11月7日(土)田村ゼミ卒業生との合同研究会の報告

NPO法人田村明記念・まちづくり研究会*法政大学田村ゼミ卒業生との合同研究会

開催日:2015年11月7日(土)午後2時~5時

場所:横浜市民活動支援センター4階ワークショップ広場

 

 教育者・田村明は、決して持論や経験を押し付けることなく、若者の自主性を待ちつづけた。かつ、不確かな知識や情報で語ることはせず、常に自分自身も学び続けていた。自立した若者たちは世の中に巣立ち、それぞれの分野で自覚ある市民として活動しつづけている。これらのことが、法政大学法学部政治学科田村明ゼミの卒業生たちとの対話から明らかになった「教育者・田村明像」である。横浜市役所のかつての若手職員たちが田村明を囲む自主勉強会で感じた「まちづくり実践者・田村明像」と同じであった。今回ゼミ生の方々にお会いできて、よかった……と思った。

(文責:田口)

当日の記録

 NPO法人田村明記念・まちづくり研究会について、副理事長の田口俊夫より設立趣旨を説明しました。当NPOの会員は横浜市関係者が多く、横浜市をお辞めになったあとの田村さんについて、知る手だてがなかった。田村さんは、若手市職員の自主勉強会である「横浜まちづくり研究会」で、お辞めになる前から若い人を育てようとされていた。お辞めになった後も継続されていたが、主眼はどちらかというと、まちづくりに直接関わる人材育成であった。そこで今日は、法政大学田村ゼミ卒業生の中村さんの方から、より広い意味で「教育者・田村明」についてお話を聞けることを楽しみにしています。


田村ゼミ卒業生の中村達哉さんよりご挨拶

 今日のメンバー8名は、96年、97年、98年の卒業生と先輩です。大学で、週一回水曜日にどのような形でゼミを開いていたか、先生がどのようなことを話してくれたかを、後ほどお話したいと思います。


講演その1.『田村明の生い立ちと人生』

発表者:田村千尋(NPO法人田村明記念・まちづくり研究会理事長)

 自己紹介として、化学畑、フグの毒の化学構造を決めた最初の人と自認している。ちょうどその時期、明が横浜市に就職した時期と重なった。

 彼は子どもに恵まれなかったということがあり、彼の思想の理解者として自分を形成していった。横浜のまちづくり塾で10年、彼の講義を聞いた。明が法政を辞める2年ほど前に一回授業を聞きに行ったことがある。

 明は日本が豊かになったこともあり、世界中134ヶ国を渡り歩いた30万枚以上のスライド見て明について考えてみたいと構想していた。その時に、田口さんから田村明のことを海外に発信したいという打診を受けて、眞生子さんの協力の下、当NPO法人研究会が発足した。

 写真からみる限り、田村明が本好きになったのは、父・幸太郎の影響かもしれない。自分としては、上の兄たちとは喧嘩したが、不思議なことに明とは喧嘩した記憶がない。次兄義也はリベラリストで弱者に対する思いが強い人だった。岩波の編集者で、その後装丁屋さんとして著名な存在になった。明は理屈的に鋭いが、義也は感覚的に鋭い。

 1946年旧制静岡高校の明の同窓生の写真を見ると、戦争に行かずに済んだ若者たちの喜びが表れている。明は1926年生まれ、大恐慌がおこるのは1929年だが、それ以前の時代「アメリカがくしゃみをしたら日本が風邪をひく」と言われていた。戦争になると、父の日本NCRはあっという間につぶれてしまった。

 生活のため、母は幼稚園の先生の勉強を頑張っていた。母が家にいない幼年期をすごし、明は特に母に強い思いを抱いていた。「母親力」という言葉で母親を讃美、強烈なマザーコンプレックスともいえる。明は貧しい時代に生きたためか、しまり屋だった。お金はすべて旅行に使ったともいえる。それも一人で行くときは最後まで飛行機はエコノミークラスだった。

 飛鳥田市長が辞め、明も辞めざるを得なくなった。横浜市で働いているときはブクブクに太ってしまった。ハイヤーに乗せられて、いい物を食べさせられていたからだろう。市を辞めて普通の生活に戻った。健康的ではその方が良かったと思っている。

彼が法政大学に行ったことは第二の人生であると同時に、実学からはじまった彼自身にとっての勉強にもなった。教育畑に入ったことの意味をみなさんのお話から伺えれば嬉しい。

 最後に、明の言葉として、村が大きくなって町になるんではない。と聞いたときある種の思いが走った。それはアメーバから人間へ。新しい機能を授かることで生物は進化したのだ。村から町になることによって、そこには新しい人間関係、つまり機能が生まれていったのである、ということである。彼の生命が終わることによって、彼自身の生命観が新しく生まれてくるような気が最近している。


講演その2.『田村明 法政大学の日々を中心に』

発表者:遠藤博(NPO法人田村明記念・まちづくり研究会監事)

※レジュメに沿って報告がありました。詳しい内容については下記資料をご参照ください。

資料

レジュメ
法政大学の日々を中心に.docx
Microsoft Word 22.3 KB

 発表の中で、田村明が市役所勤務後に教育の世界に入ったのは、内村鑑三の『後世への最大遺物』の影響かもしれない、という指摘があり、奥様の田村眞生子さんから、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のモデルといわれた斎藤宗次郎さんについてお話をしていただきました。

 

田村眞生子さんのお話

 宮沢賢治記念館で斎藤宗次郎の企画展があったときに「雨ニモマケズ」の額をもらった。祖父の斎藤宗次郎は無欲な人だった。不敬事件のことがあり、禅寺で内村鑑三は国賊だと教えられて育ったが、内村鑑三の本を読み、クリスチャンとなった。三種の神器よりキリスト教の教えの方が大事だと話していたところ、警官に見つかり、学校を辞めさせられてしまう。

 二人の娘の一人は耶蘇(ヤソ)といじめられ、おなかを蹴られて腹膜炎で亡くなってしまう。妹の方が私の母で、大正の終わりに父母が結婚し、阿佐ヶ谷に家を持った際、斎藤宗次郎は花巻を出て、内村鑑三が亡くなるまでの5年間、集会の記録をとり、本の出版に尽力した。


講演その3.『田村明先生の回顧録』

発表者:中村達哉さん(法政大学法学部政治学科田村明ゼミ卒業生)

 田村ゼミレジュメを、新規ゼミ生募集用に学生たちが手作りで作った。田村先生は必ず水曜日を選択していて、4限に一般の学生向けに講義をした。501号室、500人くらい入る教室であった。その10分後の、5限にゼミ室でゼミを開き、そのあと飲みに行くパターンだった。

 講義に関しては、来るものは拒まずで、田村先生は名前を書き忘れない限りCはくれたので人気があった。先生と会ったのは平成4年で、丁度先生がイギリスに半年か一年弱行っていたので、前期は丸々おられなかった。帰国後は水曜日の3・4限で2コマ講義をされていた。

 田村先生のゼミは人気があり、2~3倍の倍率だった。2年生と3年生で10~12名ぐらいで構成されていた。政治学者の内田健三先生も人気だった。しかし、松下圭一先生はやる気がないというウワサが学生の間にあった。

 田村ゼミの募集用レジュメはゼミ生がつくっていた。イミダスに乗っていた写真を切り貼りしてつくっていた。当時2年生と3年生でゼミをやっていた。自分のまちについて紹介し、レジュメの作り方、発表の仕方を学んだ。

 1994年、リサイクルや環境という言葉は定着していなかったが、それを既に取り入れていた。図書館に行って調べた。北海道出身の山根正幸さんのレポートは、北海道美深町のチョウザメの養殖についての研究であった。孵化はできたが、産業として成立するまでには至っていないようだ。


勉強以外のことで印象に残っていること

・宮脇俊三氏と忠犬ハチ公について、先生は当時、生きている忠犬ハチ公を見た。あそこにいるのは餌がもらえるからという主張だった。

・飲み会は、飯田橋、市ヶ谷などで、いつも焼酎梅割りを飲み、厚揚げを好んで食べておられた。

・大阪時代は、藤井寺球場(日本生命所有)の近くに住んでいた。当時学生は先生が生命保険会社にいた理由が分からなかった。

・今上天皇(当時皇太子)へのレクチャーもされた。皇室に興味はないが、皇居に入れるから行ったと言われていた。皇居内は時間が止まったようで、中から外を眺めるのが面白いというお話だった。

・先生と過ごした中で一番聞いた言葉は「愛」。住民がその町を愛さなければ、そのまちはよくならない。だから、まちを愛する、とお話しされていた。

・頭がいいだけではダメ、遊びもやってバランスのいい人間になりなさい、と言われた。今、仕事で悩むとき、思い出す言葉である。

・誰に対しても対等な立場で接してくれて、決して差別はしなかった。


 未だに学生同士会うことも多い。ありがたいものを残してくれた。 

 先生は当時としては珍しくゼミ室でも飲食自由な先生だった。地方の学生が帰ってくると、お土産を配りながらテーブルを四角にして、お互いの顔が見えるようにしてゼミをやっていた。

資料

当日配布資料
法政大学田村ゼミ案内.pdf
PDFファイル 262.8 KB

このあと、法政大学田村明ゼミについて出身者の皆様からお話をいただきました。

その内容については後日あらためて掲載させていただきます。