶にないとのお話であった。
(横浜市金沢区在住、元横浜市職員、71歳)
田村明さんとの出会い 田口俊夫
田村さんと出会ったのは、英国留学から帰国した1976年の冬であった。日本建築学会の建物がまだ有楽町駅そばにあった時代である。そこで、田村さんは国吉直行さんを伴なって、それまでの田村さんには珍しい外部での講演会に講師として来ていた。テーマは横浜における都市デザインの話であった。
早稲田大学大学院を休学して、英国のマンチェスター大学大学院にアーバンデザインの勉強に行った人間からすると、「ああ、日本にもアーバンデザインをやっている自治体があったんだ…」という感想だった。その講演会は、当時まだ横浜市に住んでいた早大の卯月盛夫君(世田谷区都市デザイン室を経て早大教授)がえらく横浜の都市づくりを勉強していて、アーバンデザインの勉強会を同じく属する大学の武基雄研究室に立ち上げた縁で教えてもらった。
帰国後すぐにつてを頼って、お願いしていた先輩のいる横浜市役所だったが、その先輩にはすぐには会ってもらえない雰囲気だった。そのため、この講演会もあまり気乗りがしなかった。いつもテニスをやっている曜日なので、天気だったらテニスに行くつもりだった。しかし、雨だった。
講演後に、田村さんに自分が英国で研究用に購入していた住宅地のデザインガイドの本をお貸しした。田村さんから「今度、横浜に遊びに来なさい」と誘われた。後日、横浜市に伺うと、「へ~、こんな処でアーバンデザインの仕事をしているんだ…」と妙に始めてみる役所風景に関心していた。長身長髪でツンとして歩く姿から、後日、都市デザイン担当副主幹(課長)である岩崎駿介さんが「ごっつい奴が来たな…」と評してくれたようだ。
自分としては、まだ早大の大学院でもう1年半勉強しながら、日本での可能性を探るつもりだったので、「是非お願いします」とも言わず偉そうにして帰宅してしまった。その後に、電話があり、その年度は公式には建築職(都市デザイン職も採用上は建築職となる)の採用がないが、無試験での特別採用を数名考えているので、来ないかと誘われた。そこで、いつもの偉さが出て、大学院を卒業する次年度に採用があるならば、通常試験を受けて挑戦します、と答えてしまった。日本の大学院も卒業しておきたい、ということと、日本の状況がまだ見えてこない不安感もあった。
それから全国の自治体で都市デザインの可能性がある処をアポなし訪問をし続けた。どこも当面は都市デザイン専門職を採用することにためらいがあった。時期尚早であったかもしれない。そうこうしている内に、結果として、都市デザインナーになるには横浜市しかない、となった。民間や公団でもよい、という意見もあるだろうが、英国での勉強をしてきた経験からして、アーバンデザインは、地域に根付いた公共施策として行うべきものと確信していた。
1977年の春ごろから大変であった。そもそも、自治体の採用試験対策なるものがまったく分からないのである。準備不足もはなはだしかった。筆記試験はかつかつ…、というよりは満足される点数だったのだろうか。面接試験は、面接官の某局長が「都市デザインとは何か」と議論を振ってきたので、堂々とレクチャーしてしまった。これには、後日、田村さんにえらく怒られた。面接でレクチャーするものではない、と。
横浜市に入庁後は波乱万丈の人生であった。入った途端に、飛鳥田市長はいず、田村さんも閑職におかれることになる。どうにか、企画調整局の都市デザイン担当にはなったが、毎日をどう生き残るかであった。それでも、市役所の若手職員たちでつくった田村さんを囲む自主勉強会(横浜まちづくり研究会)で、おおいに語り合い勉強し、人生の友を得た。役所は38歳で中途退職し、民間企業に移ったが、いろいろな人生の場面でその後も田村さんにはおおいにお世話になった。2010年伊豆の別荘に葬儀の準備の為に出向いた時も、まちづくり研究会の友人と一緒だった。そして、今も眞生子夫人をはじめ、弟の田村千尋さんにもお世話になっている毎日である。
(横浜市南区在住、元横浜市職員、66歳)