内藤惇之さんからの2014年5月21日付メールです。
内藤です。過日の研究会にお招きいただき有難うございました。40年ほど昔のことであり、記憶に曖昧なことが多かったので多少訂正が必要なことがあるかも知れません。その節はよろしくお願い致します。
今度送っていただいた「田村明」資料で、田村さんの部下として伺っていたことで、若干検証していただきたいことが有りますので、以下にメモを書きます。
1.静岡高等学校の卒業は、昭和22年3月か(東大第一工学部建築学科入学が昭和22年4月ならば)
2.昭和27,28ごろ、大蔵省事務次官に採用され一時大蔵事務管を勤められた(ただ研修期間程度の期間だったと述べられたことがある)
3.昭和43年4月1日横浜市採用、企画調整室企画調整部長を任命された
4.昭和48,49年ごろ、横浜市と日本鋼管との間で、扇島埋立てについての覚書が交換された(当時、0.003ppmというわが国で最も高い値のNox排出基準が明記された)
5.昭和50年ごろ、横浜市と三菱重工横浜造船所間で、三菱ドック移転に関する協定が締結された。この協定をきっかけに後の都心臨海部開発計画(MM21計画)が進展されることになった。
以上4,5は実質的に田村明さんが主導で進められた経緯があるため記録に残してほしい。
6.昭和60年ごろ、学位論文を東大に提出「工学博士」となられましたが、博士論文の副本できるといいなと思います。