「田村明の遺したもの-出版の経緯と概要」(鈴木伸治・横浜市立大学教授)
みなさんこんにちは。私は横浜市立大学の鈴木と申します。今回、『今、田村明を読む』という、田村明先生の著作選集の編者を務めさせていただきました。この仕事自身、私が適任か迷うところが多くございました。なぜかと申しますと、田村先生と一緒に仕事をされた方がたくさんいらっしゃる、あるいは法政大学で田村先生の下で学ばれた方もたくさんいらっしゃる。私自身は、田村先生の教えを直接的に受けたというよりは横浜で行われておりました、まちづくり塾の生徒ではあったものの、なかなか出席率の高くない落第気味の生徒だったわけですから、私でいいのかと思う部分がございました。
ただ、私自身、2004年に北沢猛先生(故人・当時東京大学助教授)と私で、田村明先生の連続インタビューを実施しておりました。北沢先生は田村先生の横浜市役所時代の部下という間柄です。結果的には、このインタビューは途中で終わります。この頃、北沢先生が体調を崩されて、体調もすぐれないということでインタビューを中止しようと。それと、田村明先生自身も、ご自身で自分の横浜でやった仕事について書きたいという思いを持っていらして、それが『都市プランナー田村明の闘い―横浜“市民の政府”をめざして』という学芸出版から出版された本になります
そういった経緯もあって、奥様の眞生子様より、著作選集の編者を依頼されることになりました。
この著作選集では、8本の論考を収録させていただいています。ただし、田村先生が法政大学に移ってからは、たくさん本を書かれていますので、主に環境開発センター時代、それから横浜市役所時代に書かれたもので書籍に未収録であるものや、田村先生の思考の軌跡が分かるような、この頃こんなことを考えていたんだ、ということが分かるようなものを中心に8本を選ばせていただきました。
これから少しお話をさせていただきますが、その論文を書かれた時代背景を考えながら読むと、さらに深く田村明先生を理解できるのではないかと思います。またこのタイトルについては、若い世代の人にも読んでもらいたいという意味も込められています。今日も、20代30代の方が、この会場にいらっしゃるのは非常に嬉しく思いますし、ぜひ読み継いでいくべきものがあるのではないかというふうに考えています。
なお、表紙に関しては、田村明先生のお兄様である、田村義也さんが岩波で編集の仕事をされていましたが、当時、義也さんとお仕事をされたことのある桂川潤さんに装丁をお願いしました。田村先生が横浜市に入って、最初に手掛けた仕事のうちの一つである、都心プロムナードの絵タイルのイメージで表紙をつくっていただきました。改めて感謝をしたいと思います。
それでは、私に与えられた時間は、20分ほどですので、田村明先生が残したもの、ここでは研究の対象ということで、「田村明の遺したもの」、という言い方をさせていただきますけども、少しの間お話しをさせていただきます。
もう、みなさんご存じのように、田村明は横浜の都市づくりにおいて非常に大きな功績を残しました。高速道路の地下化しかり、宅地開発要綱しかり、そういったハード面だけではなくて、公害対策などハード、ソフトの両面で大きな功績を残されていますし、六大事業といえば田村明さんの着想だったということも有名ではあります。
もう少し客観的に、都市計画史的にみると、やっぱり自治体都市計画を総合化するという重要な仕事をされたように思います。田村先生の仕事はどちらかと言えばやはり中央官庁との闘いという面が多くございます。ここは、後程の鼎談の中でも色々とお聞きしたいところでもありますけども。やはり、1970年代80年代に、自治体として、中央官庁の都市計画に対して、自立性のある都市計画の仕組み、そういったものを体系的に整備したのは、横浜だけだったんではないかなと私は思っております。そういった中で、仕組み、組織といったものが、キーワードになってくるかなというふうに思います。
そして、何よりも、自治体プランナーというもののあり方を示したというところも大きな成果です。60年代の半ばと言えば、官庁プランナーの時代です。日本の都市計画というのは、元々は中央官庁から始まっているわけです。1919年に都市計画法というものができて、都市計画の専門家が日本でも生まれますけども、その時にやはり土木と建築と造園の専門家を集めて、内務省の大臣官房に都市計画課をつくったわけですね。その戦前からの流れは戦後も引き継がれていて、中央官庁の強い影響を自治体は受けてきたわけです。そういった中で、自治体の中に専門的に働くプランナーというものを成立させる必要があるということを、ずっと主張されたのも、やはり田村さんの大きな功績ではないか、というふうに思っています。
またこれに合わせてですね、官庁都市計画からまちづくりへということも継続的に主張されました。これは、特に横浜市を退官されて法政大学に移られてから、そして法政大学を退官されて以後もずっと世に問い続けたテーマでもあるわけです。市民参加から、市民の政府論へ、ということで、田村明の思考というのは飛翔していくわけです。
こちらが、高速道路の地下化図の写真ですね。みなとみらい、ここから地下に入っていって、関内のほうを地下に抜けていくんです。一旦決まりかけた都市計画を、中央官庁に対して地下化を強力に主張して、これをひっくり返したんですね。この間のやりとりについては、『都市プランナー 田村明の闘い』の中に詳しく書かれていますので、省略しますけども、これはやはり一つのターニングポイントだったというふうに思います。
そして、それより若干さかのぼりますが、田村明は環境開発センターに1963年に入所しますが、64年に横浜の将来計画に関する基礎調査というのを担当します。この中で、7つの提案というのがなされますが、これがのちの六大事業になるわけです。そして、このレポートの中で、これはみなとみらいについて書かれた最初の横浜中心地区計画。造船所、それから貨物のヤードを土地利用転換して新しい都心をつくっていくという、こういう絵を最初に示すわけですが、これがきっかけになり、長い年月をかけて横浜都心というのが生まれ変わるわけです。
これは1965年のときの空撮写真で、次が2008年当時の横浜都心部を空撮した写真です。非常に大きな変化があったということは、みなさん既にご存知かと思います。これについては2010年に、『都市デザインとまちづくり』というDVDの監修を国吉直行と共に担当させていただきましたので、少し見ていただければと思います。
<DVD鑑賞>
時間の方が押しておりますので、このまま続けたいと思いますが。この六大事業について、何が重要なポイントかといえば、港湾物流の世界の変化というのを先取りしたことだと思います。報告書の後半部分では延々と港湾物流がどういうふうに変化するかということが書かれています。タイミング的に見て、この60年代の半ばで港湾物流がコンテナ物流中心に変わるということを見越して、それを見越して中心部の都市計画を考えたというのは、全国的に見ても世界的に見ても非常に少ない例だと思います。そういった点で、改めて田村明の仕事を評価する必要があるのではないかと思います。
また、自治体都市計画の総合化ということで言いますと、独自の仕組みとして様々なものをつくり出していますが、その最たるものが土地利用横浜方式です。この写真は、横浜駅の西口にある県民活動サポートセンターですね。この建物は1972年に建てられております。横浜の土地利用横浜方式は1973年にできますので、それよりも先にできあがっているわけなんですけれども。市街地環境設計制度が出来る前に、実は、高さの特例の許可を使って、ここの広場をつくらせているんですね。1968年ごろから、横浜ではこの高さの特例許可が急増しています。市街地環境設計制度というのは、高さの制限を超えて高いものを建てるときに、広場(公開空地)をつくりなさいよという制度です。実は制度ができる前、1968年つまり横浜市に田村明が入庁してからすでにそういうことやり始めているんですね。そのことをインタビューでお聞きしました。大雑把に言いますと、田村さんはこれについて、自分は民間で不動産業をやってたんだと。その感覚からすると、民間でやった経験だとか民間的な発想からして、こういうこと考えたということです。アメとムチという言いかたは、結果的には役人はそういう言い方するんだけど、民間的な合理性なんだということを言われます。田村さんが入庁してから、企画調整局では目標会議という会議を実施していました。その当時の資料を見ると、71年ぐらいに建築規制のうまい抑え方を考えるという議題が出てますけれども、これって田村さんが具体的な指示出したんでしょうかということをお聞きしたところ、それはそうですよと。基本的なところは自分が指示をしたと。細かいところはそのあと、あとでご登壇されます廣瀬さんや岩崎さんがそういった制度設計をされたということを言ってらっしゃるんですね。
私もかつてそうでしたし、現役の横浜市役所のかたも、実は市街地環境設計制度というのは、アメリカのニューヨークのゾーニング制度を真似たんじゃないかとか、いろんなことを言う方がいらっしゃるんですけども、やはり田村さんが日生時代に持った不動産業務、経験、それを活かして、独自に考え出したということをインタビューの中では明らかになりました。そして岩崎駿介さんがその指示に従って、実際に具体的にどうしたらいいかというようなスケッチをされるんですね。おそらく左上の写真というのは、先ほどのかながわ県民センターのスケッチではないかというふうに考えています。
ただ、こういったレガシーというのは、横浜市にどう受け継がれていくの、ということが私にとっては非常に気になるところです。2000年代前半に、横浜市の都心部で景観問題、タワーのマンションが乱立するというような出来事がありました。みなとみらい線の開通によって、多くのタワー型のマンションが建った。これに対して大変大きな反対の声があがります。その後、横浜市は都市計画を変更します。ただ、なぜこのマンションが建ったかというと、ある時に、高度地区の制限について、主要な通りに関しては適用除外するというふうにルールを変えたんですね。つまり横浜市が土地利用横浜方式という、非常に重要な田村時代のレガシーを十分に守り切れなかった。それはもうすでに時代として必要無くなったんではないかというふうに理解したんだと思います。そういった上で、都市計画を変えたところが様々な問題が出てしまった。これはどちらがいい、どちらが悪いという問題ではないんですけれども、やはりその時代のレガシーというのをどう引き継ぐのかというのが、重要なことだというふうに思います。
また、組織の面について言えば、この著作選集の中にも入れてるんですが、地域計画機関のありかたという、1962年に田村明が書いた最初のメモが入っています。これは、論考というよりはむしろメモ書きのような箇条書きのものなんですが、実は環境開発センターに入る前に書いたものを、浅田孝が冊子化して配ったんです。そのあと環境開発センターに入るんですね。当時、写真の一番左側のところに田村明さんがいらっしゃって、右側に浅田孝さんがいらっしゃり、ここに高山英華さんがいらっしゃいます。
田村さんが環境開発センターに入った経緯をかいつまんでお話しすると、雑誌を見て、浅田さんが様々な都市に関する仕事をしているのを見てですね、自分の恩師である丹下健三のところにそういった仕事をしたいというふうに言うわけです。丹下健三はそれを、高山英華の大学の助手として採用することを薦めようとしたんですね。ただ、その場にいた、浅田孝が自分が作った環境開発センターで仕事しないか、というふうに、ある意味でインターセプトするというような経緯があるわけです。
ちょうどそのころ東大で何が起こっていたかといいますと、東大の都市工学科という大学院を作ろうとしていたんですね。1962年に東大の都市工学科が出来ます。63年に田村さんは環境開発センターに入るわけです。もしかしたら、田村さんは、東大の都市工の助手になっていたかもしれないんですけれども、そこを浅田さんが自分のところに連れて来るんですね。
本当にタイミングというか、偶然の成せる技なのかもしれませんが、その中で、地域計画期間の在り方について、こんなことを言ってます。いわゆる建築、土木、造園みたいなものを延長してもしょうがないと。法律、法制技術、経営の技術を入れて、総合的にやらなきゃいけないんだと、いうことを言います。そして、この意志をもって環境開発センターに入るわけです。この地域計画機関の在り方の組織イメージは、まさにそのあと横浜市で作った企画調整局の組織のイメージと重なるんですね。地域プランナーその中には総合プランナー専門プランナーというのがいる。また、様々な分野の専門家もいる。後の「都市科学研究室」のようなイメージでしょうか。専門家を積極的に登用した、ということをやるわけです。これをは環境開発センターに入ってすらいない時代に構想して、横浜市に入り、これを作るわけですね。こういった田村さんの自治体都市計画を進めるために必要な機関の在り方は、後に自治体プランナー論へと展開していきます。
そして、田村明の総合プランナーとしての役割についても少し触れておきたいんですが、1966年~7年にかけて、書かれた報告書の中にある絵です。68年に田村さんは横浜市に入庁しますので、まだ横浜市に入るかどうか分からない時期に書いていた関内の将来に関するビジョンですね。この中には馬車道、元町、それから中華街、山下公園って続くプロムナードを整備しようということが既に書かれています。実際横浜市の都市デザインを担当された国吉先生なんかにも、こういう図を見たことがありますか?というお話をしましたら、これを見たことがないと言ってらっしゃいます。この図はおそらく田村明の頭の中にあって、そして機会をみて、じゃあ馬車道をやろう、都心のプロムナードやろう、元町やろう、という話に広がっていったんではないかなというふうに思います。つまり青図というのは横浜市に入庁する前から、田村明の頭の中にあったということです。
それから、官庁都市計画からまちづくりへということで言えば、早くから市民と都市計画との関係について論じています。著作選集の中には、1965年に書かれた『都市は市民のためにある』というものを入れておりますが、この中では都市には3つの段階があると。第一に「混沌の段階」段階、第二に「経済合理性の段階」、第三として「市民生活の向上」というものが、その段階で必要になるということを言っているんですが、第四の段階というのを示唆しています。何かといいますと、モダンデザインの高層アパートが建ち並んだ綺麗な都市ができたからといって、市民生活の理想ではないということを言っているんですね。
第四の時代は「人間の時代」であると。物偏重の時代から人間独自の価値を発見する、これが次の課題だということを言っています。かなり、予言じみた文章ではあるんですが、このとき田村は六大事業の提案を終えたばかりなんですね。つまり環境問題だとか公害の問題だとか、様々な問題、これを何とかしなきゃいけない、ということを考えていた、その時に、さらに、この第四の段階というのを考えていた、というのは記憶しておくべきであろう、というふうに思います。
最後に少しだけ、信仰者としての田村明についても触れさせていただきます。田村さんは、あまり直接的に自分がキリスト教の信仰をもっているということを明言はされませんでした。ただ、内村鑑三の名前を汲む無教会主義のキリスト教徒であったということは確かです。後に、戦後、東大の総長を務めた、矢内原忠雄の聖書研究会、それから大阪では、黒崎幸吉の聖書研究会に参加しています。実際田村家ではですね、聖書研究会を月に1回開催していますが、田村明が解説役を務める、中心的な役割を務めることが多かったというふうに聞いております。
私は個人的には、何か、矢内原忠雄の影響というものはあるのか?といった疑問を持っていたのですが、むしろ奥様のお話では、終生、『後世の最大遺物』という内村鑑三の書籍を大事にされたということです。
この無教会主義のキリスト教徒であるという事実については、田村明先生が亡くなった偲ぶ会で、法政大学の同僚であり、無教会主義のキリスト教徒として親交の深かった成澤光先生が追悼の言葉を述べられたときに初めて知ったんですね。
そのとき私がふと頭に浮かんだのは、青山士(あおやまあきら)です。青山士という方は土木学会の会長を務めた、大変著名な土木計画、あるいは土木技師であるんですが、内村鑑三の話を聞いて土木技術者を志し、広井勇という、内村鑑三の札幌農学校時代の同期のもとで、それを学ぶわけです。青山士は、大河津分水の難工事や、荒川放水路の開削を通じて大変多くの人の命を救い、生活を支えたということで知られているわけです。何かそこに、田村明との共通点というのがあるのではないかと思っています。
実際にこの『後世の最大遺物』という本を読んでみますと、様々なものが大事なんだけれども、まずはお金が大事ですよと。お金を得て、それをたとえば孤児院のために使うといったように、持てるものが、いかに持たざるものにそのお金を使っていくかが大事なんだという話。事業が大事であるということ、思想が大事であること、それから著述すること。例えば自分の考えを本に書いて人に伝えることが大事だということが述べられているわけです。
その『後世の最大遺物』は、一番最後にこういった形でまとめられております。「私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。これが本当の遺物ではないか、という言葉で締められているわけです。こういった影響をおそらく田村明は受けていただろうというふうに考えております。これは成澤先生も同じように述べていまして、先生の書かれた追悼文「田村明さんの背骨」の中で、この精神的バックボーンとして既成の権威や権力に対しての批判精神や弱者への視点、使命としての職業観というのを持っている。これは、無教会主義の精神そのものである、いうようなことを書かれています。
私が思いますに、田村明が、自分が亡くなる本当に一か月前までですね、まちづくりについて熱く語り続けたわけです。そういった意味で言えば、多くの著作も残しましたが、最後までまちづくりについて語り続けたその姿勢というのが、勇ましい高尚なる生涯だったのではないかと思います。
今日、お配りしております、この報告書『都市をデザインする仕事』なんですが、実は、一番最初に田村明先生の講演が入っております。この講演をやっていただいたのが2009年の12月10日になります。そのとき田村明先生は依頼を快諾していただきながらも、実際のところは酸素ボンベを引きずりながら我々の前に現れて、お話をしていただきました。そしてその1か月後の、1月25日に天に召されたという経緯がありまして、ぜひそのことを知ってもらうという意味で、これを配布させていただいております。
そのあとにはですね、田村明の周辺にいた人たち、また、その後もその意志を継ぐような形で横浜の都市づくりに取り組んだ人たちのインタビューが収録されております。もっともっとたくさんの方にお話し聞きたいんですが、今回はその20人の証言っていうのをまとめたものを配布させていただいております。荷物にならない程度にお持ち帰りいただければと思います。
私からのお話は以上にさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。