田村明著『田村明の闘い』に三菱造船所内の埋立て申請を取り下げさせた、という記述があった。市が埋立てを行い三菱に貸与したという。不思議な話であった。みなとみらい開発の中心部となる造船所で、なぜこのような話がおこり、その意義は何であったのかを探った。
みなとみらい事業前史での小さな埋立て
2015年4月12日
田口俊夫
概要
横浜中心の臨海部にある「みなとみらい地区(以下「MM」という)」がいつから事業化されたのかを語るのは難しい。みなとみらい地区の土地区画整理事業第1期が認可されたのは昭和58年11月で埋立てが開始されたのが59年2月である。細郷道一市長が昭和53年に就任し、企画調整局の企画課長であった小澤恵一が細郷道一市長を支え、みなとみらいの事業化がおおきく踏み出すのが、市によって設置された八十島義之助東大教授を座長とする委員会による基本構想の54年12月の公表である。
ここに至るまで飛鳥田一雄市長・田村明企画調整局長時代には具体的な動きがMMの開発に関してはなかった、というのが多くの市役所職員の感想であるようだ。これから徐々に明らかになるが、まったくそうではなく、実に多くの人が関わり多様な思惑が渦巻いていた、と言ってよい。そのなかで具体的な史実がMM対象地となる三菱重工横浜造船所(正式には「横浜製作所」)での、小さな埋立て事業にみられる。田村明の著書『田村明の闘い』学芸出版社2006年12月10日で、その存在は語られていたが、位置や時期、そしてその経緯がはっきりしていなかった。
今回、横浜市港湾局港湾管財部管財第二課水域管理係の方々の協力(横浜市の情報開示請求制度により資料を発掘していただいた)により、当時の埋もれていた資料が発掘された。それを基に背景と経緯を語ってみたい。
(続きは参考資料をご覧ください。)