元横浜市企画調整局職員であった遠藤包嗣(えんどうかねつぐ)氏の講演は実に興味深かった。実体験を冷静に客観的に分析すると、このような研究発表となる確かな事例となった。なお、当日の出席は、正会員と賛助会員で13名で、岩手と福島からの参加もあった。
さて、金沢地先埋立事業は単独の工場用地埋立て事業でなく、実に複合的な事業であることが分かった。昭和39年12月に田村明が提案した所謂「六大事業」の一つである金沢地先埋立事業は、「市街地内工場の移転により市街地中心部の改造整備を行う」(出典:環境開発センター、横浜市将来計画に関する基礎調査報告書、昭和39年12月5日、16頁)とある。課題は、昭和43年4月に田村明が横浜市に入るまで、当該埋立て事業は粛々と「埋立て事業局内の事業」として進められていたことにある。元々の提案にあるように、三菱横浜造船所の巨大工場をはじめ、市街地内で公害を出している中小工場を集約移転させ、公害処理上かつ今後の産業振興上成立するようにすることが大きな目的であった。つまり、遠藤包嗣氏が言うように、極めて「複合的事業」なのである。
それが複合的事業になっておらず、単なる単独の埋立て事業になっていた。三菱横浜造船所の当該埋立地への移転問題は二転三転するのだが、中小工場移転といっても簡単なことではなく、個々の工場にも都合があり移転時期や移転後の操業規模などの長期見通しをつけることも難しかった。
昭和45年頃から建築家槇文彦氏が将来の八景島や住宅開発地の絵を描いていたという。それでは済まず、事業を具体化させるため、昭和46年から49年にかけて企画調整室と関係する都市開発局臨海開発部(元の埋立事業局)、工場移転を推進する経済局がプロジェクトチームを結成し事業調整を図ることになった。絵だけの世界では終わらず、具体の事業の世界に入る。そもそも、当時の国の施策は首都圏の既成市街地からの工場移転により、公害防止を図る方式であった。それを飛鳥田市長と田村明は市域内にとどめ、無公害化する果敢な施策を打ち出した。このプロジェクトは部長プロジェクトで、企画調整室部長の田村明が主宰し関係局の部長を集めた。
田村明の真骨頂は「スケジュール管理」にあったようだ。通常の役所は、問題があると静観してしまうが、田村はそれを許さなかった。達成目標が明確である限り、それを実現するための段取りを考え、やるべきことも明確にすることで、スケジュール管理を行うことができる。
遠藤包嗣氏の講演をうけて、フロアーから質問や意見が出た。その中で出た意見の一つとして、ほかの革新自治体でも同様にブレーンを招いたなかで、田村明のように期待にこたえ、六大事業のような成果をあげられたのはなぜかという問題がなされた。その答えとして、1期では政治的スローガンにとどまり、特色を出せなかった飛鳥田市長が、2期では危機感をもって、具体的な都市づくりに進もうと田村を招聘したこと、飛鳥田市長の信頼を得た田村が役所の既存の縦割り組織に埋没せず、若くさまざまな個性をもつ市役所の人材を使って、各局を横断した形での総合的都市づくりを目指したことなどが指摘された。
遠藤包嗣氏の講演は創立当初の企画調整室の雰囲気から、元朝日新聞論説委員の松本得三氏を招いた都市科学研究室のあり方まで幅広く述べた。松本氏はいま見ても、市民の目線に立った画期的な市民白書を編纂しており、当時の飛鳥田市政が目指していたものを知るうえで、注目する必要がありそうである。
また、企画調整時代の遠藤氏の同僚である横山悠氏から、総合計画づくりに際しての総論と各論をつなぐ「中論」で、将来の市民にとって何が大事なのかを考えるべき、と田村に指導されたことなど、おおくの興味深い話が語られた。詳細は後日、テープ起こしがなされるが、金沢地先埋立事業に深く関与した遠藤氏にとって「各局調整」は当たり前となり、上からの指示でなく担当者が自ら行うようになっていったという。ただし、この田村明の伝統がなぜ、その後の横浜市で継承されず、外部からも疎んじられるようになったのか、という厳しい意見も出た。いずれにしても、田村明と企画調整の本質の一端に触れることができた、意義深い研究会であった。
(文責:田口俊夫)