「企画調整室の活動」(遠藤包嗣・前公益財団法人帆船日本丸記念財団副会長、元横浜市企画調整室勤務)

 遠藤と申します。よろしくお願いします。レジュメの中に元横浜市企画調整室勤務とありますが、何せ、40年以上前の話になるので、この時代中心にお話しするのは、今回初めてになります。では、最初に、田村さんがいた時代と、それから、企画調整室の関係の話に入りたいと思います。私が企画調整室に入ったのが大学を出てすぐ、1971(昭和46)年の4月に入っています。そこで、76年の4月までの5年間、企画調整室にいましたので、ちょうど田村さんが企画調整室を作った後、6大事業をいろいろ動かすという「都市づくり」のための組織整備を積極的に手掛けていた時代になります。そういう意味で、企画調整室の5年間は、いろいろあり過ぎて、結構難しかったです。

 

 

・政令指定都市との比較      

 横浜市は、1960年(S35)10月1日で、人口1,375,710人でした。20年後の1980年(S55)には人口2,773,674人と、140万人の増加となっている。年平均7万人増加し、20年で人口は2倍となっていた。郊外地域の行政サービスの充実のために行政区は、S44年に10区から14区と増加。

 確認しておきたいのが、この政令都市の比較っていうところで飛鳥田さんが登場した1963年ですね。昭和38年。それから、田村さんが登場したのが、昭和43年。1968年になるわけですけど、この時代をこの人口の流れでちょっと見ていただくと、1960年、昭和35年、飛鳥田さんが出てくる前ですね。その時代の人口が横浜の場合137万。当時の大阪とか名古屋、東京都区部と比べると、100万都市ということで、100万都市のスケールというのは横浜が戦前の時代に、既に100万都市になっていますので、ここから大きな変化が起こっていったということを意識してもらいたいと思います。

 

・飛鳥田革新市政の都市づくり:市民参加の都市づくり(6大事業・1万人集会・市長への手紙)

 <施政方針>

 ・「子供を大切にする市政」  

 ・「だれでも住みたくなる都市づくり」

 *緑の保全と郊外部のスプロール防止  

 *公害の防止と住環境の改善      

 *都心部の渋滞の解消など交通問題の抜本的改善

 *米軍基地の撤去・接収地の返還運動

 

 1つ目は、田村さん中心にやった緑の保全、郊外部のスプロール防止の問題。

 2つ目は、公害問題への取組み。これは、当時で一番大変だったのは空気汚染、排ガス汚染ですね。これは、京浜工業地帯の工場が徹底的に問題を指摘されて、特に川崎は横浜よりはるかにひどい大気汚染の状況になっていたわけです。この大気汚染の問題から、水質の問題、さらには騒音の問題、それから振動の問題。住工混在地区では大きな問題となりましたが、そういう公害防止を積極的にやった。このときに、飛鳥田市政の中では、問題となる企業を追い出すという姿勢はありません。地場産業は育成するっていう前提での公害対策をやりますから、いわば、企業の公害防止対策を支援しながら、産業として自立して、ないしは発展してもらいたいという、そういう動きになっています。

 3つ目には、都心部の交通渋滞の問題、この問題は最初にやりました。100万都市が200万都市に10年間で増えていくっていうのは、当然、都市基盤のスケールが全く違いますから、特に、港を中心に物流が動きだすと、都心部の交通は、大量のコンテナの移動によって、もう大変な渋滞環境になっていくわけです。それから、郊外にどんどん住宅が増えますから、鉄道は整備されていても、そこの駅がパンクしていくわけです。バスが入ってこられなくなるという、交通問題が都心だけじゃなくて郊外でも起こってきていた時代です。

 それから、4つ目の米軍基地の撤去、接収問題っていうのは、金沢でも関係してきますけど、横浜の中に18カ所の接収地がまだあった時代で、根岸と本牧の住宅地区、岸根の病院、それから、この金沢の埋立のすぐ脇にあった富岡の倉庫地区、解決が遅れた小柴の貯油施設もありました。そういう意味で、今でもまだ解決してない場所が残っています。港でいけば、ノースドックがまだ残って返ってきません。基地撤去の運動を真剣にやっていました。

 

・都市づくりの先駆性     

ピーク時毎年10万人(S43~S46)の人口急増期の都市経営を乗り越え、平成28年7月現在374万人都市としての基盤整備がほぼ完成し、国際都市横浜の中心「みなとみらい21」地区も充実

 飛鳥田さんの時代は、「都市づくり」もやらなきゃいけないし、さらに生活環境の改善もやらなきゃいけないし、さらに、人口急増に対する対策もやらなきゃいけないし、何でもかんでも入っていたのです。さらに革新市政でしたから、ここにあるように「市民参加のまちづくり」として、1万人集会とか市長への手紙とか、鳴海さんのアイデアを中心に、ソフト施策もやっていました。

 戦後、高度成長で集中的に人口が増加してきたときの「都市づくり」をどうするかっていうときのモデルとして横浜が浮かび上がってきた背景になります。都市づくりの先駆性という形で書きましたけれども、その飛鳥田市政、ないしは田村さんの企画調整室の時代というのは、やはりこの高度成長、人口急増を背景としながら、100万都市横浜がいかに200万、300万に向けての基盤を作っていけるか。ないしは、東京に逃げていた商業機能を、もう一回、横浜に戻せるか。また就業の場として横浜をしっかり位置付けられるのか。業務系の立地ですね。そういう話も含めてが、全部この時代の課題でした。

 その後を受けて、細郷市長が1978年から、飛鳥田さんに代わって横浜市長をやられ、高度経済成長からバブル経済のタイミングになりましたけども「みなとみらい21事業」に着手ができた。それから、横浜博覧会を成功させ、退任されて、その後、高秀市長が1990年からでしたが、バブルが崩壊した中でも「みなとみらい21事業」をさらに展開しながら、国際文化都市を目指して2002年のFIFAのワールドカップの決勝大会を誘致する運動をしてきました。赤レンガ倉庫が保存・改修され魅力施設になったのもこの時代です。ここまでが、大体「都市づくり」の系図になります。

 飛鳥田さんの市長になられた1960年から、高秀さんが辞められた2002年まで、大体40年間ありますけれど、その40年間が、横浜の新しい「都市づくり」のベースを作り上げてきた時代になります。それ以降、中田市長の時代は、言葉でいったら、「成熟」という言葉を使ったのです。都市として、その基盤系を強化する、ないしは、産業立地をするというよりも、横浜らしい文化を生かした、生き生きとした都市をつくりたいということで、市民と協働で進めるG30に代表される環境問題や職員の意識改革等のソフト施策に積極的に取り組み、都市づくりへのエネルギーは若干落ちたのではないかと感じています。

 

企画調整室の活動

(1)少数精鋭の組織

①各局の若手を企画調整室スタッフに任命(*S46年度組織:室長以下31名)

 ・企画課長、企画第1係長、企画第2係長、主査、職員8、

 ・副主幹、主査、主査、職員2、(*土地利用調整担当)

 ・調整課長、庶務係長、主査、職員6、・都市科学研究室長、職員2、

②中期計画の策定(S47年:プロジェクト推進室新設、企画調整局になる)

 ・事業目標を明確にし、進行管理は財政局と連携。

③各局調査費の審査

 ・予算査定の時期に、財政局と連携し、各局の重要事業の計画・設計調査について事前審査。

④都市科学研究室

S45年に都市科学研究室長を松本得三氏が就任し、年4回調査季報を発行継続、福祉・財政・まちづくり・学校問題など、幅広く行政課題を特集し、専門家の意見、現場の担当職員の報告、専門家と職員の意見交換などを中心にまとめた。S46年に作成された「市民生活白書・横浜と私」は第1部「市民は訴える」に市民意見が記録され、第2部で行政の現状・目標をまとめ、充実していた。市民目線の職員育成を目指された。

 

 次に、企画調整の話をします。昭和46年の組織、田村室長以下33名になります。田村さんと、鳴海さん入れて、33人になります。この時代から次にプロジェクト推進室を作った時期がいつなのかっていうことで、今日も、野毛山図書館で当時の職員録を調べてみましたがぴったりきません。横山さん、どうですか。

 

(横山悠:確か48年。オイルショックの年。)

 

 だったら48年だ。この段階で、局になったのは、一つは技監室の鈴木技監さんが辞められて、大場さんが新しく助役になられて、技監も、一応兼ねられて。ただ、組織としては技監室にあった室を局に切り変えて、田村さんが企画調整局長となって、その下にプロジェクト室を入れて、この段階で、組織としては44名の組織になっています。

 なぜこんな数字にこだわるかというと、これは田村さん、少数精鋭で始めたのですが、何せスタッフが全部他の局から連れて来ないと仕事にならないわけです。開発指導もやらなきゃいけないし、それから、都市づくりビジョン、6大事業もやらなければならない。スタッフは全部各局から、若手係長試験受かった方をピックアップ、いわば、推薦を受けて組織をつくっているんですね。

 だから、最初に来たときには、田村さん、はっきり言えば、ほとんど面識ないはずなのです。最初の組織が、田村さんが43年の段階ですね。それ以降、毎年、厳しいチェックをしていたはずなのですね。実際はそうやっていかないと動かないのです。なぜ動かないかっていうと、役人は全部、自分が育った組織のほうを見て仕事していますから、企画調整室というのは組織になったばっかりで、市長に近いという位置にはありますけれど、ここに長くいて、どんなメリットがあるか。ほとんど無いですね。局に戻ったときにどのポジションに着けるかっていうのが一番分かりやすいことになります。ですから、企画調整局に来た係長、課長さんたちは、どうしても局とのパイプ役になって、企画調整の田村さんに局があまりいじめられないようにというような、そういう含みが結構あったと思います。

 その中で田村さんが評価したのは、理念を理解する根性のある係長、課長。局に戻った課長さん、係長さんはいっぱいいますが、田村さんのチームで「都市づくり」については意地を張ってやっていかなきゃいけないということを意識した方たちが、その後も「都市づくり」をずっとフォローしていった。この前、4月のシンポジウムのお話しいただいた廣瀬さんも企画調整に来たときは係長で来られました。その後、課長になられて、それから異動されてますから、宅地開発要綱に関係した仕事が長かったです。それから、内藤さんも係長で来られて長かったですね。企画課は意外と速くて、宮腰さんは最初の企画課長できて下水道局に戻られましたけども、公害問題、環境問題にこだわりがありました。

 小澤課長と、田代さんが企画第1係長で、若竹さんが第2係長で、この3人は「都市づくり」の、この後の流れに全部関わっていきます。田代さんは、最初は港湾にいて、道路局に行って、それから企画に来てる、いわば、企画に来る前に二つの局を経験してる方でした。その方が私の上司で、金沢地先埋立事業を一緒にやりましたし、若竹さんは建築ですけれど、この方はその後、都市づくりや再開発の指導に主に関わられ、「みなとみらい21事業」を、小澤さんの次に動かしました。

 廣瀬さんはいろいろなポジションを経験されていますが、「みなとみらい21事業」にも関わられてますし、それから、最後助役になりました。継続的に「都市づくり」をやっていくときのキーパーソンがこの時代に、既に登場していました。最初の企画の職員仲間では、池田さんも水嶋さんも踏ん張りました。少数精鋭といっているけども、現実は各行政組織の中から来られてますから、田村さんのチームといっても、出だしの2年、3年は、田村さんがご自分で踏ん張られて、ご自分で引っ張っていった。その心意気に打たれたスタッフが、実質の核になっていったことになります。

 もう一つ、都市科学研究室っていうのがありちます。これも田村さんが企画調整に来たときに、それまでは鳴海さんが調査季報を年に4回、職員向けに出していたのです。これは、先ほど公害問題や、環境問題等、行政課題を大学の先生とか交えながらまとめ、職員に読ませて、幅広く勉強させるものでした。昭和45年に都市科学研究室に松本さんが来られました。松本さんは、ここに来られる前は朝日の論説委員をされた方です。私たちもすごく影響を受けているのですが、基本姿勢の中で役所に対して、すごくクールなのです。役所は基本的に権力組織だと。革新自治体とはいっても、市民と行政の関係が理念通りいっているわけがないと。そのことを行政の職員が全く意識してないという認識で活動されていますから、松本さんが来てからの調査季報っていうのは、いろんな問題を取り組みますけど、できるだけ職員を入れてやっているのですね。行政課題を実際やっている職員を入れて、専門の方たちとのディスカッションもやるし、それから、自分たちにレポートを書かせる。いわば、その作業を担った福祉のチームにしても、環境のチームにしても、私たち都市づくりのチームにしても、関わった人たちは、松本さんの影響を受けています。組織の中でうまくいっていれば終わりではなくて、当事者の市民の方に必要な情報をどのように伝えられるかを考える。そういう教育が、当時、今もそうですけど、行政の中ではなかなかできないのです。そういう意味で、松本さんを中心とするような勉強会が幾つもできていきました。だから、この昭和45年から松本さんが企画調整室の都市科学研究室長になったというのは、横浜の「都市づくり」をハードで進めるだけじゃなくて、その担い手にさらに踏み込んだ教育をしていこうという意識が、相当はっきり出ています。

 

(田口俊夫:松本さんって誰が呼んできたんですか。)

 

田村さんじゃないかと思うけど。私には分からないです。

 

(横山悠:飛鳥田さんが朝日新聞に知り合いがいて、その人を通じて松本さんに白羽の矢が立ったようです。松本さんも、市役所の現場を見てみたいという意向があったらしい。)

 

 今、お答えいただいた横山さんは、松本さんの直属の部下ではありませんが、松本チームという意識的な職員グループの1人でした。松本さんは横浜市に7年間おられましたが、田村さんと違った意味で「都市づくり」の中の一つの核を作っていただいた方です。

 

(2)目標会議と大テーブル主義

・S46年には毎月1回定例の目標会議があり、室長以下全員参加で、各係長から課題の進捗状況の報告があり、自由な質疑がされた。

・S47年以降組織が大きくなり、残念ながら当初の目標会議の緊張感も薄れていった。

・情報の共有は、他の局とのプロジェクトの場では特に重要で、課長以下職員まで含めた調整会議が定期的に開かれ、チームの結束と、進行管理に大きく寄与した。

 再度、このテーマに戻りますが、「目標会議と大テーブル主義」と項目を付けました。この言葉も結構、田村さんはいろいろなところで使っているのですが、確かに目標会議っていうのは先ほど言った、田村さんの持っているビジョン、ないしは方向を、全職員が参加し確認する場で、毎月やっていました。特に最初の時代、企画調整室の時代っていうのはせいぜい人数30人ですから、局長室に入りきれないことはないっていうことで、そこで、1時間近くやりました。私が聞いたときには、係長さんがそれぞれ自分の抱えているテーマをみんなの前で報告します。日常的に田村さんとはやっているわけなのですが、周りの方に、今、どういう動きがあるかということを確認してもらうため、もう一つは、今一番大きく動いているテーマを認識してもらうこと。その二つが良かったと思います。

 ただ、この目標会議っていうのも局になって人数が50人を超えていくと、難しくなります。既に、いろんな方向に動いているグループができていますから、そのグループで田村さんと情報交換ないしは指示を仰ぐという、そういう実務の形が強くなります。組織が大きくなるにつれて、形骸化というか、自分に関係がすごく薄い仕事も入ってくるわけですね。だから、出だしの5年ぐらいは非常に意味があったかと思いますけども、局になってからはちょっと、性格が変わってきたかなと思っています。

 それから、もう一つ、これが並行して意味を持ったのが、この各局プロジェクトが動きだしたときには、別な意味が出てきます。各局のプロジェクトという、これは、レジメのほうにさっと書きましたけど、後で金沢埋立事業の関係で話しますが、いろんなプロジェクトが起きだしたときには、結局、局の縦割りの中では課長がいて、係長がいて、職員がいてと縦系列が仕事ごとに全部分かれていますから、隣の係の話は知っていても、そこの議論はしないんですね。いわば、縦グループでの議論はしますけど、それを飛び越えて横の議論に首突っ込んで議論していく、ちゃちゃを入れるという言い方になりますが、すごく嫌がられるわけです。俺たちは俺たちでちゃんとやっているんだと。

 でも現実は、スケジュール調整を本気でやっていく場合はそんなわけにはいかないです。遅れている、ないしは問題を抱えているのだったらみんなで解決しなきゃしょうがないじゃないかと。この情報の共有と積極的な議論っていうのは、企画調整室が動くときには当たり前の前提条件になります。局のほうからは、出だしは嫌がられたと思います。なんで関係ないやつがずけずけ話して、さらに言えば、宿題を出すんだという、そういう場面が出てくるのです。それでも、企画調整室のやり方は、事業推進組織の中では、もう必然となっていきました。

 

(3)政策課題の検討・推進

  ①6大事業の推進・調整(S46~50年)

   ・金沢地先埋立事業:S46年第1回事業計画の変更、工場移転計画、

   ・都心部強化事業:横浜駅東口・西口、伊勢佐木町・関内、三菱造船跡地、星川天王町等、

   ・港北ニュータウン建設計画:S45年基本構想、S49年土地区画整理事業計画認可、

   ・高速鉄道建設計画:1号線事業着手(S47年上大岡~伊勢佐木長者町完成)

   ・高速道路建設計画:首都高羽横線延伸、保土ヶ谷バイパス、南横浜バイパス、

   ・ベイブリッジ建設事業

  ②横浜市宅地開発要綱の指導・調整:京急釜利谷開発問題

  ③鶴見・神奈川防災遮断帯構想:日本鋼管工場跡地の活用計画(日本鋼管は扇島に移転)

  ④都市デザイン担当

   ・港の歴史を活かしたまちづくり(歴史的建物保存活用)

   ・快適な歩行者空間整備(馬車道商店街、伊勢佐木町商店街、日本大通り、海岸通り)

 

 三つ目に政策課題の検討、推進ということで、これは6大事業を企画課が中心にやっていましたから、私のいる企画課は、この6大事業関係になります。

 宅地開発要綱による指導、これは廣瀬さんのチーム。その後、総合土地調整課に変わりますが、調整区域、市街区域の線引き問題、それから、用途地域問題。さらに、この開発指導の問題。それらの調整セクションになる。行政的な形では宅地開発の指導については、建築局に宅地開発指導課を作りましたから、そちらが実務的には道路、下水、緑政の合わせて4局で具体的に審査を進めるのですが、企画調整室の廣瀬チームが関わるっていうのは、開発問題が政策課題になったときに、市長に問題を整理して上げるようにその調整機能を残して、田村さんが全部事前チェックして上げていました。

 それから、都市デザインっていうのも、新しく、田村さんが意識されて作ったチームで、岩崎さんと国吉さん、この二人が嘱託で入られていて実務をされた。イレギュラーな形で横浜市に入った形になっていますけども、岩崎さんは飛鳥田さんが辞めた時にご自分も横浜市をやめています。国吉さんはその後もずっと残って、都市デザインにこだわってやっていかれました。この都市デザインについての田村さんの考え方というのは、基本的には町に出て、そこで、その町のよさを生かして、町の人と確認して進めていく。ポイントは豊かな歩行者空間をつくる。豊かな歩行者空間をつくるという目標は、町の方が協力しない限り難しい、横浜の道路はみんな狭いですから、建物のセットバック、ないしは車道を縮めるとか、その町のサービス機能に全て影響します。伊勢佐木町にしても馬車道にしても、中華街にしても、みんな町の方と話しながら共通の価値、共通の目的をもって、それから、設計・工事までやっていきました。

 当然、それを担保するっていうことで、建築協定の議論が並行して動きますから、建築協定の議論をしていくと、そこに今度、サインの話とか、シンボルの話とか、いろいろなファーニチャーの話が出てくるわけです。でも、それは全部、企画調整室の岩崎さんなり、国吉さんなりを中心に、また開発課や経済局、道路局、土木事務所の職員が町に入っていき、解決していきます。建築家はいっぱいいますけど、全ての方に都市デザインができるわけではなくて、都市デザインのセンスと、海外事例も含めた勉強と、それを自分で消化している人がいないと、これはもう形だけで終わっちゃいます。

 企画調整室には岩崎さんと国吉さんが中心に、本牧接収地の開発プランや、関内から山下公園に続く都心プロムナード等、若竹さんや地曵さんが伊勢佐木町や都心部再開発関係の都市デザイン等、幅広く実践していったのです。 その後、緑政局の職員が入ったり、道路局の職員が入ったり、スタッフとしてはいろんなところから、得意分野を持つセンスのある方が入りながら、国吉さんや北沢さんと活動して、もう一回戻っていくというような形で「都市デザイン」が行政の中で定着していきます。

 さて、それ以外には、この時代の問題としては、京浜工業地帯でちょうど日本鋼管が扇島に移転しています。これは、大気汚染の問題で、横浜では相当いじめられていました。工場自体が古かったのです。だから、古い工場をリニューアルして、かつ機能を強化して、かつ公害も減らすために、扇島の埋立地に全面移転する。市内にあった5カ所か6カ所に分かれていた工場機能を全部扇島に持っていきました。一環工場として生産性が高い日本鋼管の施設にしながら、京浜工業地帯で出してた排気ガスをすごい勢いで減らしています。ただ、それをやったがために、今度、京浜工業地帯の中に残った日本鋼管の跡地をどう使うか。これは大変な議論になってきていて、それについても企画調整室で、鶴見・神奈川防災遮断帯っていう構想をベースとして議論していっています。こういう問題も新たに入ってきています。