「横浜の用途別容積制度の誕生、緩和、廃止、そして今」(内藤淳之)
内藤です。よろしくお願いします。今、田口さんが話されたことは大体間違いはないと思うのですが、廃止が残念だったというところのニュアンスは少し違います。このことについては後から話します。
1 アメリカのゾーニングの影響
私がゾーニングについて勉強していたころ、外国のゾーニングについて調べていました。日本の新都市計画法はアメリカのゾーニングを取り入れ、用途地域が4種類から8種類に増え、容積率が導入されましたが、ボストンやニューヨークを調べると非常にきめ細かい。48種類くらいとかものすごく多いのです。ボストンやニューヨークに行き、現地で調べるとまちが急激に発展していない。ある時期までに用途混在のまちづくりが進み、それが既得権的になっていて、それを合法化するためにはきめ細かくしないと地域のゾーニングの整合性が取れないと思った。
横浜市に就職し、線引きと用途地域指定変えという機会に恵まれました。そこでこれまでに学んできたことを反映し、この住居容積率を使ってきめ細かくコントロールすれば地域の環境をコントロールする手法になるのではないかと思いました。
2 人口抑制策の一環としての住居容積制度
当時室長だった田村さんと相談しました。都市計画法のゾーニングではなかなか効果が薄いかもしれないし、横浜市の現実を見るとマンションがめちゃくちゃに建ちそうで、磯子駅前地区の例もあったようにマンション開発をある程度コントロールしないといけないという状況でした。当時、横浜市は人口が急増し、公共施設がもたないという強い危機感が飛鳥田市長以下にありました。なんとかブレーキを掛けられないかということの一つとして住居容積制があったのです。その他、(全市の)25パーセントの調整区域指定、宅地開発要綱の導入など人口抑制をできることなら何でも取り組んでいました。これらを地域・地区制度の総合的活用と言っていました。例えば高度地区を利用するというのも一つの方法だし、全体の容積率を低く指定することで人口抑制になるだろうとか、その他、風致地区を増やそうとか。高度地区については工専地区以外全市にかけるなど、乱暴じゃないかと言われながら地域地区制度のありとあらゆるものを使って人口抑制と開発抑制に取り組んでいたなかで住居容積制度が出てきたのです。
それでも当時年間10万人くらいの人口増があり、最初の悲鳴を上げたのは学校問題でした。飛鳥田市長も二部授業はやめようと言い、規模を小さくしても学校をつくろうということで、1haという規模の小さい学校をつくりました。これは文部省の基準からすると半分くらいになると思うのですが、ものすごく小さな学校をつくらざるを得ないということだったし、プレハブの学校や磯子駅前地区では公団住宅の1階に分校をつくったりという大変な状況だったので、とにかく急場をしのぐためにどうすればいいのかということが一番強かったと思います。
そういう中で用途別容積制度は人口抑制の決定打かどうかはわかりませんが、やれることはやろうということの一つでやりました。
3 住居容積を50%~200%にした理由
容積率は800%とか600%の場所がありますので制度上それを全部住居容積に使ってもおかしくないのですが、当時の状況を調べると極端に高いところは別にすると、住居で使っている容積は200%あればまかなわれているので、それほど制限になるようなものではないと考えていました。ただ市場経済から言うと、400%位ないと採算が合わないと聞きましたが。
日照の問題も大きくなりつつありましたが、200%を超えると相隣関係が厳しくなってきますね。
ボストンやニューヨークはかなり密度の高いまちだけど、そのなかで1~2階が商業、3~5階が業務、その上が住居という建物がたくさんありました。そうするとそういう制限をしないとゾーニングが合わないのですね。そういうミックスト・ユース、複合用途を認めるという方向で考えられていました。日本でもそういうことが必要なのだと思いました。ミックスを認めてもまちの活性化はできるだろうと住居容積率を下げたのですが、800%の所で50%しか住居容積を認めないと、人が住めるのかという意見もありました。そういう都心部の業務地域の中では、人が住むというより管理のために住む人がいるので、そういう人にも配慮が必要ということで50%は認めるようにしました。それから200%に向けて段階的に上げていくという、そういうスタイルの制度をつくりました。
4 住宅開発の一因は横浜市の政策
磯子駅前地区のマンション開発の例は400%位ありました。ただ、これらの開発の原因の一つは横浜市にありました。金沢地先の埋め立ての漁業補償として埋立地の一部を漁業者に提供しました。土地を提供された漁民は住宅を建てるしかなく、土地の最有効利用の結果、磯子のマンション群ができたのではないかと思います。
これが磯子だけの話かというとそうではなく、他の商業地域あるいは工業地域にも起こるだろうと考えるようになりました。 都心界隈から金沢地先埋め立てへ工場移転を進め、環境摩擦を少なくしようとしていましたが、工場の跡地は業務や商業の利用がされるのではなく、住宅が建つ。そうすると磯子と同じ結果になり、学校の需要が大きくなるので抑制したいという思いがありました。横浜駅周辺にもかなり工場がありその一部が金沢に移っていますし、保土ケ谷の大きな工場、捺染工場なども移っており、その移転跡地を住宅公団が買い、集合住宅を建てています。そう意味で住居容積率の制限は他の政策といろいろな意味で関連していました。
5 関内地区のまちづくり上の課題
後は事前に渡された質問への回答する形で話を進めます。
一番目は、昭和48年(1973年)当時、都心、関内地区のまちづくり上の課題をどのように認識していたのかという質問です。難しい話ですが、これは横浜の都心部は関内と(横浜駅)西口の二つに分かれていて、その相互の関係が取りづらい。この二つの核の一体化により都心機能の高度化が図れるのではないかという考え方あったのですね。関内、西口も地形を見ると楔の形になっています。この二つの楔をかすがいで結びつけると都心部の力が高まるだろうという考え方がありました。これは田村さんが環境開発センターにおられた頃からイメージされていたのではないかと思うのですが、私が市役所に入った時には「楔からかすがいへ」という言葉を聞いたことがあります。そしてかすがいの所にある三菱重工のドックを移転させ、都心機能を誘致すれば三つの核ができるわけです。このようにして外から都心機能を誘致することができるだろうという考え方ありました。都心・関内地区についてはそんな認識が強かったです。
横浜駅も東口と西口に分かれていて、当時、東口には相鉄本社くらいしかなくて、あとは海と高島ヤードです。東口から高島ヤード・三菱ドック・桜木町・関内をつなげていくと、新しい機能を誘致することができるのだと考えておりました。
6 企画調整の総合的なまちづくり戦略
次に当時の企画調整室に総合的なまちづくり戦略があったのかという質問です。今、言ったことも都心部強化事業という総合的な戦略の一つです。その他に港北ニュータウンをつくろう、金沢地先の埋立地に工業団地をつくろう、高速道路のネットワークをつくろう、地下鉄のネットワークをつくろう、ベイブリッジを建設しようという六大事業というプロジェクトを総合的にやっていくんだというまちづくり戦略があったと思います。
当時の横浜市の実力で六つの事業を同時にやれるのか、「こんな事業一緒にやれるのか」という声がありました。確かに横浜市の実力を越えているような事業だと思うのですね。一つだけ取り上げても横浜市の能力を越えているかもしれないのに六つもやっちゃおうというのですから相当な覚悟で臨まないとできないと思のです。そういうことの戦略・戦術を考える中心的な方が田村明さんだったんですね。企画調整室の部長として環境開発から来られて、私が横浜市に就職したときは二年目の初めだったと思いますが、とにかく企画調整室はてんやわんやで、一係長が一つのプロジェクトを任せられる。私は港北ニュータウンを任せられたのですが、とっても一係長に任せられるようなものではありませんでした。それぞれの事業はそれぞれ担当部署があり、港北ニュータウンでは港北ニュータウン部があり、高速道路では道路局に高速道路課があったり、地下鉄は交通局がやっていたり、金沢地先の工業団地づくりは経済局ですね。 都心部強化事業は考え方はありましたがまだ事業として緒についていませんでした。ドックの移転が進んでなく、私も田村さんと一緒に何度も三菱の人に会いましたが、なかなか進まなかったですね。協定をいくつも作り直して、少しずつは進んでいたとは思うのですが、なかなか進まない状況でした。最後に田村さんと助役と私で三菱重工に出かけていって、三菱重工の工場長他5~6人並んでいるところに行きました。工場の機能は香焼島(現長崎市香焼町)に移転開始をしていて、ドックの輝きは徐々には失われていたのですが、実際に移転するということには至らないという状況だったので、ものすごく大勢の人が出入りする中で調印式をやったことが記憶に鮮明に残っています。あの時の協定が移転するきっかけになったと思います。
ベイブリッジは私が横浜市に入った時、玄関の入り口に模型が置いてありました。今とは違ってゲルバー橋(トラス橋)というのですか、そういう橋の模型が置いてあって、こういう橋ができるのかという感じがしていました。だいぶ時間がたってから湾岸道路をつくろうという国の計画ができてきて、ルートがベイと一致したんですね。それで国の支援が得られることになり、急に加速度ついて、最後は(開港150周年)博覧会の最中だったと思うのですが、開通しました。
総合的なまちづくり戦略は六大事業と人口抑制、宅地開発抑制を合わせたもの、こういうものが総合的戦略だったと私は思います。
7 経済動向、社会変化の予測
三番目は経済動向や社会の変化をどう読み、どう予測したのかという質問です。ここら辺は私の弱いところです。経済動向は先ほどの説明にあったようにオイルショックによりそれまでの人口の急増と経済の拡大の動向が変化しました。特に読めなかったのは一世帯当たり人数の減少です。当時4人とか3.8人/世帯だったのでそういう数字を仮定してやっていたのです。ところが私が市役所をやめる頃は合計特殊出生率1.43位になって、ものすごく下がってきていました。そこで「人口増(児童発生)=学童増=小学校の不足」という構造が変わりました。これは女性の価値観の変化や男女共同参画社会の成果が出てきて、昔のイメージのような人口増にはならないようになってきたのだと思います。その辺は読めませんでした。現在、関内・関外にマンションがつくられてきましたが、昔ほどの危機感はないのではないかと思います。数字ははっきり押さえていませんが、マンション建設がすぐ人口増=学童数増に結びつくという状況ではないのではないでしょうか。
8 自治体の権限拡大
次に自治体の権限に希望は持てるのかという質問です。地方分権という考え方が強くなってきて、都市計画的なこともできるようになってきて、県から市に権限が移されるという流れになってきたので権限は拡大してきたと思のですね。それはいい方向だと思います。
ただ、権限さえ獲得すればいいかというと、かならずしもそうではない。権限には義務が生じてきて、それを発揮する土壌がないと、権限をもらってもできないということがあります。一番大きな問題は財源をどうやって確保するかということで、権限と財源がセットで付与されないと自治体は権限を有効に活用してまちづくりに役立てることができないという課題があります。対抗する手法を持てるのかという質問も出されていますが、対抗する必要性はなくて、要望してきた権限が拡大してきたのだから対抗する手法がないのではないかと思います。ちょっと思いつかないです。
9 住宅開発エネルギーと魅力的な複合都心
次の質問は住宅開発エネルギーを生かしつつ、魅力的な複合都心をどのように形成するかというものです。これは当時からもありまして、開発が即いけないことかというと必ずしもそうではないという認識がありました。住宅建設にしろ、宅地開発にしろGNPが伸びるので横浜市の税収が上がってくるのです。そういうことを考えると住宅開発のエネルギーはうまく生かすことが必要と感じていました。ですからむやみに住宅開発を規制するのではなく、利用すべきいいエネルギーだと思います。
それから魅力的な複合都心は、最初に言ったようにミックスト・ユースは都市の中でも魅力なんです。住宅一色とか、商業一色とか、業務一色とかになると、なかなか魅力が出てこないと思います。MM担当の時、三菱地所の人と議論したことがあります。「丸の内は立派な業務街だけど、土日はゴーストタウンではないか」と言った覚えがあります。単一機能でまちができると、まちの魅力が出てこないと思います。住宅があり、商業があり、業務があると24時間活動するまちになるので魅力が出てくると思います。様々な機能がミックスされていくと楽しいまちになる。先ほど1~2Fを住居以外の用途に誘導する特別用途地域が紹介されていましたが、そういうことがどんどん起これば商住業務がミックスされるので魅力的になるのではないかと思います。
そして住宅があった時のデメリットの学校の問題は昔ほど厳しくないと思うのですが、先ほど田口さんが言っていたように本町小学校がパンクだということは心配です。今日配った資料を見ていただくと、どこに小学校をつくることができるのということになり、みなとみらいや関内につくろうと思ってもなかなかそうはいかないので、そこらへんが現実的には難しい問題だと思います。サンフランシスコには磯子にあったようなビル内学校がありました。MMや関内に従来型の学校をつくることは無理なので学校の概念を変え、都心にふさわしい新しい学校のスタイルをつくる必要があるかもしれません。サンフランシスコの学校を見ていると夜は成人学校、あるいはコミュニティスクールとして活用されているようでした。学校の概念を変えて対応するのも都心部の学校のあり方かなという気がします。
10 建築物の集団規定に対する自治体の裁量権
用途別容積制が廃止されたのが残念だったと感じたのは、用途別容積制(を創設すること)で自治体が初めて建築物の集団規定に強い意志を示したことだと思っていたからです。建築物の集団規定に関しては自治体の裁量権でやるべきと思っていたし、今もそのように思っています。住居容積率を横浜市が決めたことは、このことのきっかけになると考えていたのにそれがなくなってしまった。これで種をまいたので、もっとどんどん条例ができて横浜版集団規定ができていけばもっと地域の特性を生かした建築行政ができると思っていたので、住居容積率制度の廃止は残念でした。建設省からの派遣者によって廃止されたことが残念だったのではなくて、自治体として、独自の集団規定への突破口をつくったのに、それがなくなってしまったことが残念だったということです。
このあとは質問に答えるという形でお話しします。