「今回の研究会のねらい」(田口俊夫)
1 今回の研究会のねらい
今日のテーマは用途別容積制度で別名住居容積制度と呼ばれていますが、住居用途を各用途地区の中でどれだけ取れるかという上限を定めている制度です。この制度がどうしてつくられ、なぜ緩和され廃止されたのか、そしてこの制度に代わる新しい制度への移行が横浜のまちづくりにどのような意味を持っているのか議論します。
今日はこの制度の創設を担当され、廃止の時には企画調整室長だった内藤さんからお話を伺います。今日の議論がまちづくりを支えていく次の世代に意味を持つ、役立つものになればと考えています。
2 用途別容積制度の成立から廃止まで
この研究会を開くまでに事前に内部の勉強会で内藤さんが建築学会に発表されたものも含め関係する文献を調べ、関係者からのヒアリングを行いました。内藤さんのお話をお聞きする前に勉強会で調べてきたことをご報告します。
横浜の用途別容積制度は各用途地域の中の住宅の最高限度を決めるもので、昭和48年(1973年)に建築基準条例に盛り込まれ、施行されたものです。この制度は当時の人口急増の中で磯子駅前のマンション開発のような問題が引き続き起こらないようにするため作り出されました。
この制度設立のための建築基準条例改正は昭和47年(1972年)に行われましたが、市会の審議で反対はありませんでした。この制度はマンションと商業の調整の決定打、都心部の人口抑制の決定打として打ち出されたものと考えています。条例改正の立案は企画調整局が行い、運用は建築局が行いました。この制度が施行された昭和48年(1973年)の社会状況は第一次石油危機が起こり、低成長へ入った時期です。
用途別容積制度は中曽根民活の時代の昭和58年(1983年)に一部緩和され、最終的には平成3年(1991年)、バブル崩壊の時期、規制緩和が声高に叫ばれる時代に廃止されます。18年継続したのだから意外と長く継続した制度だと言えます。
3 廃止後の流れ
用途別容積制度廃止後にまちがどのように変化したかというと、すぐには都心部の人口は増加していません。変化が見られるのは平成4年(1992年)のMM線着工後で、具体的なマンション開発が関内で見られるようになるのは平成10年(1998年)頃からです。関外は関内より先行して動きが出ていました。
平成10年(1998年)には国の動きがあり都市計画法が改正されました。自治体権限が強化され、特別用途地区を使って土地利用規制ができるようになりました。横浜市は、都心部に高層マンションができてきたためこの新たなツールを使い、平成17年(2005年)に特別用途地区「横浜都心機能誘導地区」の指定によりマンション規制を開始します。この規制導入を担当した方からも話を伺いましたが、関内はMM線の開通により交通利便性が高まり、みなとみらい地区の開発等により商業ポテンシャルが低下したためマンションの作りやすい場所となりました。そこでまちの賑わいの連続性を確保したいということで1~2階に住居以外の機能を入れると容積のボーナスを与えられるという制度が作り出されました。しかし、既存の容積だけを使って1階からマンションをつくればいいという考え方の人が多く、あまり使われていないようです。
4 廃止に至った状況と現在の課題
我々が勉強を始めた時、内藤さんが市大の鈴木先生のヒアリングレポートに、建設省から横浜市への出向者が用途別容積制度廃止に深くかかわっていることと、この制度の廃止が残念だったと書かれていることを読み、この建設省からの出向者が制度廃止の張本人だったとバイアスのかかった見方をしていました。ところが横浜市の住宅政策、容積コントロール、さらには当時の社会状況を考えると一個人の考えで制度廃止はできないのではなかったかと思えるようになりました。むしろ横浜市の側に都心の住宅に関するビジョンがなかったのではないでしょうか。また、横浜市は昭和60年(1985年)に全市的に容積率緩和を行っているので政策の一貫性からも分かりにくいものになっていました。つまり用途別容積制度が廃止されやすい状況になっていたと言えます。
ただ現在、本町小学校はパンク状態で、今後、北仲開発が進むと状況はさらに深刻になります。この解決の方向性は出ていません。問題は積み残しになっています。新たな制度が調和のある開発に役立っているようにも見えません。
さて前段の話はここまでにして内藤さんからお話しいただきたいと思います。