会場からのご意見
<五島>
それでは、当時すでに企画調整室で仕事をされていて、高速道路そのものは担当されておりませんが、土地利用調整などの仕事で活躍された廣瀬良一さんがお見えになっておりますので、今日の総括の攻め方は違うよとか、あるいはここを攻めていったらもっといい研究ができるというアドバイスとか、あるいは間違っていることをご指摘いただければと思います。
<元企画調整局 廣瀬良一さん>
みなさん、こんばんは。廣瀬でございます。今の田口さんのお話、私も今から考えますと40年近い歳月が経過しておりますけれども、昨日の出来事のように聞かせていただきました。実は私は田村さんの横浜市在職期間11年のうちの10年、田村さんに仕えさせて頂きました。今、大テーブル主義で、あそこ(スライド)に人の絵がありますが、ちょうど田村さんの向かいぐらいに座っているのが私だったかと思います。田村さんは横浜市の全てのことに関わっていらっしゃいますが、田村さんが横浜市のなかで関わられたのは、大きく分けて3つの柱でございました。1つ目がプロジェクト、2つ目がアーバンデザイン、3つ目がコントロール。私は実はそのコントロールの方でございますので、今日の田口さんの話はどちらかというとプロジェクトの方に属すると思いますが、そちらの方は直接的には関わっておりませんでした。私は実は建築職でございますので、道路は土木屋さんの範囲でございます。しかし、大テーブル主義の中で、高速道路がどんなふうに進行しているのか、そんなことも隣の人の説明あるいは報告によって、ある程度は聞いておりました。そんなことで、これから田村さんのことを研究されるようでございますが、私ができるのはそのプロジェクトではなく、またアーバンデザインでもない、コントロールの方の分野から田村明さんの功績を語ることはある程度できるかなと思っておりますので、今後の研究の中で私が何ができるか分かりませんが、できるだけ私の記憶とそれから若干手持ちに資料等もございますので、そんなものを活用していただければと思っております。どうぞ、皆様またよろしくお願いいたします。
<五島>
ありがとうございます。それではですね、今日、東京の方からまちづくり協会の井上さんがお見えになっておりますので、また東京の方でも色々な研究進められているということですので、ちょっと今日の感想、あるいは東京での活動をご紹介いただければと思います。
<まちづくり協会 井上正良さん>
今ご紹介いただいた井上でございます。私がしゃべるのもどうかと思うんですけれども、まあ2、3お話しさせていただきたいと思います。1つは、私どもまちづくり協会は「田村明研究」、名前はまだ仮称なんですが。そういう研究会を立ち上げました。その中で、最初の五島さんのお話にもありましたように、都市デザイン・アーバンデザインというのは田村さんのアーバンデザインというのが横浜というの抜きには語れないというのがよく分かっている。分かってはいるのですが、私どものまちづくり協会としては、横浜が人口圧力にどう対応しているか、どのような形で進められた状況があるか、あるいは人口減少社会、色々な取り巻く状況、変わってきた。そういう中で、やっぱりそれでも田村明さんを中心に横浜で展開された都市デザイン・アーバンデザインというのは今のまちづくりに重要な単目ではないか、そういう発想で始めました。従いまして2月に、第2回目として、先ほどのお話にありました横浜市立大学の鈴木伸治先生にお願いして、鈴木さんはかなり、われわれと近い感覚で、私は田村さんが法政大学時代に10年くらいお付き合いしましたけど、たぶん鈴木先生はほとんど、直接お付き合い無かったかと思うんですが、そういう中で研究し、まちづくりの中で、あるいは都市ヨコハマにどういうふうに継承していくのかということを今やっておられますので、そのお話をぜひお伺いしながら、まちづくり協会として一緒に議論していきたいなと思っています。
あと、後半はちょっと個人のお話を。そういう観点から言いますと、先ほど、田口さんがおっしゃった科学的・客観的というのがちょっとひっかかる。というのは科学的・客観的というと私の解釈なんかでいきますと、田村明さんが生前おっしゃっていたのは、田村明がいたからできたんだという物語にしないでくれということを何度もお話しされていて、田村明さんご存命の頃の現代まちづくり塾のメンバーは何らかの形で話を聞いた記憶がございます。従いまして、田口さんがおっしゃるのも当然だと思って、物語としての都市デザイン、場のデザインというのを科学的・客観的に検証していく、そういうことをぜひやっていただくことが、最初にまちづくり協会で田村明さんの思想・あるいは技術・そういうものを継承していきたいというのを大いに支えていただけると思って、ただ、今ちょっとお話をお聞きしたんですけれどもいわゆるまちづくり協会のスタンスから言いますと、個別具体の物語と、今出ているここにいたる「中間」が実は大事じゃないかと思うんですね、そこで計画論として、ある程度客観的にできるアクター、市民。商業者の方が反対してたなんて話は今初めてお聞きしたんですけど、そういうアクターがどんなふうな役割をし、動いたのか、あるいはこれはもちろん国の建設省・それらの役所、あるいは先ほど詳細に報告してもらった期日計画論としてそれをどういうふうに支え、それがどういうふうに阻害したのか、そのようなあたりをですね、もちろん4人の方だけでは無理なので、私どもも可能であればぜひ、何らかの形でお手伝いさせていただきたいと思ってますけれども、個別具体の物語とここに至る実は中間のところですね、そういうものを今、特に地方都市、衰退してきている地方都市で、専門家、あるいは大学の先生、あるいは当事者、市民の方々、悪戦苦闘しているなかで、やっぱり何か田村明さんを中心に、横浜で展開されたことを科学的という言葉がいいか分かりませんが、なんらかのモデルをといいますか、証拠としてぜひご一緒にまとめていくことに、まちづくり協会としても側面からですけれどもお手伝いできればありがたいなと。それで、ご一緒にディスカッションしたいなと。というふうに実は田口さんたちとは半年くらい前からお話し聞いてましたけれど、我々のまちづくり協会ではそんなことを用意していたということをご報告させていただきます。以上でございます。ありがとうございました。
<五島さん>
ありがとうございます。まだまだ確かにジグソーパズルのパズルが抜けているところがありまして、各アクターあるいは各プレイヤーといっていいですかね、そこの関係まだまだ分析できていないところがあるかと思います。すみません、あの田口報告のところに非常に関連のある寺澤さんお見えなので、道路の専門の寺澤さんから見ると、何お前らやってるんだ、もっとここを押さえなきゃだめだという所もあるかと思いますので、ぜひ寺澤さんから、ご感想、あるいはご意見頂ければと思います。
<元道路局長の寺澤成介さん>
寺澤と申します。僕は昭和48年に横浜市に来ましたので、今の話の後ですね。感想というわけではないのですが、ちょうど僕が関わったのがちょうどそこの花園橋で、最初にランプで供用開始。あそこ終点で部分供用したんですね。あの高速道路。その時にあそこの交差点がパンクするということで、あそこの交差点の設計に関わったりはしました。そういうことで今日聞いたお話で、たぶん田口さんが客観的・科学的という言葉使われるのはたぶん当時、ストレートに言いますと、道路局は反田村的ムードが強かったというふうに感じます。だから結局、この会が田村さんを持ち上げるような回にならないようにという気持ちがたぶん立神さんなんかにはあったんじゃないかと思いますね。そういう意味で、田口さんが客観的にとか科学的にという言葉を使ったんじゃないかと思いますけど、ぜひあの冷静に当時を振り返ってもらって、特に僕も計画管理なんて言葉、土木なんですけれど、やってきた中で、一番不満だったのは、まあ自分もできなかったわけですけれど、計画は継承というのをほとんどやってきてなかったんですね。そういう意味で今回、継承するというのは、まあ田村さんの評価がどう出るかは別としましてね。非常に意味があると思ってますので、ぜひ頑張ってやっていただければと思います。時々、聞きに来させていただきたいと思います。
<五島さん>
ありがとうございます。ぜひこれからもアドバイスよろしくお願いします。先ほどまちづくり協会の井上さんからお話しいただきましたけれど、横浜でも実は、横浜まちづくり塾という所がありまして、ここで今日のテーマと関連する研究もされております。まちづくり塾の真矢さんの方から感想と、街づくり塾が何をやっているのかというのもお話しいただければと思います。
<横浜まちづくり塾(田村塾) 真矢正弘さん>
こんばんは。真矢と申します。実は今、用意してみなさんのお手元にあれば非常に分かりやすいのですが、帰りに持って帰っていただきたいと思いますが、自主講座の横浜まちづくり塾、通称「田村塾」というのを13年やっております。そもそものスタートが2001年4月からですね。田村さんが横浜市で行ってきた仕事についてのお話を聞いてきました。それで私が関わったのが前年の2000年くらいからなんですが、ちょっと個人的なお話をすると来年が横浜市民になって40年になるんですが、長らく東京に勤めていわゆる横浜都民という存在で、ただ横浜に来まして地域でいろいろ住民運動をやっている中で、たまたま地元で財団法人横浜市政調査会をやっている常務理事がいて、その方と知り合いになりまして、住民運動やっているんで、その田村さんという人がですね、色々と活動を振り返る塾をやろうということで、真矢君仕事手伝わないかと誘われて、それが縁で、横浜まちづくり塾の前身で実践まちづくり塾というのを立ち上げました。私は編集者なもので、わりと科学的というより実践的にというところがありますけれどね、物事をある程度、総合的、包括的にまとめていろいろな物事を調整する、そういうのは仕事に通じる部分もあったので、田村さんの話を聞くベースにしつつ、あるいは他のまちづくりというのも横浜のまちづくりの過去、現在、未来を展望すると、長々とそういうテーマでやってきましたけれども、そういう中でまちづくり塾をやっていますと。ただ横浜市政調査会という財団法人が解散してしまったために、50回で田村さんのお話は中断しまして、あらためて現代横浜まちづくり塾という名前でもって、2007年から始めまして、今日お手元にお配りするのは田村さんのお話し以降ですね、2010年からどんなことをやってきたかと。これは全部、横浜のまちづくりを田村明さんの仕事をベースにしつつ、今、現在どういうことが課題となっているか、今後どういうかたちでもって横浜のまちづくりというものを考えたらいいかという勉強会になっております。
実は明日もまた、12月の例会があるんですけれども、まあ思い起こせば田村さんがお亡くなりになったのが、2010年の1月でして、その前年の2009年の12月17日に最終講義を横浜まちづくり塾ではお話をいただきました。これから田村明研究会がですね、かつての仕事をベースにして、それをあらためて検証すると、もう一つそれを踏まえたうえで、今現在横浜のまちづくり、あるいは東京のまちづくりも含めた日本のまちづくり、都市開発というのはどんな現状にあって何が課題かということを引き続き勉強していきたいと思いますので、相互に補完し合ってですね。私実は先月、東京の日本橋川・神田川を初めて船で2時間ぐらい回りました。横浜と比べて、今いろいろ議論があって問題となっておりますが、東京の高速道路がいかに東京の街を無茶苦茶に崩したのかをあらためて見てきました。横浜の高速道路というのもある意味では街の上を走っている部分もありますけれども、それにしても東京ほどひどくはないですし、それに関しても今日勉強することができました。引き続き勉強していきたいと思ってますのでよろしくお願いいたします。
<五島>
どうも、ありがとうございました。それではですね、内藤恒平さん、やはり田村明さんから横浜まちづくり塾等で教えを受けていた、内藤さんから今日のお話の感想をお話しいただければと思います。
<赤煉瓦ネットワーク 内藤恒平さん>
横浜まちづくり塾、赤煉瓦ネットワーク、それから自治体学会ですね、そういうことを通じて田村さんから大変多くのことをお教えいただいたと。それから田村さんの著書を読むことでですね、色々お教え頂いたということです。直接、仕事で関わりはなかったんですけれども、今田村さんが教えておられた法政大学で、みんな笑うんですけれども、地方自治論という講座を非常勤講師としてやらせていただいております。半分くらいが田村さんのおやりになったまちづくりの話で、田口さんたちが精緻に調べたんだなと。田村さんの著書ほとんどは読んでおります。それを組み合わせたり、実際に場所の写真を撮ったり、色々歩き回ってですね、それを15コマの授業に仕立てていくという作業をしております。
その中で感じますことは、田村さんのまちづくりのメッセージがですね、実際のものだけではなくてですね、やはり田村さんの著作や言葉に残っているなということでして、私たちの1年後だと思うのですが、入庁された企画調整局の職員にですね、田村さんはこういう言葉を言われております。「金銭ではなく、名誉でもなく、勇気を追い求めよ」というお話をされたそうです。それをこの間、法政の授業で学生たちに問いかけまして、そうしますと、学生にリアクションペーパーを必ず書いてもらうんですけれども、そのリアクションペーパーで返ってきた言葉の中に、田村さんの「勇気を追い求める」というのがどうもよく分からないと。それは、今テレビドラマで流行っているような上司に仕返しをするような、ああいう勇気なのかという問い合わせがありましてですね、その人は本当は分かっていて、分からない人のためにそういう質問をしてくれたのではないのかなと思ったんですが、もう一つリアクションペーパーがございまして、「金銭でもなく、名誉でもなく」というのは社会に対してそういうふうにしていこうと言っているけれども、拙いですが内藤の話を聞いて、「勇気を追い求めよ」というのは人のためにですね、自分の思ったやりたいことをやる、そういう勇気を求めていこうということだと思うと、回答が、リアクションペーパーにございまして、その子はもう、すぐに優の上をあげたいなと思ったんですけれども、まあ様々な田村さんをはじめとして、横浜市や様々なポディションでおやりになった方の話を伝えていくとですね、それがまた1つあたらしい発見につながっていく、それから若い人のものを考える力につながっていくと思いますので、私も拙いながら授業等の反応などをですね、みなさんにお伝えしながら、田村さんのことをもっともっと知っていきたいと思っております。田村さんと一緒にお仕事をなさったまちづくりのことをですね、勉強させていただきたいと思っております。今日はどうもありがとうございました。
<五島>
もうひとかたですね、今日取り扱った時代より前の横浜の都市形成の歴史を展示しています横浜都市発展記念館の青木さん。研究者の目から見てですね、アドバイスあるいはご感想等をいただければと思いますので、よろしくお願いします。
<横浜都市発展記念館 青木祐介さん>
横浜都市発展記念館の青木と申します。すぐ近くの日本大通りにあります施設ですけれども、私ども2003年に館がオープンしてですね、ようやく10年になろうとしている訳ですけれども、その10年の間にすでに歴史の対象というのが、高度成長期までやってきたということで、非常に痛感しておりまして、また当館のほうでも戦後の時代というのを対象化していかなければならないということを職員一同やりはじめたところ、今回こういうかたちのお誘いを頂いて、今日は参加をさせていただきました。私は一度だけ、先ほど真矢さんがお話しされていた、田村塾で私の拙い研究をお話しさせていただく機会があって、その時に初めて田村さんの隣に座らせていただいて、飲んでという機会がありましたけれども、ほとんど私の方ではですね、本の中で知る田村明という世界だったわけです。こういう形でそれまでの田村明ストーリーをもう少し細かいレベルから、当時の方々のお話をもとに再構築していくという場がこうして始まったということに私自身も非常にワクワクしておりますし、ぜひ当時の方々のですね、お話の積み重ねによって新しい横浜の戦後史というものが見えてくるんではないかな、ということで非常に期待をしております。これからも勉強させていただきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
<五島>
どうもありがとうございました。大変な強引な進行をやっておりまして、今日はまだご意見発表したいという方、沢山いらっしゃると思いますが、そうすると時間がなくなってしまいますので、ぜひホームページの方にですね、ご意見をお寄せいただきまして、それを我々ホームページの上でご紹介していきたいと思います。また我々の方もそれに対する考え方を出していきたいと思います。できれば、一緒にホームページだけではなく、今後の研究会にもみなさんご参加をいただければと思います。