「都心部の高速道路地下化に至る組織的決定の構造と田村明」 (田口俊夫)

高速道路
横浜駅東口の高架高速道路

 

 今日お話させていただくのは、高速道路の地下化のお話です。高速道路そのものはどこにあるのか、そもそも地下化とはどのことを指すのか、またそこに至る経緯はどのようなものであったのかということを整理して細かくお伝えしていこうと思います。

 

Googleマップより
Googleマップより

 

 地下化された高速道路はそもそもどこを通っているのでしょうか?皆さん、ほとんどの方が羽田空港もしくは成田空港をお使いになったことがあるかと思います。横浜駅東口のY-CAT(横浜シティエアターミナル)から空港に向かうバスに乗るとちょうどみなとみらいのあたりで地下へと潜っていきます。そして、潜ったものがちょうど石川町の駅のところで地上に出てくる。高速道路の地下化とはわずかそれだけの区間のことを指しています。ただ、現在地下化されているこの区間が、もしかしたら高架の道路になっていたかもしれないということです。このGoogleマップでオレンジ色に見えているところが高速道路です。横浜駅からみなとみらいを通り、石川町、そして地上に出てベイブリッジを渡り、羽田・成田へと至るこの道路です。そして今は、中村川の上にも高架道路が通っています。この道路が狩場のインターへ行き、第三京浜とぶつかる。そして最終的にはここから東名高速道路へとつながる。これが横浜市の高速道路網の今の姿です。

 

 『都市プランナー 田村明の闘い』(2006年/学芸出版社) ―この本には、都市の景観を守るため、美しいまちをつくるために高速道路を地下化したということが書かれています。そして、それを考え、実践したのは田村明その人である、と。我々も田村明さんから直接、そのようなお話を聞いた記憶があります。我々は固く「高速道路の地下化を考え、それを実践したのは田村明さんだったんだ」と強く思ってきました。ただし、この本の中には、飛鳥田市長の強い意向があり、それを受け止めて田村さんがおやりになったと、そういった書かれ方はされています。したがって、飛鳥田市長の意を解して、身を挺して田村さんがおやりになったのだと、企画調整室長をお勤めになる田村明さんがそれを演出されたのではないかと、我々はそう思ったわけです。


 それから、高架というのは地下よりも費用的には安い訳です。どのくらい違うかというと、地上につくるのが1とすると、高架でやった場合はその2倍、地下にした場合は3倍だと、ある道路技術者の方はそう言われています。そのため、当時は高架の道路が主流でした。それは、安く・早く高速道路をつくらなくてはならないという時代の要請があったからです。したがって、高架道路の建設というのを当時の道路部門の方々が推進されていて、その流れを田村明さんが変えたのだと思っていました。しかし、現実はそれほど単純な話ではなかったようです。

環境開発センターによる提案図
環境開発センターによる提案図

 

 田村明さんが横浜市に提案された六大事業の報告書というものがあります。そして、その中に「横浜中心部の高速道路計画」という提案書があります。この図には、はっきりと高架の高速道路が描かれています。これは1964(昭和39)年12月、横浜市に対して飛鳥田市長の要請を受けた環境開発センター(田村さんがそのプロジェクトの実質的な責任者でした)が提案した計画図の一部です。田村さんは都市景観を大事にしたまちづくりというのを強く言われていました。しかし、この昭和39年の提案書ではこういう形で高架道路が提案されているわけです。

 この事実を知り、我々は大変驚きました。そして、自分たちは何も知らなかったのだということを自覚し、もう一度しっかりと調べていこうと思ったわけです。この研究会は、客観的かつ科学的に調べる、そして理解する、という姿勢で進めていこうと考えています。田村明さんは非常に多くの本を書かれています。しかし、それらはご当人が書かれたもので、主観的な著作物です。田村明さんの主観的な記述を我々が客観的かつ科学的に分析して、同じであることを確かめる。あるいは、それが違っていれば、なぜ違っているのかを考える。それが研究だと思っております。そして伝えるべきものを正確に伝えていく、それを我々は今後1つの使命として進めていきたいと思っております。

 我々はこの話を調べるために、当時この件に関わった方々のお話を聞いてみることにいたしました。ただ、その前に我々としては分かる限りの色々なデータを調べる必要があります。年表もつくりました。高速道路というのは1938(昭和13)年に山田正男という内務省の人間が発意して始まっています。この時、すでにアメリカはモータリゼーションの時代です。それから、昭和39年の田村明さんたちの提案書。そして今現在の高速道路という長い歴史があるわけです。これらの歴史を踏まえたうえで、当事者の方に我々がまだ窺い知れない点はどのようなものでしょうか、とお話をお聞きするわけです。

参考資料

 

 『横浜=都市計画の実践的手法』(1978年/鹿島出版会)―これは横浜市のまちづくり全体を取りまとめた企画調整局の10数年の歴史をまとめたものです。このなかで、高速道路の地下化について当時の担当者である長谷川尚男さんが概略的な内容を2ページほど書かれています。また、当時の道路局の担当者である立神孝さん、その後道路局長、技官等を歴任し、現在は横浜市を退任されています。その立神さんが書かれた高速道路地下化の経緯と当時の大変さをまとめた論文も別のところで見つかりました。

 高速道路の地下化自体は皇居周辺、あるいは東京駅の前などで当時すでに行われていました。しかし、横浜は、空襲・接収で東京と比べ相対的に地位が低下しており、横浜は高速道路の地下化が必要とされるような状態ではありませんでした。田村明さんもそういった状況をみて、地下化ではなく、高架方式で提案されていたのでしょう。ただ、この提案書では、すべて横浜の関内デルタ―大岡川、中村川、そして、実は山下公園のところにも高架の高速道路が通る計画案が示されています。その通りにできていたら、横浜の景観は現状とかなり異なるものになっていたはずです。

 

昭和43年2月の都市計画決定図
昭和43年2月の都市計画決定図

 

 高速道路の計画は、田村さんたちが横浜市に提案されてから数年の間に、横浜市・建設省・首都高速道路公団等々の道路関係者の協議によって、どういう形で横浜に高速道路網をつくるのか、検討がなされていました。もともとは高速道路がすべての河川の上を通る大環状線というかたちになっていたわけですが、この検討を踏まえて最終的には、このかたちに落ち着きました。現在の大通り公園、吉田川という運河の上を高速道路が通り、これが最終的に狩場町の方に行き、東名に結ばれていくというルートです。河川の上をぐるぐると回る道路が、吉田川の上に1本集約された、非常にすっきりとした案です。

 このかたちで昭和43年2月16日、都市計画決定と事業決定がなされています。ちなみに、この時点では田村明さんは表舞台には出てきません。というのは、六大事業を提案し、横浜市に昭和43年4月に入庁する以前は、この高速道路問題に田村明さんが関与した形跡が無いからです。ただし、それ以外のいくつかの調査報告書を環境開発センターで受託し、作業されていた形跡はあります。例えば、大通り公園をつくり、緑の軸線をつくっていくという計画の立案、将来的にはそれを実施していくべきだという提案は、横浜市に入る以前から田村明さんはされています。

 この最終決定案に、一番反対していたのは飛鳥田市長です。飛鳥田市長にとっては、伊勢佐木町、馬車道、関内駅、市役所があるこの場所が横浜の顔であるわけです。この時、根岸線はすでにできてしまっていますが、さらに大きな万里の長城ができることに対して、飛鳥田市長は強く反対しています。ただし、技術的・費用的に変更は難しいという技術部門の意見を最終的には聞き入れ、高架形式を承認し、昭和43年2月の都市計画決定を受け入れたということです。

 ただし、それに対して伊勢佐木町・馬車道といった地元の商店街は大反対し、昭和43年2月29日、市会に陳情をします。万里の長城が二つになってしまうというわけです。高速道路は国鉄の高架を飛び越えなければならないので、下手をすると1.5倍くらいの高さになってしまう。それができてしまうと、この都心部の分断が非常に強まってしまう。大変なことになると危機感を持ったわけです。そして、そういった状況の中で、4月に田村明は横浜市に入ることになるのです。新聞報道などはされていたものの、その時点まで、高速道路の問題がそれほど大変なことになっているとはご存じなかったのではないのでしょうか。

 

       ・現在の根岸線高架             ・高架高速道路が建設された場合の予想図
       ・現在の根岸線高架             ・高架高速道路が建設された場合の予想図

 

 我々はこう考えていました。市役所に入る前に、あの田村さんなのだから、飛鳥田さんを上手く動かして反対をさせ、この計画を覆すことを考えたのではないかと。しかし、それは違うようです。横浜市に入って、これは大変だという状況に遭遇した。そして飛鳥田市長が待ち構えていたかのように、「田村さん、あなたにこの仕事をやってもらいたい。」そうお願いしたのではないかと思います。高速道路を都市計画決定したものを覆すというのは、当時の発想ではあり得ないことです。それを変えさせる。しかも、よりお金がかかる案に変えるというのは大変なことです。こうして4月から、田村明の地下化に関する調整が始まります。

 田村明さんにもこんなに難しいことを成功させる勝算は、たぶんなかったでしょう。しかし、経験はありました。環境開発センターの時代に本四架橋、本州と四国を結ぶ長大橋、その計画をおやりになっていました。したがって、道路計画に対しての経験はおありだったと思われます。また、人脈もありました。田村さんは東大卒業後、運輸省、短期間ではありますが、その他の省庁を渡り歩きました。当然東大、特に法学部の同輩や先輩が国の省庁にいた可能性はあります。その人脈は持っていたはずです。そうした状況の中で、これは可能とはいわないまでも不可能ではないだろうと思っただろうと思います。そして、この調整作業が始まった訳です。

 さらに、この作業は企画調整局ができたばかりの作業です。しかし、企画調整局が一丸となってやったわけではないようです。当時、長谷川尚男さんが計画局の係長でした。ただ、彼は道路計画に長年携わってきました。そのような経験を踏まえ、田村明さんは長谷川尚男さんを部下、技術的な補佐役として据えたわけです。そして毎日のように建設省に通いました。ほとんど毎日なので、昼はいつも建設省の食堂で食べていたと言います。
一方で、実は道路局の人たちも、地元の人たちから反対が出た時点で「これはやばい」と感じていました。都市計画決定はしたけれども、地元の反対が相当強い場合には、工事が着工できません。そして、反対の声が伊勢佐木町という関内の大商店街から出ています。さらに、それを支持する政治家も関与しているわけです。これは簡単にはできない、事によると飛鳥田市長が言うところの地下化を、やはり検討しなければいけないかもしれない。そう思ったようです。立神さんは「あの地下化の話は全部僕らが、道路屋がやったんだよね」と言われていました。たぶんそれは、嘘ではないでしょう。一方の長谷川さんに言わせると、「いやいやあれは我々だ」これも嘘ではないはずです。どちらも嘘ではない。ただ、道路部門としても期間をもって色々なことを検討した、そういった形跡がみられます。

 

 

 関内地区があり、関外地区があり、東京方面から来て、横須賀方面に行く。そして狩場の方に行く。も横浜のもともとの高速道路の計画図では、真ん中の矢印以外の全部の矢印があります。

 

 

 そして、それを集約化したのが、都市計画決定されたこの形になるわけですね。ところが、都市計画決定された図面には、あるべきはずの吉田川上空を通る高架の線がありませんでした。これは計画決定されていなかったということです。ただし、ある前提で話が進んでいました。そして、田村さんが入庁する4月までに調整があり、建設省も地下化を検討するという話になりました。これで一応は横浜都心部の高速道路のルートは完成する。これでいいじゃないかと。東京と横浜をつなぐものは完成したという話になるわけです。

 

市営地下鉄 路線計画図
市営地下鉄 路線計画図

 

 しかし、高速道路の地下化にはまだ問題がありました。それは、高速道路を地下化するためには、地下鉄の建設計画も変更する必要があるということです。もともと根岸線の高架の下には、平行して運河が流れていました。ここを地下高速道路とすると、高速と地下鉄路線が競合することになります。同じ市役所の中でなぜそういうことになるかというと、道路は道路、地下鉄は地下鉄、公園は公園、と各部局でバラバラにやっていたからです。同じところでも上に高速、下に地下鉄を入れればいいような気もしますが、それはなかなか技術的に難しいことでした。結果的に、地下鉄の関内駅は伊勢佐木町の入口ではなく、尾上町の方に設置されました。地下鉄の工費としても運河を利用する方が安く済んだのでしょうが、関内では普通の道路の下を掘削してルートを整備しました。

 こうなると、内陸部方面へのルートが大きな焦点となってきます。我々もどこが建設省とのやりとりの大きなポイントとなっているのかが分かっていませんでした。実はもう1つの大きな課題は、横浜の港湾物流、これを東名高速とつなげるという点だったのです。


 これには、根岸の掘割川の上に高速道路を通して、大回りして内陸部につなげるという話もありました。しかし、その案は二つの理由から却下されました。1つは道路技術論、あるいは交通計画論的観点から見て、このルートでは、港湾部で発生する交通量をさばききれないという理由からです。そしてもう1つは、首都高としてできたものは首都高のまま、東名高速につなげてほしいという理由からでした。高速道路には所管が二つあります。1つめが首都高速道路公団、これは建設省の都市局の所管です。2つ目が、日本道路公団、これは同じく建設省ですが、道路局の所管です。そして、どちらが湾岸道路を所管するかは当時、まだ決まっていませんでした。湾岸道路を日本道路公団が所管することになると、このルートを日本道路公団が管理することになってしまいます。ちなみに、第三京浜は当時日本道路公団の所管となっていました。したがって、これらの高速道路は一貫して、首都高として整備してほしい、という思惑があったようです。

 

 

 そして、最終的には中村川の上を通す案に決定しました。これは飲むしかなかったと田村明さんも本に書かれています。このあたりの川は、上流はすべて大岡川なのですが、元町の部分は堀川といいます。その住民説明会のとき、道路の担当者が口を滑らせて、元町のここは都市の周辺だからと言ってしまい、住民は激怒したそうです。伊勢佐木町は中心で、元町は周辺かと。しかし、技術論としてここを含めてすべて地下化することはできなかったでしょう。立神さんによると、まだ流れている川の下に縦方向に道路を通すのは不可能に近いとのことでした。

 

計画変更後の図面
計画変更後の図面

 

 これは現在の高速道路を表した図面です。この図面は田村さんの著書に何度もでてくるわけですが、最初の図面からこの図面に、田村さんの本ではパッと飛んでしまうわけです。その間若干の調整ごとの説明はありますが、全体の話がよく見えないのです。どういう力学で、どうしてそうなったのか、ここに至るまでの経緯が今回、ほぼ明らかになった気がします。

 

Google Earthより
Google Earthより

 

 これが今の航空写真です。根岸線に平行する部分が半地下になっていますね。そして、石川町のあたりから地上に出てきて、ここにインターチェンジがあるわけです。このインターチェンジとほぼ同じ大きさのものが関内駅の裏側にできていた可能性があります。インターチェンジというのは非常に大きい物ですね。

 

地下化の経緯

 

 われわれが理解していたことはせいぜい、この程度の話です。昭和39年12月の六大事業の提案、それから、昭和43年2月の都市計画決定、そして、昭和43年4月に田村さんが横浜市に入ったと。そして、スーパーマンのように調整をして、翌年の3月には建設事務次官と会談して地下化を決定したと。わずか一年でやり切ったねと。しかし、どういうふうにこれをやったのかというのが実は分からなかったわけです。ただし今回、このように間が埋まっていきました。もちろん、まだまだ細かいことがこの間を埋めていくことになりますが、今回このようにまとまったということです。

 

  昭和44年の5月には都市計画決定の変更がめでたくなされました。われわれはこの流れの中から何を学べるのか。ちょっと工夫して、こんなものをつくってみました。やはり、これは組織の行動原理が変わったのではないかなと思っています。つまり、この事例を通じて、自治体の自立と横刺しの調整がなされたと。このピンクの丸は建設省です。水色が横浜市。じゃあ二つのツリーの間にいるのは誰なのか、あくまで一つの事例とお考えください。高速道路をつくっているときの道路局ということかもしれません。

 

 この黄色の丸が田村明さん。水色のツリーの一番上にいるのが飛鳥田市長です。そして、ツリーの下の部分を横串にして、現場の人たちの喧々諤々の議論のなかで技術的な可能性を徹底的に洗い出し、議論したと。そういうことが当時あったようでございます。それを経て、上のほうでもつながっていく。まあこの逆をやろうとしてよく失敗する政治家がおられるのですが…。上の方で話をつければ、まあ現場は動くだろうと。しかし、なかなか世の中はそういうふうにはいかないようでございます。

 

 そして、めでたく赤が水色になったと。こういうふうに横浜市としての一体性を構築していったのではないかと思っております。

 もう一つ、情報の共有化をすることで、新たな動きをつくっていく。これが企画調整局の大テーブル主義という言い方をされます。しかし、これは企画調整局に限らず、当時の横浜市には担当者を含め、局長を含め、喧々諤々の議論を職位に関係なくできる雰囲気があったのではないかと思っています。私が市に在職していた時、まったく平の担当者でしたが、道路局にも行きました。立神さんは当時部長だったかと思いますが、大部長でしたね。しかし、私なんかがいっても話を聞いてくれる。職位に関係なく、市の職員として情報を共有し、そして、新たな方策を共に考える。主体性をもち元気な「チーム横浜」へと発展していったのではないのかなと思います。われわれが学ぶことは、この二つ。まだあるかもしれませんが、今後研究をするなかでさらに学べるものが出てくるかなと思っております。どうも、ありがとうございました。