研究会論点整理部会の報告

 研究会幹事の田口俊夫です。12月25日夕刻、計画同人事務所会議室をお借りして新年度の研究テーマ案について意見交換を致しました。

 みなとみらい(以下「MM」とします)をテーマにしたいという合意はあるのですが、五島哲男幹事よりMMに係わる課題や問題点を時代別に網羅し、それをmatrix図表化してみるという提案がありました。全部の課題や問題点を研究対象とする必要はないが、これから研究する対象が全体のなかでどの位置にあるかを理解したい。

 田口としては、すでにMMにおける「国鉄との交渉過程」と「インフラ負担の事業手法の違い」などの具体的な課題を提案しておりますが、五島幹事の意見に賛同しました。なお、研究会HPを通じて、MMに関係する課題や問題点を募集する案もでています。

当日、久しぶりに参加してくれたT氏のお蔭で、彼が担当した細郷市長・小澤恵一企画課長時代のMM開発初期段階の話をおおく聞くことができました。飛鳥田市長が退任し、田村明が企画調整局長から技監職のみとなり、都市づくりの現場から遠ざかった時代に、小澤氏の活躍によりMM開発はおおきく動き出しました。それまで田村明が主張する「インフラ整備の民間負担論」から転換し公が負担する方式となり、土地価格を抑えることで民間開発が促進されていく。1980年以降のバブル期に向う助走期でした。

 

 寺田幹事より、そもそもMMの位置づけは如何なるものであったのか、という根源的な問いかけがありました。T氏も、業務機能の集積が果たして可能か、不安を抱えながら当時の担当者たちは事業を開始していた。三菱重工から開発を託された三菱地所は、東京丸の内の大地主からMM開発で学び、行動するディペロッパーに変身した。


 マンション建設が進み小学校への収容不可能問題が顕在化し、仮設校舎をMM内に建設するまでになった。しかし、居住人口を入れ込むことは六大事業提案時からあった。オフィス10万人、アパート1.5万人、それに商店街・娯楽施設なども構想されていた。複合地区であった。昭和39年12月の六大事業報告書にたびたび「三菱造船所移転が不可能な場合」という文字が登場する。それでも、田村明は三菱グループ内の業務再編成の動きを読んでおり、仕掛けるには最良の時機であると判断していた。最盛期の造船所を移転させる発想は「奇想天外」という見方ではない。

 またT氏は、飛鳥田時代の田村明はMMに関して「概念的整理」に終始していた、と理解していた。田村明寄贈資料で、三菱グループに絶大な力をもったフィクサー加賀美勝氏の身上調査が当時の企画調整室から探偵社に発注されている。住民の大反対運動で窮した横浜新貨物線問題でも、実は羽沢新操車場への東横浜貨物駅移転との絡みが見えてきている。東横浜貨物駅は、MM開発の玄関口桜木町駅前にあった。三菱地所との勉強会も田村明時代に既に始まっていた。概念整理をおおきく飛び越えた仕掛けが田村明によって仕組まれていたようだ。


 横浜駅ターミナル地区と関内地区を連結してMM地区がある。この都心臨海部はおおきく拡大する傾向にある。港湾機能を実質失った新港埠頭にカジノをもってくる水面下の動きもある。横浜市民にとってのMMは如何なるものか、「MMは市民の誇り」となっているという。投資対効果はプラスであろうが、事業としての収支決算は如何なるものだろうか。

 市役所を退職されたばかりの当時、小澤恵一氏が奥様と一緒に、MMのドックガーデンをひっそりと訪れたという。小澤氏は田村明グループの大番頭の一人であるが、飛鳥田後は政治的な動きが目立ち袂を分かったという見方もある。しかし、自立した都市ヨコハマをつくるというMMの都市づくりの目標は共有していた。残念ながら小澤氏は先月逝去された、ご冥福を祈りたい。