1971年の田村明と1978年の田村明

SD特集(スペースデザイン・鹿島研究所出版会)85号、1971年10月で横浜の都市づくりが特集された。1968年4月に横浜市に入った田村明の3年目の「決意表明」ともいえるものである。

やっと高速道路の地下化も目途がつき、宅地開発要綱の制定された。新都市計画法による市街化調整区域の指定作業も完了した。港北ニュータウンや金沢臨海都市も徐々に動こうとしている。横浜都心部の三菱重工造船所の課題はまだ先が見えない。しかし、都市プランナーとしては打つべき手は打ち、企画調整室を中核にして市の組織改革も進みつつあった。

田村はこの冊子で、盛んに「プランナー論」を語っている。デザイン派でも、研究室派でも、官庁派でもない、本当に動かす実践的プランナーが必要なのだと、強く主張した。まだ、田村の主張する都市づくりは形となって表れていない、これからである……

同じくSD別冊No.11「横浜=都市計画の実践的手法」が1978年11月に発行された。

その年の3月に飛鳥田市長が辞職し社会党に移った。田村と企画調整局は後に残された。新市長となった細郷道一の下で、まだ都市づくりの体制がはっきりしなかった時代である。

ただし、1977年度の日本建築学会業績賞が横浜市の田村を代表とする企画調整局に贈られている。1971年の決意表明から7年、横浜市に入庁してから10年、飛鳥田に六大事業を提案してから14年で、田村たちはこの栄誉を手に入れた。

この巻頭論文で、田村は強く「実践的都市計画」の必要性を語っている。「理想を持ち、それを実現させる方法を探ることで、目はいつも未来にあるとともに、現実から足を離さない」と熱き思いを語っている。

田村は3年後に横浜市を去ることになるが……

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SD特集1978田村論文.pdf
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