質疑応答
金沢地先埋立事業における田村明
田村千尋:金沢埋立事業の、成功のポイントは何ですか。
遠藤包嗣:工場移転指導課が踏ん張ってくれたから金沢埋立事業が成功したと思います。理念を事業化したっていうのは、すごいエネルギーですよ。当時2000ある工場を全部回って、意欲ある移転して頑張りたいという企業をリストアップして、さらにもう一回、今度は、経営相談と経営指導のために回っているわけです。だから、本当に足で頑張ったのです。
田村千尋:工場同士の連動性というか、そういう関係もあるんですか。
遠藤包嗣:あります。松下電器グループに入っている企業、それから日本鋼管グループの企業とそういう関係があるから、鶴見・神奈川あたりはすごく利便性がいいのです。そこから、南の端っこに移転する。良く決断しました、本当に。
田口俊夫:僕の素朴な疑問なんですけど、田村明さんが、局でやっているから、一番トップだから、全部、最終的には田村さんが決めてるんですけど、田村さんらしさというのが、どういうふうにこのプロジェクトの中で、どこの部分に一番出ているんですかね。
遠藤包嗣:二つあって、一つは、やっぱり横浜の6大事業のための仕掛けを、この金沢でやっていかなければいけないということ。そういう意味では、最初の土地利用計画の見直しは、もうリミットにきた形でやっています。だから、昭和46年の作業っていう形になりましたけど、12月市会に資金計画を含めて事業計画を変更しなければいけない。
二つ目は出会いですが、槇さんがこの45年から関わっていたのです。
45年は海の公園で関わって、46年は住宅で関わって、ここの新しい埋立の新しいビジョンは、田村さんが槇さんとの会話の中で結構つくってきたかなと思っています。そういう意味で、土地利用計画の見直しで一番ポイントになったのは、住宅地側のあり方。住宅地のあり方を議論することは、工場用地側のあり方の議論とセットになっているわけです。そういう開発地域全体としての土地利用についての議論は、ほとんど今までなかったと思います。
田口俊夫:すいません、その前の金沢の埋立事業計画というのは、昭和39年に提案したじゃないですか。一応、らしきものを。
遠藤包嗣:らしきもののまま、いっちゃっているわけです。
田口俊夫:ああ、そういう意味でね。
遠藤包嗣:だから、そういう意味では、あのときの提案っていうのは、六つの提案をした中の一つが金沢であって、六つがうまく動けば都市づくりができるけれども、一個ずつ担当するというのが行政なわけ。行政の枠組みでいくと、金沢の埋立は、埋立事業局の事業になっちゃうわけです。でも、田村さんのイメージは埋立事業局の事業じゃなくて、これは複合の事業だよと。
田口俊夫 はい。
遠藤包嗣:でも、全然複合の事業として動いてなかった。土地利用計画がまとまってなくて、どうやって、再開発用の工場の跡地の議論ができるか。各局が清掃工場、下水処理場ほしいって言ったとき、じゃあ、それがどこにあればベターなのか、そういう機能をするためのネットワークがどうなっているのか。だから、その議論は、結局プロジェクトでやらない限り動いていかない。土地利用計画のときには道路局も、計画局も当然入るわけです。当時でいけば、道路線形のプロだった廣瀬さんが入ってきたり、向こうのチームが直接来て、一緒に絵を描いて線形決めて。工場の場合の道路幅員はどうだったらいいのかという話のときに、経済は広くしてほしいと。通常4車線で十分なのです。ただ、今回の場合にはいろんな企業が入ってくる、三菱も含めて、いろんなことを考えなきゃいけないのと、それから、金沢の先にもう一回埋立をやる可能性もあるという議論をみんなでして、じゃあ、広げておいたほうがいい。6車線、歩道も広くする、議論の結果30m道路が工場用地の骨格になっています。
土地利用計画の議論っていうのは、うちと埋立チームが中心になったけれども、道路局も入ってくれば、下水も環境も、ここに施設を持ってくる局はみんな出てくるわけ。住宅地側は、学校チームと、それから、公団チームの間に槇さんのチームで長島さんが入って議論していきました。
田村千尋:具体的にコーディネートするっていうことなのですね。そのコーディネートっていうのは具体的な意味合いを、まだちょっとつかめないんだけど。
遠藤包嗣:というよりも、この46年のプロジェクトは、部長プロジェクトなのです。トップが部長でプロジェクトマネージャーは課長が。
田口俊夫:部長って、田村さんは企画調整室の部長でしょう。
遠藤包嗣:企画調整は田村さんだけど、埋立事業局のほうは、埋立の部長が入って。実際のプロジェクトマネージャーは課長がやる。でも現実の作業は田代係長と埋立の田中係長が中心で動いて成果を上げていく。スケジュールが何せタイトだから、そのスケジュールの間に、決めなきゃいけないときには、全部企画調整室に集まってやります。それで方向を確認して、検討作業に入る。
田村千尋:そうすると企画調整に、メンバーが集まって、誰かが、こっちのほうにチェンジしたほうがいいんじゃないかとかっていうことが、田村明は、言えば言えたっていう。
遠藤包嗣:言わないと進まない。各局で頑張ってやっているので、それでもできるのだけど、今回みたいな複合型の事業は難しい。
田村千尋:すごい、でも、重要ですよね。
遠藤包嗣:まして、住宅地計画で、アーバンデザインを言い出したのは田村さんですから。埋立事業局は住宅用地を公団に高く売ればいいのです。
田村明入庁の意義
田口俊夫:今のでよく分かったのですけど、他のプロジェクトもみんなそうなんだと僕は思うんだけど、その昭和39年に提案して、やはり、43年に田村さん、現場に入らなければ、39年のちょっと毛が生えたぐらいので、そのままでいっちゃったのかなっていう感じもしますよね。
遠藤包嗣:いや、行政の実力っていう意味では飛鳥田さんの、パワーっていうのはすごいですよ。工場移転問題、中小企業の移転問題にこれだけこだわったというのも、飛鳥田さんの意思がすごく明快でないと、こんなに行政は動かないですよ。工場移転のために中小工場全部回って、その中から600の工場が上がってきているけれど、それは全部営業指導をして、その借金から返済計画から全部入ってやっているわけです。
田口俊夫:それ、43年より前からやっていますか。
遠藤包嗣:45年に工場移転指導課の組織ができました。田村さんが来てから、これを動かすにあたって、このままの組織じゃ駄目なのでつくるわけです。
田口俊夫:僕の言いたかったのは、だから、43年に入らなかったなら、39年の、あの紙の提案だけで、実質終わったのでないのかと。
遠藤包嗣:それは分からない。
田口俊夫:僕は動かなかったのでないかと思うのですけど。
遠藤包嗣:相当行政に対して、判断が偏ってるな。横浜の縦割りの行政というのは、すごいしっかりしているのです。埋立やっていくときに反対運動があれだけ起きてきたから、反対運動に対してどう対応するかっていうのは、行政は相当やります。ただ、このスケジュールでは動かないと思う。
田口:かつ、また、複合パターンにもならないんですか。
遠藤包嗣:それは、飛鳥田さんがいる限りは組織が強化されていくのです。それをやる人間がいる。企業に入っていったのは、既存の組織のスタッフ、職員なんだよ。係長さん、それから、新人の職員も含めて、みんなチームつくって、一斉に行ったのだから。そういうパワーがあるのです。
田口俊夫:いや、すいません。僕は、あえて、こだわって、仮説としてね、田村明を一つの軸に据えて、まちづくりをちょっと解析してみようという場の色彩もあるから、田村明なるものは本当にどの程度の役割があったのかを知りたいなと思って。
遠藤包嗣:一番のポイントは、やっぱりスケジュール管理です。このスケジュールの中でこの問題を解決していかないと、やっぱり目標がレベルダウンする。だから、片や市会で、片や国の動きがあって、市民運動も横目で見なければいけない。そういう中で、着実にこう押していく。役所流にいくと、大体、問題にぶち当たって、混乱すると、ちょっと別のやり方で時間を置いてやっていきましょうと。でも、時間を置いていったら、国の国土政策、産業政策の関係や、借金しながらやっている埋立事業にとって、まずいのです。
田村千尋:明流のやり方っていうのは、とにかく、問題、どこまで広げて、自分でその問題があるのかっていうのを、まず全部集めてきて、それで順番を付けるっていうのが、あの人は割と好きだったっていうか、だから、そのやり方が、功をそうしたっていうふうな印象を、今、受けたんですけど。
遠藤包嗣:僕は土地利用、いわばハード系のスタッフだった。もう一人、水嶋さんがソフト系の、工場移転問題のチームのスタッフと連携した。僕より四つか五つ上かな。問題は常に、田村さんの所に持っていくわけです。金沢への工場立地を何とかしなきゃいけない、工業等制限法も何とかクリアしなきゃいけない。そういう話を全部持っていくわけ。じゃあ、それはこうやって至急やれと、中小企業の支援のためには、新しいルール、ないしは支援策を入れなきゃいけないと。
田村さんの所にアイデアを持っていくと、そのアイデアを企画調整室のほうで事前にチェックして、その上で局ともう一回やる。局の課長クラスだと、上を見たときに上げても難しいという話が相当程度あるわけです、既存の縦組織だと。でも、田村さんは、それで了解しているから、頂上会議やればうまくいく。説明は、それぞれの局でやるけれど、結論は田村さんところで出しちゃおうと。田村さんの方針が出ない限り、田村さんと合意できなければ、市長の所に持っていけないのですね。
田村明の思想性と総合性
横山悠:「横浜市総合計画1985」を、私、プロジェクト室でやりました。そのときに、田村さんに言われたことの一つは、自治体の総合計画っていうのは、大体総論と各論で終わりだ。つまり、横浜市の1985年の姿はこういう姿ですよと打ち出して、市民にアピールする。そのための事業は、各局のそれぞれの事業がある。しかし、大事なことは、その局間をつなぐものだと田村さんに言われました。その間をつなぐのが、総論と各論の間にある中論。中論が大事。その中論の中にどんなことを入れたか、そこはまさに思想性っていうか、都市づくりの戦略というか、6大事業に代表されるような話だと思うのです。
つまり、横浜にとって、まちづくりの思想性っていうか、こんな考え方で、なぜ今、これに取り組むのかを打ち出すことが大事だと。ただ単純に法律で決められて、その事業をやるっていうのではない。横浜市にとって、これからも市民にとって、何が大事かという意味での、思想性というのでしょうかね、考え方をしっかり持たないと、まちづくりはできないよっていうことを言われたのが非常に印象に残っています。
その意味で総論に対する各論の間をつなぐ中論というのがいかに大事か。それを教わりました。宅地開発要綱もそうですし、それから、今の6大事業もそうです。6大事業は、金沢の埋立でも、すごい話があるわけですけど、それが六つもあるわけです。今日の横浜があるっていうのは、田村さんの先見の明があったのだというふうに思います。
遠藤包嗣:法律に、すごく深いんだよね、理解が。僕らは、自分に関係する法律しか興味ないから。でも、こういう大きな複合型になると、いろんな話が出てくるわけです。それを、誰かがちゃんと判断しないといけないっていう意味では、この時代はやっぱり田村さんが一番バランス取れていたんじゃないかな。
横山悠:思想性って言ったけど、別の言葉を使えば、総合性ってことです。トータルに横浜市を見る、全体としてどうするのだっていうことを、非常に強調された。国の役人は法律1本つくることが立身出世の道。でも、自治体行政っていう点ではそれらの法律をどう束ねて、全体として横浜市を考えるのが企画調整局の使命・役割だといわれ、実践されました。
バリアフリーが、今でこそ当たり前のように、駅の中でエレベーター、エスカレーターが当然で、車いすの人を随分見かけるようになりました、私は、最初の職場が民生局で、福祉の仕事だったのです。企画調整局にたまたま、ラッキーだったと思いますが、職員時代に異動しました。そこで、ソフトのまちづくりという点で、バリアフリーの提案をしまして、やろうじゃないかということで、その象徴的な事例が横浜スタジアムをつくったときに、そこに車いすの人が見れる場所をつくってもらいました。何人ぐらいでしたかね、10人ぐらいの車いす席をわざわざ設置した。それが素晴らしかったと思いますね。今からもう40年前にバリアフリーのことをやろうということを、彼がリーダーシップを取ってやっていただいた。
都市づくりの現場の頑張り
遠藤博:俗な質問で申し訳ない。今のを聞いていて、企画調整局の仕事ですけど、力を尽くしたっていう感じがするんですけど、残業みたいなことってすごくやってらっしゃいません?
遠藤包嗣:この時代、残業は当たり前だから。
遠藤博:どのぐらいやりました?
遠藤包嗣:いや、僕らよりも、埋立のチームのほうが大変だった。市会対応でやるし、それから、プロジェクトの作業の見直しが出れば全部やらなきゃいけないし、一番つらいのは、資金計画のベースとなる処分用地の街区割りが変わるわけですよ。特に中小企業の団地になってくると、当初の街区が修正されると道路が変わりますから。それに合わせて、地下系の排水設計も変えていかなきゃいけない。だから、工場移転の対象の土地の収まり方っていうのは、すごく重要だったのです。作業として。
僕らは企画調整室だから、ここの段階で、ほぼ私たちの仕事は終わるわけ。ここから先は、事業局は経済局が中心だし、ここから先は都市開発局だし、ここから先はっていう、そういう形で、内としてはもう動きようがない。最後まで引きずったのは、住宅の一般枠と優先枠をどうするかみたいな、そういう仕切りが一番最後になりました。
だから、僕が、そういう意味では付き合った、その経済局にしても緑政局にしても、開発のスタッフにしたって、みんな頑張った人たちが、今までのタコつぼの行政じゃない形で頑張っているから、各局調整がすごく楽なのです。各局調整が当たり前だというスタンスで、この3年間なり、4年間一緒にやっていますから、年取るにつれて仕事が変わっても、やっぱり調整課題については早めにやらなきゃいけないなっていう、あまり抱え込んでは駄目だなっていうのが分かった、そういう育ち方した人たちが横浜のベースをつくっているのです。すごく大きいですよ。
横山悠:そこをうまく表現していたら、すごくなんか。
遠藤包嗣:さっきの経済局じゃないけど、現場で苦労しながら成果を上げてきた人たちが、みんな局のトップになっていると思います。だから、新しい問題で、本当に汗をかいて、結論を出していった人というのは、やっぱり横浜をつくっていった。それがあるから細郷さんなり、高秀さんの時代も、「都市づくり」が進んだのです。
田口俊夫:すごくよく分かります。僕、レジメを見た最初に、遠藤さんにちょっと失礼なこと言って、事業史としては分かるんだけど、今のような話がないと、これで関わった人が何をしようとしているのか、それで、その人たちがどう育って、どうつながったのかというのがないと、ちょっと面白くないじゃないですか。だから、今の聞いていて、ああ、そういうことなんだなというのがよく分かりましたね。
田村明の現場主義とは
横山悠:松本さんという話がさっき出ましたけど、松本得三さんが一番、こう強調されてたのは、現場主義ということを、徹底的に言われました。本人も市長への手紙を見て、その手紙を出した人の所へわざわざ会いに行くぐらいの現場主義者だったのです。一見、田村さんと違うように見えるのですけど、田村さんもその意味では現場主義者だったと思うのです。その意味で、私は田村さんと松本さんから、一生の宝をもらったような感じで、今、思ってます。
田口俊夫:今のお話で、ときたま聞くお話が田村さんは、どちらかというと現場に、例えば、住民説明会とか事業の説明というのにはあえて行かなかったっていう話をよく聞くんですけど。それは、それなりの戦略性があったわけで行かなかったというだけの話で、誰かに任せたっていうことですかね。
遠藤包嗣:それはそうだよ。飛鳥田さんのブレーンの立場で行っちゃったら、市長の代わりの答弁になっちゃうから。
田口俊夫:そういうことですよね。
遠藤包嗣:それは、行かないほうがいいですね。
横山悠:現場の意味がちょっと違う。そこは、ちゃんと理解してもらわないとまずい。
田村千尋:現場の意味が、極端にいうと、全く違うかもしれません。
漆原順一:小澤さんが書いてた文章では、確かそういうふうに書かれていて、田村さんは現場にいかないとかっていうのを書かれていたので。
遠藤包嗣:小澤さんが書いたのは、港北ニュータウンだと思います。港北ニュータウンの場合は、これは、基本的には住宅公団の事業なのです。横浜市はそれを指導する立場。ただ、市長は自分で港北ニュータウン事業を地元に入ってやると約束したんだよね。市長が約束したけど、市長が事業やるわけじゃなくて事業は公団がやるわけ。この落差が大きかった。結局、公団への不満も横浜市にぶつける、地下鉄が進まないから横浜市にぶつける。ぶつけるのはかまわないけれど、結果、できない話になるわけです。いかに公団を軸とした事業を円滑に進める仕掛けを作っていくかという話があって、私は企画調整室の後、港北ニュータウンに異動したけど、ポイントは宅造協議だったのです。それが全然うまくいかなかった。
それをあの時代、軌道に乗せたのは、小林さんという港北ニュータウン建設部長と池澤さんなのです。そういう本当の問題点を認識し、手当をしないで、地元に呼ばれて行きました。それはね、絶対やっちゃいけない。
田口俊夫:そうですね。当然。
細郷市政期以降の都市づくりの評価
寺澤成介:ちょっといいですか。よく分からないのは、僕が入ったころ、なんかそういう話されていたんですが、実は、それから10年ぐらい経ったときに、横浜市がどういう評価を受けていたか。この10年、何が変わったのかなと、ちょっと、今、話聞いて思ったのね。僕が30後半ぐらいのときに、国と委員会とかやっているのですね、まちづくりで。そのときに国の人が出てきて、何を言ったか。「パンフレットが横浜、アイデアが神戸、実行の大阪」って言うわけです。10年前はそんなふうにやっていた横浜が10年ぐらい経って、田村さんが辞めてから10年ぐらい経っている時期になると、誰が泥をかぶって横浜市はやるんですかってことを言われる組織になっていたのですね、もう。
だから、僕からすると、その田村さんはやり過ぎたのかも。結局、第2、第3の田村明はいなかったのですね、横浜には。いたら、国の方からパンフレットの横浜なんて、揶揄される状況はなかったはずですよね。
遠藤包嗣:寺澤さんが言った10年後ぐらいのイメージというのは細郷さんの時代の真ん中あたりかな。細郷さんの時代には、6大事業をさらに継承していく形で、中身を踏ん張っていた。「みなとみらい21」では国際会議場の誘致の話もそうだし、町でいけば新横浜のまちづくりと、港北ニュータウンでいくと、地下鉄を何とか前に倒してやらないといけないとか。だから、6大事業を田村さんが積極的に動かした時代が終わって、それぞれの縦の、それぞれの事業枠の中で、さらに踏ん張ってたけれど、総合的なPRはあまりしていないのだと思う。確かに寺澤さんが言うとおり、パンフレットはいっぱいつくった。この事業は、ここまできていますので、次こうなりますという、そういうPR用の資料はすごく作ってたけど、6大事業のようなトータルとして横浜が戦略を語る時代は終わっていたと思う。
寺澤成介:それもそうだし、僕が誰が責任を取るのかって、この仕事やるんですかっていうことを聞いたけど。さっき遠藤さんが言われた方たちの、部長とかですね。どなたもお答えがなかったんですね。だから、そこのとこの組織が、10年ぐらいの間に、何が変わったのか変わらなかったのか。
6大事業は実行段階なのだけど、それ以外の事業も考えたわけですね。そのプロジェクトなんかやっているときに言われたわけです。もう6大事業で使い果たしたのかどうかは分からないのだけど、6大事業は動いたと思うんだけど、それ以外の所でそういうこと言われていたという。パンフレットの横浜っていう言い方。
横山悠:小澤さんの「みなとみらい21」での奮闘ぶりは、「横山さん、あなた小澤さんみたいなサムライになれますか」とある人に言われましてね、つまり、小澤さんが、もうお前なんか入っちゃあかんと言われるぐらいに「みなとみらい21」の都市づくりにまい進してた時代があるんですよ。
寺澤成介:それは分かるんですよ。それ以外で、そういうことを結構言われていた。要するに、誰が泥をかぶるのですかっていうこと。パンフレットしか作らないですよね、横浜は。いつもすてきなパンフレットは作れるんですが、と言われた状態になぜ陥ったのか。
遠藤包嗣:寺澤さん、それ泥かぶるっていう意味じゃないんだよね。昭和40年代から50年代前半のトータルの戦略から、50年代後半にはそれを充実させることのほうにすごいエネルギーがかかっているわけです。あの時代は都市づくり関係の話と、福祉サイドの高齢化と、分化していったのじゃないかな。何となく、僕はそんな感じがする。
寺澤成介:いや、それだけのパワーを持ってた自治体がなぜそんなレッテルを貼られるような状況に陥ったのかっていうのは、遠藤さんの話を聞いていても分かんなかったんです。
横山悠:時代背景からすれば、都市の建設の時代と、都市の今度はマネジメントの時代ということは言われるようになったわけでしょう。都市建設の時代がずっと続くわけではない、必ずしも。だから、6大事業の第2段みたいなのが次の時代にありやなしやっていう話になるのかな。
寺澤成介:そういう大きな流れとは別に、それぞれの部署がそれぞれ、次のテーマを求めて、総合性とは別にしろ、総合計画に入ってる各部門の仕事をやるわけですよ。例えばこの地域を再開発しようとかっていって立ち上げる。検討会を国を交えてやってるわけですね。その席で、横浜市さんはパンフレットは素敵だけど、誰が泥をかぶって、この仕事をやるんですかっていう質問を受けちゃうわけです。この事業を誰がやるんですかと。
遠藤包嗣:いや、国まで入れるのは、「みなとみらい21」は国まで当然入れて、運輸省・建設省があるから本気でやったけど、他の再開発は勉強会じゃないかな。ハード絡みの事業は、杉田にしても、上大岡にしても新横浜にしても、それは着実にやっています。
寺澤成介:いや、トータルとして、横浜の都市づくりは遅れていると。
例えば、6大事業でみなとみらいをつくっても、例えば、それ以外のところで、例えば、戸塚の再開発も全く動いてなかったとか。また拠点拠点の都市づくりが残っているわけです、幾つも。そういうものをプロジェクトで立ち上げようとしているわけです。委員会つくって。多分、当時の組織としては、まだまだ都市づくりやらなきゃいけないという意識が強かった。
遠藤包嗣:そうじゃなくてね、基本的に再開発っていうのは進まないのですよ。再開発するときは、条件として、地域の方たちが再開発したいという強い意思が育たないと駄目なのです。行政はビジョンはつくれるけれど、地域の方と同じ歩調で動けるかどうかにかかっている。信頼関係づくりに、時間がかかります。現場を知らない建設省には無理です。動き出すまでに最低5年かかるのです。
寺澤成介:いや、そうじゃなくて、その中からピックアップして、どれを具体化、行政としては力を入れていくかっていう選択もほとんどないままやってる感じがあって。だからこそ、外から見て、パンフレットの横浜と。
遠藤包嗣:再開発の話だったら全く違和感ないよ。再開発っていうのは、役所が前面に出てやる仕事じゃないから。地域の方たちが、どれだけ意識するかなんです。市の職員が泥をかぶる、かぶらないではないと思う。
寺澤成介:だから、国は、そういう意味で言うと、横浜市は本気でやるの、これを。なんか絵ばっかし描いているけどどうなのって、僕は言われているような気がして。
そのために結構な金をつぎ込んでいるわけですよね。だけどさ、パンフレットの横浜って揶揄されるような状況が、僕からするとね、6大事業で新しいことをいろいろ動きだして、やってる自治体が、なぜ、揶揄をされるようになってしまったのか。10年ぐらいの間でというのが、ものすごい、僕にとって、疑問だった。今まだ、疑問が解けてない。
田村の力量、飛鳥田のリーダーシップ
東秀紀:いいですか。私はNKKにいましたけど、神奈川県と横浜市と川崎市をよく比較してたんです。川崎市については、君嶋さんという方が都市工の大学院から特別試験で入られて、八面六臂の活躍をされた。川崎駅前でも武蔵小杉でも、新川崎でも、臨海部でも、彼を抜きには語れない。しかし、市長のブレーンではないから、優秀な職員ではあっても、存分に力を発揮できなかった。君嶋さんは昨年亡くなられましたが、行政、市民、地元企業含め、果たして彼に充分報いられたかを思うと残念です。他方、神奈川県は長洲知事が外部からブレーンに呼んできた方が2、3人いたんです。しかし、この方たちは既存の県組織に乗っかった形での功績はあっても、田村さんのように力技を振るい、役所を変え、都市計画を変えてしまうような、本来ブレーンに期待されるご活躍はされなかったように思います。今その方々のお名前を申し上げても、県の方でなければ、今はもう皆さんの記憶に残っていないでしょう。さて、このように考えてみると、神奈川県、横浜市、川崎市がいずれも当時は革新自治体でしたが、三者三様で、横浜市の田村さんだけが、何故ああいうふうに、歴史に残るような活躍ができたかというのは、わたしにはたいへん興味深い。田村さんの強烈なキャラクターによるものか、あるいは細郷市長がいったように田村さん個人ではなく、横浜市の力に帰すべきなのか。一回、田村さんにそれを聞いたら、「飛鳥田さんだよ」というのがお答えでしたけど、どう思われますか。
遠藤包嗣:やっぱりね、飛鳥田さんが市長になって、最初の市民白書は鳴海さんたちがつくっているのだけど、「都市づくり」がほとんどないのです。現状分析はしっかりしているのだけど、提案まで導き出せてないわけ。保守党政権が続いていたところに、飛鳥田さんが市長として落下傘で降りてきた。市民向けには、市民参加の革新市政と言っているけれど、足元は結局できてなかったと。だから、1期目は、ほとんどラッパで終わっているのです。
2期目に向けて田村さんを呼んできたっていうのは、相当の危機感があって、人選をそれこそ昔のメンバーに頼んでピックアップして、出会った。出会ったときに、飛鳥田さんの思いを相当伝えているはずです。浜っ子だから飛鳥田さん。さっきの接収地の問題も、中小企業の問題も全部、問題としてはよく認識していた。ただ、事業提案はできないわけです。事業のスケールが見えてないし、何せ問題ばっかり目に付く横浜だから。だから、そういう意味では田村さんがコンサルで書いた六つの事業はすごく分かりやすかったと思います。でも、行政の中で、飛鳥田さんがやれっと言って、はい、分かりましたってやる、そういう体制にない中では、それを直接やる人間として、期待されたのだと思います。それをまともに田村さん受けたんだよね。
だから、来てからの動き方は、やっぱり激しかったはずです。高速道路の話も出だしから始まって、もう戦いに次ぐ戦いで、最後6大事業を動かしていくためには、まず金沢埋立を何とかせにゃならないと、このスケジュールの中で動かした。都心部をやるためには、ここを動かさない限り事業は動かないというのははっきり分かっていたと思います。
横浜市にとってみれば、都心部をいかにするか。それから、就業の場、生活の場をいかにするかっていう意味では、やっぱりこのときの課題の重さっていうのは圧倒的だったと思います。そういう意味では飛鳥田さんと田村さんの関係っていうのは、相当緊密です。この、46年の市民生活白書、これは松本さんが中心にまとめられたけど、ここに入ってる市民の声はすごく良いのです。この時代を生きてる市民の方たちの気持ちが入っていて、それを受けて、行政のほうの提案、ないしは6大事業から教育、福祉まで全部入っていますけど。これはすごく充実していて、私はよくこの本を読み直します。それ以降出てきた白書と比べると、気持ちの入り方が違います。なかなか気持ちが入った白書って作れないと思いました。
そんなことも、最後にお話ししまして、これで終わりにしたいと思います。