宅地開発要綱田口論文・第二回研究会
開催日:2017年2月10日(金)午後6時~8時30分
場所:横浜市民活動支援センター4階セミナールーム2号
参加者:8名(講師含む)
前回の研究会では、この宅開要綱についての研究活動が社会背景の異なる次世代の人々に如何なる「意味」をもちうるかで、田口の迷いをお話しました。昭和40年代の人口急増期と人口減少期のこれからでは、大きな違いがありそうです。作り拡大する時代から縮小更新する時代となります、パラダイムシフトといえる状況を如何にとらえるかで、前回は議論がわきました。
今回は、宅開要綱の制定とその4回にわたる改訂の歴史を詳細に追いかけ、宅開要綱制定の主目的であった公共公益用地の負担、特に学校用地の負担問題の変遷をみました。1968(昭和43)年に宅開要綱は制定され、2004(平成16)年に実質なくなっているのですが、研究に際して三つの仮説を打ち出しました。
仮説その1:
革新首長でなければ宅開要綱は制定できなかったのだろうか
仮説その2:
革新でない歴代市長は、なぜ宅開要綱を存続させたのだろうか
仮説その3:
田村明が「要綱」を選択した本当の戦略的意味はなにか
現在のところの結論は、国が無策な状況下で市民の生活環境を守るために、革新的なマインドをもった市長飛鳥田一雄がいて、彼が都市専門家の田村にすべてを任せた故に、宅開要綱はでき、そして効果的に運用された。革新から保守系となり国家官僚経験者の市長になっても、人口急増で発生する学校問題を解決するには宅開要綱が不可欠であった。学校以外にも、公園の設置や道路下水道そして河川問題もあり、保育所やその他の公共施設整備も求められた。宅地開発が落ち着き、人口の爆発的な増加もなくなると、宅開要綱はそのまま存続するわけにはいかなくなる。また、行政手続法により公共公益負担が開発事業と直接関連することが厳格に求められるようになり、金銭負担や他の代替地利用も不可能になった。
最後の田村明が要綱という形式を選択した理由で、市議会の承認を必要とする条例化が難しかったから、という説明がこれまでなされてきた。しかし、田口仮説は、田村はあえて「曖昧な形式」としての要綱を積極的に選択した、とみる。根拠法がなければ原則、条例はできない。開発事業者にその財産権を制限し土地負担を求めることは、日本社会では伝統がない。義務を果たさないで権利ばかり主張する傾向がつよい。戦前の後藤新平や関一たちが苦労した震災復興や大阪改造事業でも、同様な状態であった。ただし、政令指定都市としての横浜市は新都市計画法で開発許可の権限をもつ。その許可前提として、土地負担を求めることは法律論争となり、難しい局面も生じる。あくまでも、当時の200万市民を背景にした「お願い」であるとした。負担をしてくれないと許可しない、とは言わないが、是非協力してほしい。法律全般に通じた田村は、曖昧なものこそ強いと確信していたといえる。それゆえ、市議会で飛鳥田与党が多数になった時代でも、宅開要綱を条例化するつもりは全くなかった。
参加者からいろいろな意見がでた。曖昧な形で攻めるのは田村明らしい、という意見があった。また、当時の学校問題は新築物件以外にも、仮設校舎などがあったので、それだけ大変だった。宅地造成の技術基準は大変に厳しく、その完了検査に通らないと、道路下水などの公共施設も引き取ってもらえない。行政が強かった時代であった。札幌市郊外の区画道路を先行的に位置を指定する方式も、行政主導であった。また、東急電鉄の田園都市沿線開発でも、東急に土地を売った農家は再び港北ニュータウン地区内や周辺に農地を買い替えている。農家の人たちはネットワークをもち、したたかであった。英国の事例も話題に出たが、英国の開発規制は曖昧な基準を駆使してやっている。かつて、田村さんが市を退職したときに、地方自治体でなく「自治体」を使うようにとした逸話も出た。実に有益なるご意見、有難うございました。
さて、当該論文は未完ですが、更に追加の研究を重ね、近いうちに完成させたいと考えております。皆様からのご指導ご助言をお願いします。「半完成版」を添付しておきます。
(文責:田口俊夫)