環境開発センターによる初仕事となる『香川観光綜合開発計画マスタープラン報告書』を横浜菊名の田村明さんの書斎で発見した。不思議なことに報告書に年代が記されていないが、1962(昭和37)年当時のものである。浅田孝が主催する「環境開発センター」に入社する田村明はまだ日本生命大阪本社にいた。田村は前年、休暇をとって浅田孝たちの作業を手伝った。高山英華東大教授も加わり、瀬戸内海でタコ釣りを楽しんだ写真らしきものが残っている(田村家資料)。そして、田村明は入社前の1962年8月、環境開発センター名で『地域計画機関のあり方について』を発表している。まだ日本生命在職中だったが、これから転職する都市計画事務所のあり方と決意を述べた。総合的でなければならない、と提言した。田村36歳であった。1962年暮、都市づくりを行うプランナーになるために東京に戻り、1963年1月環境開発センターに正式に転職する。
田村明は戦後間もなく運輸省に就職した時に、観光開発計画づくりに関わることを宣言した。戦争で打ちひしがれてはいたが、日本が唯一国内外に売れる商品が「観光」であった。
しかし、それは「国民生活には無縁で、非生産的余剰的な一種のぜいたく」と見られていた。ただし、国際的には「見えざる貿易」として、産業的な意義が国際的に認められていた。報告書のなかで、田村は観光開発の綜合性を特に強調している。観光ツーリズムがもつ交通トランスポーティション、コミュニケーション、観光事業の多角性、人間性、複合性は現代社会の縮図であって、その多様な要素の総合のうえになりたっているといえる、とまで語っている。(環境開発センター『香川観光綜合開発計画マスタープラン報告書』1962年1頁)
観光開発は、工業開発のおくれた地方において特に有効な近代化のベースを開くものであって、従ってまた、必ず産業開発、都市開発を含めた全体的な総合性のうえに検討されなければならない、と述べた。(同12頁)
そして、田村は持論を展開する。開発計画なる地域計画には、大きく分けて本質的な2つの方向をめざす手段―(イ)促進的手段と(ロ)抑制的手段―が含まれている。この2つが相応じてそのタイミングと緩急よろしきを得て、開発の実をまっとうすることが出来る。地域計画は、これあるが故に、「制御の科学」と呼ばれているのである。……民間開発にまつべきものは、どんどん民間に権限を委譲し、官庁は公共の立場にたって、監督、コントローラーとしての機能を十分に発揮する。一方民間の個々にまかしておいたのでは、満足な解決が危ぶまれるものは、大胆に役所でとりあげ、公共優先の立場から、社会の福祉を第一に、公共性を重んじて企業されなければならない。……地域計画についても、その内部にある個々の地区の個別改革の集積のみでは、広域開発乃至は、近代的で総合計画の目的を達することは出来ない。全体計画と個別計画との間には、単に拡がりの差だけでない、任務分担と補完的な関聠性が存在している。「これを総合し、統一するところの鍵となるファクターは何か」ということが、総合計画の樹立にあたって最大の課題である。(同23~26頁)
この報告書を読んで気づいたことに、官庁と巨大企業主体で資金力豊富な産業開発計画などに比べ、民間主体で権限も資金力も乏しい「観光事業」が地域づくり全体を誘導し調整するかのような姿勢を示している。ここに、田村明が標榜したように、民間開発を行政がプランをつくり誘導する、横浜で実践したその後の都市づくりの考え方と手法が明確に描かれている、と思えた。田村明の原点はここにあった。
(文責:田口俊夫)
参考資料
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