鼎談「田村明からのメッセージ」(蓑原敬・廣瀬良一・田村千尋 モディレータ:鈴木伸治)

〈鈴木伸治〉

それでは残りの時間、鼎談というかたちで進めさせていただきます。時間も限られておりますので、テーマを出させていただきたいと思います。最初はですね、これは打ち合わせの際、蓑原さんと廣瀬さんが田村さんが市役所を去られたあと、大変だったですよねっていうお話をされておられましたが、如何に田村さんのレガシーを引き継いでいったかというお話でもあると思うんですね。ですから、田村さんが市役所を去ったあとのお話を廣瀬さんから少しコメント頂いて、そのあと蓑原さんから、いわゆる田村明が遺したもの、そのレガシーは何かということについて少しコメント頂きながらスタートしたいと思います。

 そのあとですね、田村明の人となり、それとまちづくりとの関係について論じたいと思いますと。これだけの多くのひとが集まるということは、そこには何かがあるだろうということですね。今まで我々があまり知ることのなかった面についてもですね、田村千尋さんのコメントで回していけたらなと思います。できれば最後に会場からのお話も頂きたいと思っていますので、よろしくお願いします。まず最初に、少しインタビュー的になるかもしれませんが、田村さんが市役所を去られたあと、如何に田村イズムといいますか、田村さんが遺したものを引き継いでいったか、どういったご苦労をされたのかということを廣瀬さんに語って頂きたい。話しにくい面もあるかもしれませんが、逆に今日ぐらい話して頂けるのではという感じがします。

田村明が横浜市を去った後

 

〈廣瀬良一〉

 中から見た田村先生のご功績につきましては、先程の私の説明の通りでございますが、田村先生がおられなくなったあとの横浜市の中ではどうだろうということですね。 確かにいろいろな混乱があったことは事実だと思います。田村先生がまだ在任中に市長が代わられたのですね。飛鳥田市長の次はご承知の細郷市長、特に飛鳥田市長のときには田村先生は大変頼りにされておられましたが、細郷市長に代わられたということは、田村先生にとっては、大変やりにくかったと思います。と申しますのは、それまでの細郷市長と田村先生とはいろいろな面で接点がおありになったようですが、やはりこう言っては失礼ですけど、官僚出身の細郷市長と、民間の経験をベースにした都市プランナーとしての田村先生とでは相容れない部分があったようです。そういう中で私どもは、やはり実践的に事を進めなきゃいけない。ですから、田村先生からのいろいろな指示といいますか、今までの田村イズムを含めた方向性、これを今度は細郷市政の方針にどうアレンジし、アジャストしていくかというテーマだったと思います。これは私だけの受け止め方かも知れませんが、私ども横浜市の職員は飛鳥田市長のために、また、細郷道一市長のために市政を運営しているわけではなく、横浜市、及び横浜市民のためにやっているわけですから、市長が代わっても政策的なことは別として、基本的なことはやはり変わらないという信念は確かに持っていました。ただ具体的にはそうはいかないという面もございました。例えば、田村先生が技監の立場におられましたが、かなり形式的なお立場であったと思います。細郷市長になられてから、技監の設置規則がかなり大幅に改正されました。ということは、田村先生がおられたとしても、実質的には手も足ももがれてしまった存在といった方が当たっているかも知れませんね。そういう中で、田村先生ご自身も大変苦しかったと思いますね。でも、私どもはそういうことは、それは一つの現象であって、やっぱり実践的な立場の我々は、今までの横浜市の都市づくりという、田村先生が引かれたその路線に沿って、淡々とやるべきではないかと考えました。ですから、多少細郷市長の方向とは違う方向に行ったものもあったかも知れませんが、それはきちっと我々の立場でご説明をし、そして100パーセントまではいかないとしても、70、80点くらいのところで折り合うということを目指したつもりでございます。ですから例えば「みなとみらい21事業」では、ほとんどマスタープラン通り現在も進んでいます。そういう意味では細郷市長はどうお考えだったかは分かりませんが、我々が横浜の都市づくりという田村イズムを基にした路線を頑なに守ったといった方がいいと思います。そういった意味での、実践的な苦労はありました。今のお話はまだ断片的ですが、それ以外の部分についても、基本的には同じ方向であったと思います。本日のこの場にも後輩の方々が大勢いますけれど、そのような受け止め方を参考にしながら更なる横浜の都市づくりを進めていただきたいと願っています。

 

〈鈴木伸治〉

 まさにそう私も感じている部分もありまして、緑の軸線構想というのが、まだ田村さんが環境開発センター時代から徐々に出てきました。そして、現在は緑の軸線とは言わずに、開港シンボル軸と呼ばれています。名前を変えて、実態としてはほぼ一緒で、大通り公園から日本大通りを通って、山下公園までを緑の軸線にしていこうということが行われています。いわゆるエッセンスみたいなものはずっと受け継がれているのかなというふうにも思います。計画のレガシーといいますか、そういうものは引き継がれているのかなというふうに思いました。もう一つ、冒頭にお話にあった組織や仕組みをつくられたところも一つのポイントではないかというふうに思っております。例えば、小澤恵一さんの名前が出てきますけれども、田村さんは「私は、人事は上手かったんですよ」ということを度々言っていらっしゃいます。元々農業職だった小澤恵一さんが最終的にはみなとみらいのプロジェクトを手がけたように、適材適所に人を充てていったという組織づくりの妙みたいなものもあると思います。その辺は廣瀬さんが一番、田村さんを支える立場でいたわけですけれども、何か印象に残っていることはありますでしょうか。

 

〈廣瀬良一〉

 人はそれぞれ能力が違い、或いはまた、得手不得手、これはやむを得ないことだと思いますが、やはり上にたつ人は、どの組織でもそうだと思いますが、それぞれの人間の本質を見極めながら、悪いところはある程度は目をつむり、そして良いところを活かすという点で、やはり田村先生は卓越した洞察力を持っておられたと思いますね。そういう方から私が選ばれた一人であったことを自慢するわけではないのですけど、私自身も分からなかった自分自身を田村先生の配下に入れていただいたことによって、「あぁ、なるほど。自分にもこういう能力もあるのだな」ということを実感したことはありました。また逆に田村先生から大変こっぴどく怒られたこともあります。これは上司として部下に対し怒るということもあるのは当然だと思います。やはり怒られたときに、怒られたその事を活かせる人と、怒られたことによってそれが本人のやる気をなくしてしまうなどマイナスの方向にいってしまう人もいるかも知れません。そういったことも含めて田村先生は怒り方、誉め方、使い方となかなかの卓越した才能をお持ちでした。ですから、企画調整局に集められた人たちが全て有能な職員で、それ以外は普通のレベルの職員というわけではないのですが、それぞれの長所・短所などをきちっと上司としてご覧になって、それを上手く活用されたというのではないかと思います。

 若干余談になると思いますけど、それは別に部下だけではなく、田村先生から見て上司である人の使い方についても同じでしたね。皆さんご存知かも知れませんが、磯子の駅前に高層のマンション群が建っていますね。あれは元々埋め立て地でございまして、埋め立て補償で地元の方々が取得した土地が大部分です。その地続きでその昔に偕楽園という料亭がありましたが、その土地に当時の日本住宅公団による磯子三丁目市街地住宅という高層住宅の建設計画が持ち上がりました。その計画は当時の建築基準法の高さ制限の特例許可対象となっていて、市の建築局では既にその許可を出していました。しかしその計画が実現するとその近くで既に10棟ほどのマンション群が建てられていたので、学区の市立浜小学校での収容能力がなく、できれば公団のその計画を縮小するとともに、一階部分に小学校の分校を入れてくれないかという市の意向を公団本社に事後的に掛け合いに行くことになったわけです。

 これにはさすがの田村先生も行かれませんでした。鈴木和夫さんという元公団の役員であった方が神奈川県の建築部長を経験されて横浜市に来られ、当時技監をされていましたが、その方に私がお供して公団本社に交渉に行ったのです。交渉と言うよりは田村先生の計画変更指示(1階部分の住宅を取りやめ、そこに小学校分校を開設する)を強引に頼み込んだのです。そういう意味では、私が行くのは当然ですけど、鈴木技監を、公団としてはノ-と言えない立場の人を使ったという点では、田村先生はやはりなかなか卓越した、人の使い方がお上手な方だというふうに思いました。

 

〈鈴木伸治〉

 いわゆる小学校の学校収容定員が足りなくなってしまう問題への対応のプロセスで、開発権移転みたいなことをやっているので、あまり知られてはいないんですけれども、物凄く当時としては画期的なことをやってらっしゃったかなというふうに思います。そういう人付き合いといいますか、人を使う上手さというのが、何かご家庭の中で、人となりとしてですね、小さい頃からこうだというエピソードがあればお聞きしたいんですけれども。

 

 

〈田村千尋〉

 私は四人兄弟、兄貴が3人、すぐ上の明、その上、義也、忠幸です。私は末っ子です。明は3番目、一般に3番目の子は上の二人言動を比較し、親の気に入る判断基準を基にして育つので要領がいい、と言われますが、明はまさにそのように動いていた。一番不思議なことは明が兄弟喧嘩をしているのを見たことがないということです。一つには近い兄弟、上下とも4学年離れていたので喧嘩になりにくかった、ともいえますが。でも、私は上の二人とは7つも、9つも離れていて、力では喧嘩にはならないですけれども、なんだか理不尽なことを言われ、かぶりついていった思い出があります。でも明とは喧嘩した記憶がありません。今言った年齢差もありますがやはり明のDNAだと思います。もう一つは幼い頃の環境にも何か鍵があるかもしれません。物心ついた4才のとき、あの大恐慌です。両親はこの時はとても困ったと言っています。その会話などから明は困窮状況を察知したのでしょう。母が外に働きに出て家にいなくなったことも当然影響したでしょう。ともかく、厳しく我慢することを覚えたのではないかと考えます。その後も戦争に次ぐ戦争、明は兵隊にならないように自分の道を考えた。終戦になったときが19才、先ほど蓑原先生のお話にもありましたけれども、明が教育を受けている間は全部、戦争でした。あの酷い軍国主義の中での教育だったわけです。国は一人でも敵兵を殺せ、と説きましたが、両親は戦争に行っても人を殺すなと説きました。この真反対の考え、明は間違いなく親の心に沿っていました。そして全体には至極、平和主義だったんだと思います。

田村時代のレガシーとは何か

 

〈鈴木伸治〉

 ありがとうございます。次に、田村明の何を受け継いでいくかということをテーマにしたいと思います。今、横浜市政は田村時代のレガシーを如何に引き継いで行くかということにも通じると思いますし、日本の都市計画自体、1970年代の横浜がやっていたことと今と比較してどうなのかという部分もあろうかと思います。当然、状況も違うんですが、引き継ぐべきものももう少しクリアにしていかなければいけないかなというふうにも思います。先ほど蓑原さんのお話の最後に状況の変化に如何に対応して考えていくかということも重要だというご指摘もありました。横浜に田村明が遺した、或いは法政大学時代も含めて田村明が遺したレガシーを如何に引き継ぐかということをお話し頂ければと思います。

 

〈蓑原敬〉

 2つ大きな問題があります。具体的な問題として田村さんがやったことが、上手く、今の経済情勢とか行政構造の中でできるかというと、物凄く難しい状況になっています。たまたま、去年と今年と二度ウィーンに行きまして、ウィーン市のちょうど田村さんと同じような立場の、女性のイルカさんという都市計画局長さんとお話する機会がありました。ウィーンは戦後まだ一度も、革新自治体ではなくなったことがありません。ずっと社会民主主義的な制度を引きずりながら、地味だけど着実に良い美しいまちを積みあげて来ている。何でそううまくいっているのか、聞いてみると、都市デザインがちゃんとでき、街が活性化するような組織構造になっている。当然のことながら、学校、運動場、道路や公園を作り管理する別々の部局がある。しかし、およそ物的な施設のデザインや利用に関しては、分野横断的に、イルカ局長のところでコントロールしている。分野別ではない。全体としての都市の空間をどうつくっていくかっていうことを別々の部局が考えながらやることは非常に難しい。だから、今のウィーン市では、およそ空間デザインに関わる問題については、横断的に、全体のデザインの質と関連性を考える部局が確実にチェックをし、コントロールしている。だから、空間的にも非常に落ち着いた都市形成が続いている。実は田村さんが横浜市でやったこともそういうことだったと思うんですよ。企画調整局っていうのは、全権をそこに集約させたら意味がなくなっちゃうわけで、そうじゃなくて、各縦割りの部局の持っている空間的な構造を都市としてどうやって上手く繋げていくかっていう仕事を、都市発展の戦略と都市デザインという観点から調整していくという役割を持っていたはずなんです。そういう仕組みが本当は行政の中になければいけない。しかし、例え、銀座のまちづくりで、銀座まちづくり会議があって、銀座の人々が我々専門家を使って分野横断的、総合的な観点からの提案をしても、その提案が役所に入った途端に、縦割りの行政機構に絡みとられて、ほとんど瓦解しちゃう。それは非常におかしいわけで、そういうことの問題をできるだけ明らかにし、直していくことが必要なわけです。少なくとも田村さんの時代にはそういうことを意識して、そういうことを総合的、分野横断的にやれたから、横浜市は他に抜きん出てデザイン的に優れた都市環境がつくられているんじゃないでしょうか。その他の問題については、実は徹底的に問題の所在が違うのはさっき申し上げたように、私が生まれたのは1933年ですが、その時代の地球人口が10数億、私が役所に入った1960年が30億、今70数億で、このままだと近く100億になる。要するに人口が、10数億とか30億とかの時代の話を70億とか100億の時代に引き継ぐって言ったって駄目なんです。経済構造も変わるし、社会的なシステムも変わるわけです。そうすると何が問題かというと、やっぱり現実の現場の中で生活を考えながら空間を考えて、さっき鈴木さんがまさに言った、勇ましい、高尚なる生涯っていうのを如何にして送るかということをプランニングという職業に懸けて、やっていくということしかしょうがないんじゃないか。それが、田村さんの遺した最大のレガシーじゃないか。実は、そういうことが完全に忘れられている故に、例えば、姉歯事件が起こり、旭化成の杭打ち事件が起こる。要するに、現下の現実に正直に対応するというモラルを喪失しちゃっているわけです。一人一人の人間が自分がどういう社会的責任を持ってやっているかということを考えないで仕事をするような構造が社会的に蔓延しちゃっている。その中で敵もいるかもしれないけれども、勇気を、勇ましい、高尚なる生涯を送ろうと決意をして今のように現場の中で必要だと思うことをやっていく。ただし、時代時代の違いがありますから、その時代時代の現場から考えないといけない。先ほどお話したように、もう成長だけの話をしたって意味がない時代ですから、まずは現下の生き様の問題として、現場から上手くやっていくより方法がないと思っています。

 

〈鈴木伸治〉

 ありがとうございます。一番目の問題に関して言えば、まさにそうで、確か1973年ですね、土地利用横浜方式をつくるときにちょうど廣瀬さんのご担当だと思うんですけれども、市長の許可体系の整理というのを凄く丁寧にやられていて、要はこういう問題が起こったときにどこでその情報共有するかといって、整理されていて、今でも相当受け継がれている部分があるのではないかというふうに思っておりますけれども。そういった面で、全体の組織論みたいなものについてはどうでしょうか。

 

〈廣瀬良一〉

 先程ご報告させていただきました田村先生のご功績の中で、現行制度を最大限に活用するという報告があったかと思いますが、当時、特にハードな開発、建築等に関連する法律をくまなく、私ども法律の専門家ではありませんが、実務者として整理をいたしました。そういった中で横浜市の実態から見て、「これは使えるな」、「これはあまり使えないな」、或いは「これはもう少しこうすればこういうふうに使えるな」とかいうことをかなり体系的に整理した時期がありました。その成果が横浜方式というものを編み出すもののベースになったのだと思っています。これは、今でも私どもとしては、基本のリサーチの仕方、整理の仕方というのは変わらないのではないかなと思っておりますので、現役の後輩の皆さんが現実的に抱えている問題をどうやって横浜にフィットしたような制度に持っていくのかということを、我々があのときに整理したことなどを一つの参考にしてやって欲しいなと思っています。その中で編み出されたのが、条例改正とか、或いは用途地域の指定基準とか、日照基準や高度地区の指定基準とか、更には環境設計制度もその一つですね。或いは新横浜地区、山下地区など特定地区における指導基準、こういったものを総合的に整備したのが具体的な実績例だと思っています。

 

〈蓑原敬〉

 今の話に関連して、銀座でどういうことが起こっているかっていうと、先ほど申し上げたように、十何年前に200メートルのビル計画を潰すために銀座の人が結集をして、その結果、銀座まちづくり会議ができた。結果としてまちづくり会議に一応通さないかぎり、中央区は受け付けないということになっちゃったもんだからみんな相談に来るようになった。ということは、市街地開発事業要項という中央政府が潰そうとしているような行政措置のスクリーンが、基本的には建築基準法とか、都市計画法とか、更に都市再生法とか、色んな法律よりも先立って、具体的に動いているから銀座はちゃんとしているわけです。そういうような法制度的には随分無理なことをしなければ、銀座は壊滅的に壊れてしまっているだろうということです。何を言いたいかというと、美しい魅力的な都市を創り出そうとすれば、まちづくりのルールを現場と程遠い、地域の人の気持ちとは無縁の中央政府が決めること自体、時代錯誤なんですよ。1970年代に革新自治体は、そういう方向を目指して動き、実績も上げてきた。しかも、そのことは、実は世界的にもそういう方向になってきたから、日本だって地方分権一括法やなんかで、そういう方向に向かって動き出そうとしていた。それで我々も都市計画をそういう方向に変えるべきだということを主張したのにも関わらず、最近そういうことを誰も言わなくなっちゃった。そのこと自体おかしいんであって、70年代、80年代、横浜とか旭川とか、いくつかのところではちゃんとやっていたということを思い起こしてくださいと僕は言いたい。田村さんが生きていたら同じ意見でしょう。

 

〈鈴木伸治〉

 用途別容積規制というお話が廣瀬さんのお話に出てきましたが、あれを廃止した際にはやはり、中央省庁の影響もあったように思います。

 

〈蓑原敬〉

 例えば、横浜市で市街地環境設計制度が出きたとき、私は実は、建設省の住宅局の建築基準法の担当官でした。横浜市の内藤淳之さんの相談を受けたのです。これは明らかに建築基準法違反で、裁判になったら負けるかもしれない。だけど、本当に横浜市がやる気あるなら是非やってください。なぜならば、建築基準法という法体系自体、もう構造的に非常に古くなっていて、法律を変えていくきっかけになるかもしれない。そういうことがあって、中央官庁の中も、心ある人はそういう方向に沿って前向きに考えていたから、自治体で先導的な試みをしようとすれば、むしろ歓迎した。ところが、今、また逆転現象が起こっちゃって、中央集権型の行政構造でコントロールしようとし始めている。現場はますますやりにくくなっています。

田村明の人となり

 

〈鈴木伸治〉

 中央省庁は今、現場感覚がどんどんなくなってきていて、なおかつコントロールしようとするので、どんどん現場と対立していくという問題は構造的に今でもあると思います。さて時間もなくなって来たので、最後のお話に移りたいと思います。先ほど蓑原先生が述べられた「生き様」という、プランナーとしての田村明の遺したリーダーシップについて考えたいと思います。「勇ましい、高尚なる生涯」ということにも触れて頂きました。ここの部分については、やはり一番千尋さんがお話して頂ける部分ではないかということで、少しコメント頂けますでしょうか。

 

〈田村千尋〉

 なかなか難しいところですね。明をどう見るか、兄弟はライバル同士でもありますから、時間を追って様々な思い出も走ります。先ほど、明とは喧嘩をしなかったと申しましたが、理由は明が私に寛容であったのと、私が無理をいわなかったからでしょう。何故彼が寛容な心を持つようになったのか、を私なりに考えますと、明が幼児期に経験した貧乏と我慢の生活にあるのではないかと思います。大恐慌になったとき父の収入が激減、田村家はとても困ったと母は言います。何とか自分でも収入を確保したい、四人の男の子を育てる為に職をもとうと考えます。そして幼稚園の先生を目指し、保母の資格を得ることを考え、厳しい勉学の時間が始まります。家に帰るのは遅く、幼い明にはつらい毎日だったと思います。明が物心がついた四つか五つの時、我慢と忍耐を覚え、しっかり身につけたのでしょう。私は生まれたばかりです。一方、上の兄達は、小学生、少年になって社会性もでてきていた。昼間は友達と楽しく過ごせた。そんなわけで幼少の明は一人寂しく、母の愛を求めて過ごしたと思います。戦争を背景に明はそこから抜け出さないまま大人になっていくのです。旧制高校の寮生活、空腹との闘い、兄を含め直ぐ上の先輩達は生死の別れを議論する、自分はもうすぐそこに行くだろう、そんな時間と対峙して過ごしたわけです。そして敗戦、突然の死からの解放、今様の反抗期は無縁のままだったのではないでしょうか。明には周辺にあまり若い女性の接近がなかったのも気になりますが、母親が代理恋人だったような気がするのです。とにかく、母親の生き方に共鳴した兄だったと思います。その母親の強さをはっきり知ったのは、第二次大戦のはじめの頃です。幼稚園の先生をやっていたのですが、朝の朝礼時、文部省から宮城遙拝をせよとの指令が出たのです。「自分が牢に繋がれても私は園児に宮城遙拝はさせない」と言って拒否したというのです。この後、我が家の周辺に憲兵や私服の刑事らしき人がうろうろするという事態が起きました。幼稚園は戦時解散となり、母は逮捕されるないですんだのですが、権力と戦う母親を見ました。明はこの事件をどう受け止めたか、勇気と知恵の狭間に置かれ、どうしても譲れない問題での立ち位置を意識したにちがいありません。このときは家族の間にも恐怖が走りました。戦争も終わり、それから10年以上経ちました。明は日本生命に入社、不動産運用の仕事は社内にも経験者が少なく、入社そうそう自分が指導するような雰囲気だったそうで自由な時間も多く、文化活動に精を出し、聖書を読む会をやったりしていました。ところが横浜に来てからは自分がクリスチャンであることを見せなかったのです。どういう計算がはたらいたのか、敵地に乗り込む思いがあったかもしれません。

 

〈鈴木伸治〉

 そうですね、私が田村先生の本を読んだり、雑誌を読んだり、自伝的なメモを読ませて頂いて、実は田村明にとっては、お父さんもある種のロールモデルだったんじゃないかなと思っています。田村幸太郎さんは職業倫理に非常に厳しいサラリーマンで、それについて全国を講演して回っていらっしゃったそうです。田村明さんは、実践の場では例えば市会議員ともやりあう、はっきりとガツガツとあたっていくような部分もありつつも、でも一方で、やはり非常に高い倫理性というのも同時に持とうとしていて、その二面性のある方だと理解しています。そういう部分には、お父様の影響もあったんじゃないかな、というふうには思うんですが。

 

〈田村千尋〉

 父親は私には大変厳しかった。勉強しろ勉強しろと言われました。あまり成績が良くなかったからでしょう。出来の良い兄がいて弟は割りを喰った感じでした。厳しい父親の話ですが、意外に子供達と議論をするということはなく、聖書を読む、習字をする、読書をするが父の生活、あまり上手でない駄洒落を言って子供達の失笑をかうと言うほどで過ごしました。父が天に召され、長じて義也、明、私で家族同士のつきあいが続きましたが、この二人がディスカッションをしているのを聞いてとても楽しかった、勉強にもなったという思い出があります。二人は手法が正反対、明は俯瞰的に見て何が大切かを考えながらだんだん細部に入る論理型、義也はパッと見て気になるところから攻めていくタイプ、分からなかったり面白かったりするとそこでグルグル回っちゃう、しかし、真髄に近づく、深さは並たいていではない、芸術派型でした。母親が明型、父親が義也型です。因みにに私は父親似でしたが後半、母親型になったと思います。

 

〈蓑原敬〉

 最近色々と関連する本を読ませて頂いて、とても考えることが多い。特に田村明さんの奥さんから、いただいた本が刺激的でした。奥さんの妹さん、僕の大学の先輩のお祖父さん、斎藤宗次郎という人と妹さんとの往復書簡集です。斎藤宗次郎さんという人は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ」っていう有名な詩のモデルだろうと言われている人だったらしい。斎藤家も無教会派の内村鑑三さんの弟子で、斎藤宗次郎さんは内村鑑三の最期の看取りまでしたっていう人ですが、物凄く強い自立意識がある。めげない、全然何処でも大丈夫だっていう、そういう強烈な核みたいなものを、私は田村さんにも感じました。だから組織にすがってとか、ある種の時流に乗って身を処するなどということを潔としない強い精神があったと思います。でもそれは、おそらく、奥さんぐらいしか見えない、見せないことだったかもしれない。

 

〈鈴木伸治〉

 ありがとうございます。私もちょっと感じる部分もあって、田村明さんは非常に多くのひとに囲まれていたんだけれども、実は都市計画のメジャーな世界からすると、やはりアウトサイダーなところがあって、建築学会の大賞は受賞しているけれども、法政大学では文系にいらっしゃった。だからある種、非常に独立した個の存在であったという感じも見えている。だから、組織を率いるということと同時にそういう個としての力みたいなものの源泉は何なのかが気になります。非常に今のお話は非常に共感する部分がありました。一つ、職業倫理というか、そういう部分ですね、最後手短に一言頂けますでしょうか。

 

〈廣瀬良一〉

 そうですね、やはり身近で見た、或いは上司としての田村先生の人間像というのは、私から見た場合、今でも私の人生にかなりの影響力があったというのと同時に、人格形成にも深い関わりがあったものと思っています。組織の中では得てして、上司は権限がありますけど、実態を知らない。我々実務者は実態を知っているけれど、決定権がないし権限もない。この間を組織として上手く埋め合わせて、全体として機能させるという点においても、田村先生はかなり実態を自分自身で検証することに努力されました。そういう意味では、偉大なリーダーであり、上司であり、先輩であったと思います。

質疑応答

〈建築家・高橋志保彦〉

 高橋と申します。非常に面白く聞かせて頂きました。私が田村さんと最初にお会いしたのは、企画調整室長の時代で、小さな部屋で仕事をされているときに色々なことを聞きに行ったという思い出があります。田村さんが何かの大きな賞を頂いたとき、忘れたんですけれども、私はそれにちょっと遅れていったら、司会の方からすぐに挨拶せいと言われて、私は田村さんに向かって何を言ったらいいのかな、お祝いの言葉を述べたらいいのかなと思いながらも、とっさに出てきたのは、弘法大師っていうのは杖を持って突くとそこから水がわいたという伝説がありますね。それを思い出して、田村さんは現代の弘法大師だと。色んな町に行ってそこで杖を突くとそこでまちづくりが起こるというようなことを言ったら、 あとで田村さんに「あんたいいこというね」と。誉められたのそれぐらいかもしれないですけれども。蓑原先生に二つほど質問したいんです。構造に関して二つ質問したいんです。一つの構造は行政的な構造でして、縦割り行政っていう言葉がかなり色々なところから出て参りました。これは本庁、自治体という縦の行政の力が及びますからなかなか横にいかないというそもそも論、なかなか上手くいかないというのが一つある。それに対して、蓑原さんはフィラデルフィアに行かれたんですけれども、ボストンの中にはBRAっていうのがあって、市長と全然別のところに、ボストン開発局っていうのがある。そこが色々やる。だから市長が変わっても継続してできるというようなことをやっていまして。ニューヨークでは、包括的運輸網、交通も全部一緒にやる。そういうような体系ってのがあって上手く行っている。そういうことが田村さんはやろうと思ってできなかったのか、それとも、それは日本的じゃないから、やはり日本型で急がないでやっていった方がいいと思われたのか。この辺の構造的な、行政構造としてどうだったのかなぁということを聞きたい。

 もう一つの構造は空間構造で、都市には都市のかたちというのがある。リンチの言葉で言えばディスリクトとかエッジという。先ほどウィーンの話が出ましたが、ウィーンは城壁があってそこが今道路になっていて、一つの大きなリングというか枠がある。その中でどうやるかというと、基本的には中心市街地というふうな考えのもとになるんだと思います。日本の街はそういうのはほとんどありません。城下町っていうのは、お城にそこだけ城壁があって、あとはまちはやられてもいいと、そんなような構造のときにスプロールしていくと、どこまでも、どこまでもずっと行ってしまう。今救われるのは、人間歩けるのは500メートルまでですから、地下鉄の駅が地区ごとにあれば、なんとか地下鉄の駅から500メートル圏内で続いていくというようなことになる。それはもう歩くということで、先ほど蓑原さんも歩行者空間のことをちょっと言われましたけど。歩行者空間っていうのは、やっぱり人間がどれくらい楽しく歩けるかっていう、そういうテリトリーっていうのがあるんですね。ですから、そういうものを含めて空間構造を、私も空間構成をだいぶやってきましたけども、その辺でいつも困ったなぁっていうことが出てきます。トラフィックセルを造る、日本の道路交通そうなっていないんですよ。やろうと思ってもできない。だからそういうようなことでだいぶ悩んで上手くあんまり行かなかったんですよ。蓑原さんはその辺のところ、どうお考えか、ちょっとお聞かせください。

〈蓑原敬〉

 まず、最初の方のお話ですけどね、田村さんは運輸省に確か勤めているんですよね。だから中央省庁の構造っていうのはわかっている。それから民間会社にも勤めている。だから、そういう意味での組織構造のあり方みたいなものの見識は十分に彼の中にある。それから市民と付き合ってどうするかなんていうのはおそらく横浜市で初めてだろう。しかもその背後に、それこそ一万人集会とかなんとか言ってやっている革新市長がいて、そういう当時の非常に熱い空気の中でやっているわけですから、今のような構造とは違う見方をしていたと思うんですよ。ですから、さっきの市街環境設計制度みたいに、かまわないよ、法律違反があって訴えられてもいいじゃないかという決断をやれるだけの見識があった。実は、60年代、70年代の日本には、そういうようなかたちで現場から構造を変えていくような契機があって、革新自治体はむしろ成熟した地方自治型の構造に切り替えていくという先導的な役割を果たしていた。まさに横浜もそうだったし、さっき申し上げた旭川もそうだった。保守系だけれども例えば川西市でも、要綱行政とかですね、中央区でも吉田さんという随分、乱暴な人がいて、大きな成果を上げている。そういうことがやれていたわけですよ。やっていたわけです。ですから、構造と言うのは常に流動的なもので、その地点地点で変わっていきますから、現場の人間が、構造の変革に対してどう挑むのかが一つの大きな力なのです。ただ挑むときに自分一人で、虎の威なしに戦えば、大抵、ドンと鉄砲で撃たれて終わりになる。如何に上手く、事業主体を絡め、市民を絡めながら一つの流れを作るというテクニックの問題はありますが。田村さんは場を冷静に見つめながら、一つ一つ着実にやっていったと思う。もちろん優秀な部下がたくさんいたからできた話ですが。あの当時、飛鳥田さんは飛ぶ鳥を落とす勢いだった。さっき、千尋さんがおっしゃった、クリスチャンであることを隠していたというのは、一つは革新自治体だったからではないでしょうか。そういう意味で言うと、彼は非常なリアリストでしたから。

 それから、二番目のパターン、空間構造の問題については、まさにおっしゃる通りでね。高橋さんは日本におけるその面の先導者だったわけですよ。ところがいくらやっても実現できないじゃないですか。それはやっぱり、日本の縦割り構造が強固なまま今に至るまであって、どうにもならない。最近、警察庁のOBの偉い人に、オリンピックになって、外国から沢山人が来ますよね、日本の今の道路交通体系はものすごく遅れているので、道路交通の関係者が、この際、修正することを考えているのですかねと聞いたら、いや今、警察は警備治安には強い関心を持っているけど、交通問題について大きな矛盾があるとは思っていないのではないかという返事が返ってきました。この何十年間の間にまた少し退化している。だから高橋さんや大勢の人がやってきたような成果すら忘れられているのではないでしょうか。だからこそ、横浜の都市計画、都市デザインの歴史をきちっと記録しておくことが大事だと思います。

〈建築家・仙田満〉

 仙田です。私も田村先生が室長の時代からお付き合いをしていたのですが、やはり田村時代というのは、ある意味で、先ほど蓑原さんが虎と狐という関係で比喩的におっしゃられていましたけれど、首長が優れた専門家を外部に抱える、或いは外部に発注するということがわりかしできた時代じゃないかなと。でもやはり、飛鳥田・田村というですね、そういう関係性がその後、日本にですね、もっともっと、私なんかは広がると思ったんですが、それはそれほどできなかった。もう一つは上手く自治体ではコンサルタントにしろ、設計者にしろ、様々な設計者選定という問題では匿名随契だとか、指名だとかができない時代ですので、かつて田村先生の時代は田村さんがまちづくりとして、パートナーとして優れた民間のコンサルタントを指名しながら一緒につくってきたという時代だったと思うのですが、現在はですね、それはある意味ではできなくなって、酷いところになると入札なんて形でやっていると。こういう状況についてですね、廣瀬さんと蓑原先生、どういうふうにお考えかちょっとお聞かせください。

〈廣瀬良一〉

 今のご質問は組織の中でこういうふうな新しい提案はどうしたらいいのか、また、そういうものを実現するためにはどういうふうな手段を講じるかというようなことにもなると思いますが。今の時代と田村先生がおられた時代では確かに背景がかなり違うと思いますね。従って、田村先生がおられたころは制度的にまだ未熟な点が多かったと思います。そういう意味では知恵のある人がいれば、知恵を出し合いながら現実的な対応ができる。そういうノウハウを身につけられたのはやはり田村先生がおられたお陰だと思います。今は逆に、何でもかんでもマニュアル化して、職員の方も一人ひとりが何かを考えても、それは所詮マニュアルに合っていない。言ってみれば、判断を一人一人の職員がする必要がなくなるぐらいまで、マニュアル化してしまっているのが今の弊害ではないかなと思いますね。横浜市の職員にとってみれば、一人一人はそれなりのレベルに達した有能な方々が多いと思います。先輩の私が見てもそう思います。そういった人たちが本当に横浜市、及び横浜市民のためになることを考えないはずがないのですね。考えても、いや、それはマニュアルにないから違うよとか、そんなこと判断する余地がないくらいまで緻密なマニュアル化をしてしまっている。だから、やはり人間としての能力を十分発揮できるような体制に戻さなければいけないのではないかと感じますね。私としても横浜市が、これから世界の横浜市として周囲から見直してもらうようになるためには、本当の知恵が働く組織であって欲しいなと思います。

 

〈蓑原敬〉

 おっしゃるように、非常に数少ないですよね。例えば小布施の宮本さんとか、三春の大高さんとか例がないわけではないんです。優れた首長さんと優れた建築家なりが組んでやったというのは非常に少ない。それは、基本的に言うと、我々日本人がそういうことについての関心度が薄い、ジャーナリズムも含めて。それが一番端的に表れているのが、今度のオリンピックの国立競技場問題じゃないですか。あんなおかしなドタバタになったのは、槇さんという世界的な人が超然として静かに闘い続けた結果ではないですか。でも、今後、どうなるのか。だけど、誰が悪いとかいうより、我々自身のそういうことについての価値観をもう一度、再確認し直した上で、一社会人として、一専門家としてどう対処するべきなのかと反省するべきだと思っています。

そういう意味では、田村さんの業績とか、田村さんがやった、或いは田村さんと一体となって様々な人が関わってやった都市デザインの話を歴史的にきちっと正確に記録した上で、こういうことが何故、あの時代の横浜ではできて、他のところでできないのかということを、きちっと伝えることを是非やって頂きたと願っています。私は、最近の日本が文化的な価値の評価に関しては、随分、堕落した社会になってしまったと思っているので、今回のような企画は非常に貴重なものだと感じています。

 

〈鈴木伸治〉

 田村さんの時代はやはり専門家を活用するっていうのは凄く上手かった時代だと思います。高橋先生も、仙田先生もお越しくださっていますし、長島孝一さん、環境開発センターの、加川さん、二宮さんもいらっしゃっていますけれども、そういった専門家の人たちが横浜のまちづくりに長年関わり続けていたという事実もあるわけです。そういった意味では、単純に田村明のレガシーというよりは、田村明とそこにつながる人たちがつくってきたレガシーのようなものがすごく重要なのかなというふうに改めておもいました。今日、あまりコメントできなかったんですが、鳴海先生もいらっしゃっています。私自身本の中にも書いているんですけれども、田村明というプランナーが鳴海先生や松下圭一さんっていうような、その他岩波のグループの人たちと親交を持ったこと、やはり単なるプランナーというよりはポリシーメーカー、政策の研究者と非常に強く繋がっていたということが活動の幅を広げた背景にはあると思います。その部分については十分に議論できなかった部分もありますので、また何かの機会に、そういったことについても考える場を設けられればというふうに思います。非常に拙い司会で、かなりオーバーしてしまいましたが、これで鼎談の方を終了させて頂きたいと思います。改めてパネリストの皆様に拍手を頂ければと思います。