基調講演「今、田村明を読む」(横浜市立大学・鈴木伸治教授)
ご紹介を頂きました横浜市立大学の鈴木です。よろしくお願いいたします。今日、実は大変緊張しております。恐らく私なんかよりも長い時間を田村先生と一緒に過ごされた方が、沢山いらっしゃって、その中で、このNPO法人の最初のイベントの中で話す機会を頂いたということを、非常に光栄に思っております。
ただ、色々とお話ししたところで、一番長い時間を過ごしていらっしゃる方々から、「それはちょっと違うんじゃないかな」と、言われると、今までの作業がまた一に戻ると言うことになるかもしれませんが、今日お話することは、まだどこでもお話した事の無い、普段お話しする横浜の都市計画の歴史とは全く違うお話をさせて頂きたいと思います。「今、田村明を読む」と言うことで、普段は田村先生という風に呼ぶのですが、今日は研究対象として、呼び捨てで、敬称略でお話をしたいと思います。
今、田村明を読むことの意味
「今、田村明を読む」には二つ意味がございます。それは、文字通り私自身が、田村明の著作を通しで読んでいるということもあります。田村先生は大変沢山の著作を残されているので、それを読むだけでも相当大変な作業です。そういったことをやっております。また、もう一つはですね、「今、田村明を読む」という意味は、今の時点で田村明が書かれた文章を読んでいると、また色々な解釈が出来るのではないかなというふうに思う部分もありまして、その二つの意味で、「今、田村明を読む」というタイトルで今日お話をさせて頂きたいと思います。
私自身、田村先生とのつながりで言えば、横浜のまちづくり塾の方に参加させて頂いて、そこで、様々なお話を聞かせて頂く、要は塾生、まあ出席率が良くなかったので駄目な塾生の一人だったということと、もう一つ私自身の恩師である北沢猛が、もう亡くなりましたが、田村明に薫陶を受けたということがあります。そういったご縁もあって、ちょうど2004年頃に、連続してこの3人で、田村明さんが横浜でなされた仕事についてですね、聞く機会がございました。残念ながら色々な事があって途中でこの連続インタビューが終わるのですけども、この時に大変多くの示唆を得たと記憶しています。その時の田村明さんの印象は、一言で言うといわゆる旧制高校世代最後のエリートなのではないかというふうに感じました。博覧強記、色んな事を知っている。そして、非常に理路整然と都市について、そして都市計画について語るという、そういう姿を見ていると、これはやはり我々の世代、大学が大衆化した時代の世代とは違うのだなと思いました。個人的なことを申しますと、私の祖父も旧制高校世代で、何か同じような空気をちょっと感じたという記憶がありました。ただ、この印象というのは、実は後に大きく間違いであったということが分かります。それについては、また後ほどお話をさせて頂きます。
田村明の経歴と代表的な著作
田村明は大変沢山な著作を残されています。その中で代表的なものを少し選んで、その意義についてお話をさせて頂きます。まず初めに横浜市役所時代、1977年に『都市を計画する』という本を岩波から出されています。これは大変意義があることだというふうに思います。なぜかというと都市計画の教科書的な書物である訳ですが、日本の都市計画の歴史というのを翻って考えてみますと、都市計画に関する教科書のようなものを一番最初に書いたのは武居高四郎先生、当時京都大学の先生です。内務省の技師だった方で、京都大学の先生になられました。その後も石川栄耀が都市計画についての本を書きますが、やはり内務省系列で後に東京都で活躍されました。このように、都市計画というものはやはり中央官庁である内務省から始まっている訳です。戦前の都市計画というのは地方の都市計画も、中央の都市計画の技師が派遣されて作る。都市計画何々地方委員会という所に中央委員会から技師が派遣されて都市計画を立てていました。
中央官庁にいた都市計画の技師という人達の中には、大学に移って行く人達もでてきます。建築系でいえば、笠原敏郎という方が日本大学に行かれます。また、土木系でいえば、様々な方が東京大学や、京都大学で教鞭を執ることになって、そこで都市計画の教育が始まっている。そして、そういう人達、内務省系の都市計画の人達の中から民間でコンサルタントを興そうという人達が出てきます。環境開発センターも草分け的存在であるのは確かなのですけれども、それよりも先に秀島乾という方が、戦前は中国大陸で都市計画の仕事をされていて、戦後民間プランナーとして仕事をされていた例が出てきます。官から民へ、官から大学へというふうな都市計画の流れというものを考えるのであれば、この1977年という時点で、横浜市の都市計画家がこういった本を書いたという事について、改めてその意義を感じることが出来るということです。田村明というのは明らかにその出自からは異なる人でありまして、一地方都市の都市計画プランナーが都市計画の教科書的なものを書いたというのは、これが本格的なものとしては初めてなのではないかというふうに思う訳です。
そして、1983年、法政大学に移られてから『都市ヨコハマをつくる』を上梓されます。これはもう多くの方が目を通した本で、実は私自身も最初に田村明先生の本を読んだのはこの本です。残念ながら今絶版とはなっていますけれども、この本を読んで多くの人達が横浜市役所に入ってきた、あるいは自治体で都市計画に取り組もうというふうに思ったという意味では、非常に影響の大きい本だったのではないかというふうに思います。
次に、いわゆる“まちづくり3部作”というのがございます。こちらは、岩波の新書のシリーズですが、1980年『まちづくりの発想』、1999年『まちづくりの実践』、そして、2005年『まちづくりと景観』。出版の間は空きますけれども、こうやってまちづくりシリーズとして新書として出版されたというのは、非常に影響が大きかったのではないかというふうに思います。「まちづくり」言葉を最初に使い始めたのは誰かというのは、難しい問題です。1950年代の『都市問題』なんかを紐解くと、そこでまちづくりという言葉を使ってらっしゃる方もいるのですね。ですから誰が使い始めたかというのは、むしろ余り意味が無いことだと思っていますが、まあ1987年というその時点ですね、まちづくりという言葉を全国に広めていくといった意味では、このまちづくり3部作というのは、非常に大きな役割を果たしたのではないかと思います。
そして最後に、この3冊を挙げさせて頂きます。法政大学時代に書かれた『イギリスは豊かなり』ですね。これは法政大学時代にイギリスに、いわゆるサバティカルで、長期滞在されることがあって、その経験を基に書かれた訳なのですが、この本自体はそれまでの田村明が書いた本からするとですね、やや異質な本であることは確かだと思います。ただしその後ですね、様々な文章を雑誌等に寄稿されるのですけれども、その中で、非常にイギリスや海外の事例を書くケースが増えるのですね。つまり著述の幅が大きく広がるきっかけになった本なのではないかな、というふうに思います。
そして、真ん中が『市民の政府論』という本、これは最終的に地域政策プランナー時代、つまり法政大学を退官した後に、最後に田村明が訴えたかったのは、市民の政府論なわけですね、地方自治、地方分権というのを乗り越えて、さらにもう一歩次の時代というのを構想したときに、市民自身が政府をつくっていくような、そういう更に一歩進んだ地方自治のイメージというのを、そこで示されたかったのではないかなというふうに思います。70年代に横浜市役所で都市計画と地方自治の関係というのを論じるのですが、明らかに、この2000年代に入ってからの市民政府論というのは、横浜での経験というのを下敷きにしながらも、更に一歩進んだ地方自治のあり方というのを語ろうとしていたのではないかなというふうに思います。
そして、最後に挙げさせて頂いたのは『都市プランナー田村明の闘い』。これは文字通り田村明がどの様な仕事をしてきたかという事を振り返って書いた本ですね。この本自体に非常に大きな意味があるというふうに考えております。大きく流れを見ていくと、初期の横浜に関する著作、そこから法政大学に移り、まちづくりですね、まちづくりを広めていこうという視座、そして、そのまちづくりの向こうに新たな地方自治のあり方を見る2000年代の活動というふうに田村明の著作というのは、整理できるのではないかなというふうに思います。
田村明の著作の背後にあるもの
田村明の業績の中には、これら代表的な著作以外にも、非常に数多くの単著、共著、雑誌等への寄稿論文が存在します。その中から彼の思考の軌跡というのを辿ることが出来ないだろうか、そしてその背景にある田村明の思考の源は何なのかという事を考えたいと思って、著作を精読しています。分かりやすい言葉でいうと、田村明先生の頭の中を覗いてみたいと、小宇宙を探検してみたいというような要求がある訳です。そして、その人生や時代背景、彼の業績も含めて改めて考えてみたい。だから、今、改めて田村明を読みたいというふうに思っている訳です。
また、そう思うようになったきっかけは、先生が亡くなられて、有志の方が協力して行われた偲ぶ会で知ったある事実です。当日は、ものすごい人だったので、大先輩の方々が集まっておられる中で、端っこの方で聞いておりましたところ、法政大学時代の同僚である成澤先生がスピーチをなされました。その時初めて、田村明が無教会派のキリスト教徒であるという事を知る訳です。その瞬間、私の中の田村明のイメージ、いわゆる最後の旧制高校時代のエリートという姿と全く違うイメージというのが湧いてきた訳です。彼の信仰については、田村明は余り多くを語っていない。著作の中でも家族の事について書かれたもの、それから、亡き母を偲んで書いた『歌いつつ歩まん』(私家版)であるとか、そういった形で自分の家庭の過去を振り返る、或いは『東京っ子の原風景』、そういったところで断片的にそういったことは語られてはいますけれども、それが仕事とどう繋がったかという事は、ほとんどお話をされていません。ですからここからは、かなり推測の混じったお話になる事をお許し下さい。
無教会派のキリスト教徒として、田村は矢内原忠雄の聖書研究会に参加します。この方は戦前、植民地政策学を東京帝国大学で教えていました。植民地政策学といっても、いわゆる人道主義に基づく植民地政策学というのを唱えて、当時の政府を批判して東大を辞す訳です。戦後請われて復職し、東大の総長にまでなる。その頃、聖書研究会に田村明は通っていた訳です。
また、日本生命の不動産部門で働いていた大阪時代には、黒崎幸吉の聖書研究会にも参加されています。矢内原と黒崎は、矢内原が住友社に勤めていた時代に親交があり、先に伝導の道に入られていたのが黒崎であった訳です。その黒崎幸吉の聖書研究会に参加して、継続的に信仰の道を歩んでいたというわけです。
また、田村家では、聖書研究会を月に一回開催していたそうですが、田村明が解説役を務めることも多かったというふうに聴いております。
私自身は誰か田村明のメンターといいますか、非常に大きな影響を与えた人が居るのではないかなと、著作を様々なものをさらってはみたのですが、そういったケースというのはない。そこで、奥様のお話を改めて聴いたところ、そういった矢内原忠雄や黒崎幸吉、そういった人達の影響というよりは、むしろ内村鑑三の『後世への最大遺物』という著書を終生大事にした、というようなお話を頂いた訳です。
内村鑑三からつながる技術者の系譜
もう少しキリスト教との関係というものについて考えたいと思うのですが、成澤先生のお話を聴いたときに、お前は何を研究していたのだと、後ろからバンと頭を叩かれた様な感じをしていたのですが、その時に同時に浮かんだのが、「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」という青山士という人の言葉です。青山は内村鑑三の薫陶を受けて、土木技術者を志します。そして、内村鑑三の札幌農学校時代の同級生であり、東大で教鞭をとっていた広井勇の門下で勉強し、その後、単身、渡航してパナマ運河の建設に携わります。青山は確か田村先生の奥様のおじいさまの斎藤宗次郎さんとも親交があったというふうに聞いております。広井勇と内村鑑三は終生の友であったということ、そして、同級生ということもあり、非常に近い関係にありました。ちなみに広井勇は、小樽築港という日本で最初期の港湾事業を成し遂げるのですが、100年持つ港湾施設を作るという事で、100年分のテストピースを作って、今もその実験というのは続けられているという、伝説のような人物です。この広井勇の門下には青山士だけではなくて、例えば八田與一という方もいらっしゃいます。この方は戦前台湾に渡って、嘉南平野というとところに烏山頭水庫というダムを造ります。そのことによって嘉南地方は非常に豊かな穀倉地帯になり、今でも八田與一の命日には、台湾の人達がお祭りを行うという風になっております。大変人道的な方で台湾人と日本人を同等に扱う、それから関東大震災の時に義援金を送らなければいけない事で事業費を大幅にカットしなければいけないということになるんですが、その時に3分の1人員整理をするときに優秀な人から3分の1首を切ったんですね。優秀な人はその後も仕事が出来るだろうと、残り3分の2の人達というのは、ここで首を切ってしまったら生きていけないかもしれないという、そういう事をする人で、そういったこともあって台湾では非常に尊敬を受けている方です。
話を青山士に移しますが、この人はパナマ運河の工事をした後、日本に戻り荒川放水路の建設に携わります。そして、その後ですね、新潟で行われた大河津分水の工事に携わります。事故が起こって、完成寸前だったのですが事故が起こってですね、それを短期間の間に少ない事業費の中で完遂するという事を成し遂げるのですね。その大河津分水の完成の石碑の裏に、「萬象二天意ヲ覚ル者ノハ幸ナリ」、「人類ノ爲メ 國ノ爲メ」この碑文は何度も、例えば土木学会誌とか、色々なところで取り上げられます。只、私はこの意味がよく分かりません。なぜか分かりませんが、青山士という人は、この碑文の意味をそれぞれが考えれば良いといことで明かさなかったのです。ですから皆自分達の考えで解釈するしかない、という事です。
今の土木事業とはちょっと違ったニュアンスを感じてしまうかもしれませんが、土木事業によって、そこで苦しんでいる人達を救済するという、技術者としての使命感、倫理感には事業によって救済や福音を与えるといったキリスト教と相通じるものがあると思われます。
『後世への最大遺物』を読む
少し話が逸れ気味になってしまいましたが、『後世への最大遺物』のお話に移りたいと思います。これは私が語るよりはむしろ田村家の方々に語って頂いた方が良いとは思うのですが、明治27年、箱根で行われたキリスト教の夏期学校で内村鑑三が講演をしたものを文章、本にしたものです。その中で、内村が何を語っているかというと、最大遺物とはまず第一にお金であるということ。ちょっと読むとビックリしますが、その文脈を正確に伝えると、アメリカに行くと 素晴らしい孤児院があったと、その孤児院は、事業家が、大きなお金を得て、その資金で賄われている。翻って日本における孤児院というのはお金に汲々として常に困っているような状態である。やはりそういったお金を儲けた人が、それを正しい使い道をする。それによって世の中を変えていくという事の意味、そういったものをその中で大事であるというふうに言う訳です。
その次に、「事業」という言葉を使います。事業という言葉は、様々な意味合いもあるのですが、この時に内村が使ったその文脈を読むと、例えば、公共事業の様な形で人々を救済する、そういった事、そういう事を成し遂げれば後々功績というのは人生の後世への最大遺物となり得るという意味で使っています。それが出来ない人はどうしたら良いのか、ではその思想を拡げれば良いということ、また、そういった物を著述として著して本として出す。そうする事によって、後世の人達がその本を読みそこから学ぶ事が出来る、考えを拡げる事が出来ます、というような事を述べます。一文を引用しますと、最後のところなのですけれども、
「私が考えてみますに、人間が後世に遺すことのできる、そうしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。」(岩波文庫p58より)
というような形で講演を結んでいく訳です。
このような事を頭に入れた上で、田村明の著作物を読んでいくと、どうもこれまでと違った見方が出来るようになってきたなというふうに思っております。それでは、いくつかですね田村明の書いた著作物について、そういった何を残したのかというような視点も持ちながら見ていきたいと思います。代表的な物をいくつか挙げて、今日は時間もありませんので、そう沢山は紹介できませんが、彼の遺した痕跡、最大遺物の痕跡があるという事をお話をして行きたいと思います。
田村明の最初の著作「地域計画機関のあり方について」
まず最初に、1962年、この時は実際には日本生命の不動産部長だった時代ですが、環境開発センター名で印刷された小冊子に「地域計画機関のあり方について」というものがあります。インタビューした際にも「確か一番最初に書いたのがこれだと、最初に書いたにしては結構いけてるんだよ」というようなお話をされていました。その中身はですね、論文、論説というよりは、むしろメモのような体裁なのですが、非常に示唆に富む形のものになっています。ちょっと字が小さいので、要点だけ読み上げます。「これから如何なる仕事をすべきか」というところで、「地域計画、都市計画を単なる建築、或いは土木・造園技術の外延の拡大とせず、それらと境を接し、あるいは重なり合いながら、更に都市または地域という特定の対象の下に、他の基礎的条件たる経済的、社会的分析、更に法制技術、経営技術をも綜合的に駆使して、新たなる独立の分野として確立しようとするものである」というふうに書きます。これは確かに今でも言えることであります。つまり内務省で始まった都市計画というのは、一番最初に内務省官房に都市計画課というものが作られるのですが、第一技術掛が土木、第二技術掛が建築、第三技術掛が造園なのです。いわゆる都市計画の世界というのは、元々建築・土木・造園という風に三つに分かれている。これではいけないという事を環境開発センターに入る前に既に考えていらっしゃった様です。そして、この62年というのに注目をしたいと思います。丁度この時ですね、東京大学の都市工学科が設立されます。この時、田村明が卒業した丹下研究室は建築学科から都市工学科に移るという事になります。今日いらっしゃっている横浜国大の野原先生も都市工学科の卒業生ですが、私も一時期そこで助手として働いておりました。その時に良く聞かされた話として、都市工学科というのは、実は社会や経済そういった問題を合わせて考えるところとして構想されていた。ところが、経済学であるとか社会学であるとか、そういった人達を都市工学科設立の時に学部を超えて講座を持ってくる事が出来なかったと。結局、建築と土木。農学部は入ってこないで、建築と土木の両学科から講座を出してですね、交通・衛生・建築系の都市計画、この三つで都市工学科を作ったというような歴史を我々は聞いております。そのことを考えると当然のことながら、当時田村明は自分の母校の研究室が都市工学科に移るということも聞いていたと思いますし、その中心的な役割を果たしていた高山栄華の存在というのも良く知っていたはずです。そういう事から考えると、自分の母校の中で、結局建築と土木の枠の中でしか都市計画を構想し得なかったものに対する、ある意味での批判の様にも読む事が出来るというふうに思います。
そしてこの次に、この地域計画機関のあり方について複数プランナーから成る組織というのを構想します。その中では地域プランナーといわれる人の中には、専門プランナーと綜合プランナーが必要である、そしてそれ以外に専門のスタッフが必要である。専門スタッフというのは、従来の科学、技術これに関する専門家だと。そして各実施担当機構というのも必要だと。個別の計画となった場合、都市計画を立てて、総合的な視点から都市計画を立てて、そこから個別の計画つまりプロジェクトを動かす段になった場合には、これを直ちに実施できる様な機構と直結している事が望ましいという事を書く訳です。これは、よくよく考えてみると、後に入庁する横浜市の企画調整局の組織イメージと明らかに重複する部分があります。この時点で、田村明は環境開発センターにすら入っていない訳ですけれども、ある意味その後の横浜市における企画調整局を彷彿させるような、そのようなテーマを書き記している訳です。またこのメモというのは、その後の自治体プランナー論をも展開していくという風に考えられます。最初に残した著作でもありますけれども、それが非常にその後の田村の業績にも繋がってくるものではないかというふうに思います。
自治体プランナー論へ
その自治体プランナー論という事でいえば、初期の物としては,1971年に書かれたSDという雑誌の中の「自治的地域空間の構造化
プランナーの必要性とその活動」というものがあります。ここで田村明が何を主張したかというと、これまでの都市計画というものを批判する文脈で、官庁派のプランナー、つまり中央官庁を中心としたプランナーの人脈に対して自治体プランナーの必要性というのを主張する訳です。これも冷静に考えてみますと、1971年という段階で、その自治体のプランナーが個人の名前でこういうような文章を発表するというのは非常に珍しい例だと思います。概ね中央官庁出身者や、当時の大学研究機関の都市計画の関係者がこういった論を展開する訳ですけれども、自治体プランナー自身が自治体プランナーの必要性というものを、地方自治の文脈、革新自治の文脈で語るという事も、その時代性を考えると、非常に意味のあるものでは無いかというふうに思います。
市民と都市へのまなざし
それからですね、比較的初期に書かれたもので注目に値するな、という風に考えているのが、1965年に書かれた「都市は市民のためにある」という文章です。1965年、つまり今から50年前、ついては、ちょうど六大事業が発表された年に書かれた文章であるというふうに思うと、非常にその意味というのが鮮明に浮き立ってくるんではないかというふうに思います。この当時田村明は環境開発センターで都市計画の仕事に従事し、横浜の将来計画の構想というものを、1964年にレポートとしてまとめた直後です。その中で、田村は都市には三つの段階があるというふうに述べます。第一の段階というのは、近代化が進む中で都市に様々なものが集中していく、それによって混沌とした状態、例えば公害であるとか、渋滞であるとか様々ないわゆる都市問題が頻発する段階というのがあるというふうに言います。
そして、第二の段階では、やはりその経済合理性の支配によって開発がどんどんと進んでいく状態というのが続きます。そして、第三の段階に至って、やっとその市民生活の向上、生活環境の改善というものが中心的な課題になるというような事を言います。日本において、いわゆるアメニティ、生活の質というものが重視されるようになるのは、1970年代後半から80年代以降というふうに言っても良いと思います。1978年にOECDが、日本の都市計画というのは数量的なものは満たしている、例えば住宅の数は満たしているけれども、それによって出来上がっている都市の環境というのは、非常にアメニティに欠けたものになっているというふうに言う訳ですね。それ以降アメニティというものが大事であるというような論調が続きますから、この第三の段階というのは、いわゆる1970年代後半から80年代以降を予見したものであるというふうにも言えます。但し、田村は、第四の段階というものをここで構想します。人間開発の時代として、第四の段階というものが必要であると述べていて、結局第三の段階に到達したとしても、建ち並ぶモダンデザインの高層アパートや見事な都市公園や完備した都市施設を市民生活の理想とみることには問題がある。そういう新しく開発された都市、それが数的なものだとかいわゆる環境的な面で充足しているものが出来たとしても、それで充分ではないという事になります。第四の時代というのは物偏重の時代から人間独自の価値を発見し直す事が次の時代の課題であるという事を予見する訳です。いわゆるアメニティや生活環境の質といった時代から更にもう一歩進む四番目の段階というのを、この時点で構想していることが非常に興味深い見方だと思います。
都市計画と地方自治
また、都市計画と地方自治についても文章を書かれています。これは田村明が非常に沢山、これに関しては文章を書いているのですが、一番初期の段階のものとして、1970年の「自治体と都市計画」という文章を挙げてみます。これは、別冊経済評論の『革新自治体』という中に所収されたものなのですが、1968年に横浜市に入庁後、包括的に自治体における都市計画のあり方を論じた初の田村自身の論文であるというふうに思います。この中で、田村明は都市計画法、68年の都市計画法改正と日本の都市計画というのを批判します。結局、中央によって支配された都市計画の構図というのは変わらないという事を改めて述べる訳です。そして、注目すべき言葉を二つ使います。一つは、プロジェクト主義という言葉を、もう一つは街づくり、この当時は漢字の“街”というのを当てていました。1987年、80年代ぐらいになると、平仮名“まちづくり”というのを使う訳なのですが、ここで、1970年に、街づくりという言葉を使った論文を書く訳です。ある意味では、都市計画の主導権を自治体側に取り戻そうという地方自治の獲得というものが、田村の中にはあった事は確かな訳です。恐らくこの視点というのは、環境開発センターに居る中だけではなくて、やはり横浜市という組織に入る中で、あるいは六大事業を構成するプロセスの中で、自治体独自の都市計画のあり方というのが、これから必要になってくる、革新自治の中で都市計画を達成すると同時に、本当の意味での地方自治を確立しなければいけないと、そういった思いがこの文章の中には込められているのではないかというふうに思います。
そういった視点で見てみると、1970年という段階でこのような論を展開した都市計画家というのはあまりいなかったというふうに言えますし、その先見性というものは、改めて評価されるべきでは無いかというふうに思います。
再び『後世への最大遺物』へ
さて、ここでもう一つ、もう一回田村明の人生、後世の最大遺物は何かというお話をしたいと思いますが、やはり私がずっとしゃべっていてもしょうがないので、今日はこういうものを用意させて頂きました。横浜市民である我々にとってはですね、これは六大事業というのは正に田村明が残した最大の遺物であるというふうに思います。これは、『都市デザインとまちづくり』というDVDを紀伊國屋から出させて頂いて、国吉直行先生と私が企画監修させて頂いたものだったのですが、横浜の都市の歴史を振り返る中で、六大事業の解説の中で、この当時もう既に田村明先生は亡くなられていたのですが、テレビ神奈川にお願いして映像を用意して頂きました。
(映像が流れる)
田村先生自身の言葉で、六大事業というものを語って頂いた部分をですね、このDVDの中に入れさせて頂きました。これは六大事業というのは、田村明氏の遺した大きな功績であるというふうに私自身は思っております。無論これを実現する過程においては、色々な方が関わる訳ですけれども、その先鞭をつけたという意味では非常に大きいというふうに考えています。ただいくつか疑問がでてまいります。戦後、自治体プランナーの中にはですね、言葉は余り恐らく田村先生自身もお好きではないと思うのですけれど、天皇と呼ばれた人が二人居ます。一人は田村さん、田村天皇と呼ばれたこともあったことは事実です。もう一人はですね、山田正男という人です。東京都の都市計画家で、東京オリンピックに合わせて一気に高速道路を造った人ですね。先日衛星放送で特集の中で取り上げられていましたけれども、彼もやはり非常に強大な権力を握って、一気に都市計画を造っていった人なんです。時代的にいうと、概ね10年ほどの差があると思います。オリンピックに合わせてそういったものをやったという時代と、その1960年代から70年代にかけて活躍された田村さんとでは、概ね10年ぐらいの差がある訳です。この山田正男という人は正に中央官庁のプランナーの系譜を継いでいる方で、内務省に入庁して、その後東京都の都市計画のトップとして、事業に辣腕を振るったという人なのです。ただ、この高速道路を造るに当たってはですね、短期間でものすごい事業を成し遂げる訳なのですけれども、自ずと中央官庁に元からの自分の支えとなる人達がいて、それによって一気に都市計画を動かしていくというような構図が見て取れるのですが、田村明の行ったプロジェクト、例えば高速道路の地下化にしても、六大事業にしても、大変な困難を伴う事業だったというふうに思います。ただ当然のことながら、そこには勝算のようなものがあったというふうには思うのですが、そこに無論、飛鳥田一雄市長という大きなバックボーンがあるにせよ、中央官庁とは闘わなければいけない。その時にそういう様な、闘って大きな困難を克服していくモチベーションというのは何だろうかという事が、常に気になっていた訳です。そこで、今一度後世への最大遺物のお話しに戻らせて頂きたいという風に思いますが、先程お話した後世への最大遺物というのはそれは何であるか、勇ましい高尚なる生涯である、という結びになる訳なんですが、実はこの文章には続きがございます。この様な事が書かれています。
「しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。われわれに友達がない。金がない。学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を受け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を遺すものである。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。」(岩波文庫p72より)
というようなことが書かれている訳です。何かその田村先生の言葉をそのまま聞いている様な感じもしてきます。これを田村明が日々読み返し、その頭の中に置いて、仕事をしていたかどうかということは定かではありません。冒頭に、田村明先生の頭の中を覗いてみたいといったのはそういうことです。ですけども、少なくとも様々な仕事の背後には、こういうような思想というものがあったんではないかなというふうに今考えております。六大事業というのも、何かすごく良いネーミングだなというふうにも思えて参ります。最初のレポートの場合には七つの提案という様に書いてあります。それがどういう経緯で変わったかは分かりませんが、六大事業というふうな名前になっていますが、事業というのは当時としての“事業”と、それともしかしたら『後世への最大遺物』という本の中に出てくる“事業”というのは、当時やや意味合いが違ったかもしれませんが、それが偶然にも使われたというのは、何か意味があるのではないかなというふうにも思います。
それからですね、やはり最終的に色々本を読んでいくと、分からない事がいっぱい沢山出てまいります。そういう意味では田村明にとっての人生の最大遺物というのは、膨大な著作物であったのかもしれないと、それを後生に残す事によって、それが多くの人がそれを手に取る事が出来る。その考えに触れる事が出来るという事は、内村鑑三が後世への最大遺物という本の中で、この著作が一つの自分の後世への最大遺物であるというようなことを述べているのですけども、それに近いようなことを考えて、沢山の本を残された、沢山の著作を残されたのではないかなというふうに思います。
普段は何かちょっと都市計画馬鹿なくらい、ちょっと細かい、ディテールな話ばっかりしていたのですが、余りそういう細かい話をしても、やはり全体像が見えてこなくなるので、今日は、非常に大雑把な話をさせて頂きました。
私の話は以上でございます。