質疑応答
1 関内のまちらしさと用途別容積率
T:用途別容積制度の勉強を始めてみて、壁にぶち当たりました。関内の商業ポテンシャルからすると商業が減少するのは仕方がないかという思いもありましたが、他方、用途別容積制を廃止するとマンションが増加することが読めていたのでは、という思いもあります。学校も大きな問題です。その中で一番大きな問題は関内のまちらしさがなくなるのではないかというということでした。
内藤:関内らしさとはなんだろうか。
T:商業があり、住宅があり、業務があることが魅力と考えているのですが、高層マンションが増えていくとまちを歩いても楽しくないのです。制度廃止の時の議論で人口増の懸念はあったのでしょうか。
内藤:あったのですがその懸念は弱く、企業活動をどんどん誘致した方がいいという考えが強かった。土地を有効利用しようというディベロッパーの考え方が強くて、それを誘致しようという声も強くて、そのことが活性化につながるという考え方が強かったと思います。
2 民間の力を生かしたまちづくり
G:規制緩和の流れの中で民間の知恵を生かした方がいいという考え方だったのですね。
内藤:そうです。
T:そういう圧力をうまくコントロールしながら秩序ある街にしようという考えだと思うのですが、そんな考え方が市役所の中で共通に持たれていたのでしょうか。
内藤:後にデザイン室長になってはっきり分かったのだけど、デザイン室の仕事のやり方は地域の動きの中で景観的な価値を高めよう、動きの中で歴史的な景観を保存していこうというものでした。エネルギーがないと活動できないのです。元気な人に寄り添って「ああやりましょう、こうやりましょう」と提案していくとデザイン活動の成果が上がる。社会状況に乗っかっていくうちにデザイン活動が進んでいくと思いました。エネルギーがないとだめですね。
3 制度導入時の議会と役所内部の動き
A:(制度廃止の時の)議会の対応はどうだったのでしょうか。
内藤:廃止の方向では決定的だったと思います。
A:制度導入の時は(議会対応を)うまくやったように見えますが。線引き制度制定の時によく分からないうち導入されて、そのうちに不満がたまっていったと思うのですが、同じような状態だったのでしょうか。
内藤:(用途別容積)制度導入の時は係長で直接議会対応をやっていません。建築局が議案を出したが、「何も意見はなかったよ」と聞きました。
A:規制の権限を持っているところはストレスがたまると言われていますが、レギュレーションをやる所の賛成を得るのは難しかったのではないでしょうか。
内藤:役人対役人との関係ではあまりうまくいかなかったです。条例を出すときには起案をしなければいけない。建築局が議案の出すのだから建築局が書かなければいけないのだけど、建築局が書かない。「いやだ」と言われ、企画調整の僕が書いたのです。
4 建設省との事前調整
A:事前に建設省に説明に行ったのですか。
内藤:何度もあり、私も行きました。大部分が反対で、「問題あるね」という意向でしたが、「そういうこともあるね」と言ってくれたのは蓑原さんだけでした。中心になる立石さんという方がいらっしゃって説明に行きました。「どうかね」という意見でした。市と建設省だけで角を突き合せていてもいけないので、建築学会の委員会で議論をしてもらったり、当時横浜市の参与だった八十島さん、高山先生のご意見を聞いたりして、それをバックにして建設省説明を行った。この先生方のネームバリューがあるので「一概には反対しないけど、建築基準法はそういうものではないよ」と言われたり、「根拠条文の50条は違うのだよ」と言われたりしました。
A:素直に読むと50条は違いますよね。50条は設備等の話であって、集団規定には読めないから、よく頑張ったなと思います。
内藤:建設省は「建築物の単体規定の緩和や強化に使用するもので、住居容積率に使うのはおかしい」と言っていました。そうだろうと思のですが、ほかによりどころがない。建設省を説得する際に田村さんの力も大きかったと思います。国に対してものすごい力がありましたから。
5 廃止時の建設省出向者の動き
A:廃止の時に建設省から派遣されていたAさんがいたのだけど、Aさんは廃止に持っていこうという強い意志があったのか、淡々と仕事を進めようということだったのでしょうか。
内藤:淡々と仕事をしている感じでしたね。
A:(用途別容積制廃止を)建設省から出向していたAさんにやらせたのは横浜市はずるいと言えます。国にやられたという風に見えます。
内藤:僕は直接この件でAさんとは議論をしていません。廃止の伺いも回ってこなかったと思う。もし回ってきたとしても印を押していたと思う。市長は建設省からいらっしゃった方だから、Aさんと市長(高秀市長)はツウツウだと思っていました。
U:廃止の時の会議で反対したのは内藤さんだけだったという話を聞いたことがありますが。
内藤:それは条例で集団規定をやっていくんだ、そういう方向で建築行政をやっていくんだとずっと思っていましたから、その突破口がなくなってしまうのでがっかりしたのです。自治体のツールとして集団規定を持ちたかったけど建築基準法の法律体系ではそうなっていないのです。一つの風穴を開けたのだからそこから広げていくともっと自主的な建築行政にできると考えたのに、それが閉じられるので「ああダメだ」と思った。
6 縄のれんを横につなぐ
TD:市役所内でのこの制度に対する共感はどうだったのでしょうか。建築局は早くやめたかったという話も聞ききました。都市開発局の開発部は人口抑制のベクトルをまったく意識していなかった。計画局と都市開発局の間ですら人口抑制に対する共感がなく、別々の方向を向いて走っていました。この制度は外圧によって壊れたのではなくて別々の局で要綱行政をやりながら個別的にしかやらないので負けていったのではないでしょうか。組織が総合化されて動いていなかったのではないか。先程はすごいと思ったのですが、磯子のマンション問題の原因はそもそも飛鳥田市政だった、あるいは工場移転が人口を呼んでしまうということは都心部の施策が相反することをやろうとしていたのではないかと思えます。田村先生はどういう風におっしゃっていたのですか。
内藤:田村さんから直接聞いたことはないのですが、横浜市役所は規模が大きい。局の間の壁がある。縄のれん行政と田村さんは言っていましたが、トップの市長の所ではつながっているが、下に行くとバラバラになっている。トップの所は一つだけど下はそれぞれやりやすいようにやっているのは事実なのです。それが普通の行政で、みんなが全体を考えるとめちゃくちゃになってしまうので、役割分担をしている。それがしっかりしていないとダメだからまずは縦割りがしっかりすることが第一です。その次に縦割りの隙間を埋めたり、それを横につなぐというのが出てくる。隙間を埋めたり、横につなぐのが企画調整だったのです。企画調整が力を入れたのが人口抑制とか宅地開発抑制で、そういうことでつながったのです。その他のことは依然として縦割り行政がずっとつづいているのです。そんなギュッとつなぐ時期が過ぎてしまうと縦割りだけになってしまう。そうすると局が違うと違う動きが出てきて、それをおかしいと言うのは市長しかいない。(企画調整があった時も)すべてを調整していくのは至難の業で、大きな問題とか横浜市にとって決定的というところで田村さんの力が大きかった。その他の中くらい、あるいは小さな問題には目が届かなかったと思います。横浜市役所はすごく大きな組織なのでそれぞれの所を一本化させるのは難しいことだったと思います。
7 人口抑制と機能集積
TD:開発部は人口増だけを考えていたのではないでしょうか。
内藤:極端な職員はそうかもしれないけど、学校が足りないということはみんな思っていましたよ。子供を見ていてかわいそうだもの。50人学級が当たり前だし、プレハブでしょう。隣の声は聞こえるは、床はガタガタでしょう。二部授業をやらなければという状況を見ると、なんとかしなければいけないと思っていました。
T:学校問題という分かりやすい問題が薄れていく時代になると巨大組織を運営していく求心力がなくなってしまうのですね。
D:私が企画調整に入った1980年にはドーナツ化と言われ、都心部は人口減、郊外部は人口増だった。宅地開発要綱緩和の圧力があり、じわじわ緩和したけど、相当持ちこたえた。郊外部の人口をなんとか抑制しようという考え方はその後10年くらい全庁的に維持されたと思う。都心部のテーマは開発エネルギーをつくるにはどうすればいいかということで、どうやって業務核都市構想を進めていくかということが議論されていました。
建設省から出向していたAさんは、横浜市がやってきたことを使って地区計画制度のバリエーションを広げようという考え方を持っていたように見える。Aさんは緩和の方向を目指す人ではなく、地区計画の可能性を追求したいと考えていたと思います。
A:国の人は制度をつくると使ってほしい。
D:総合的コントロールというと総合土地調整課がなくなり、総合的な取り組みが難しくなったのではないでしょうか。
8 関内の将来像と住居機能
TD:都心部のテーマが人口抑制の時代から業務の集積誘導に軸足を変えていった。MMや関内で引っ張りあいになり、どのように機能を配置するかは神の手に委ねるというか、市場に任せことになり、関内にどのような将来像を持つのか、それも含めて市場が望むように関内の将来像があるのだと、役所はだんだん手を引いているような気配を感じています。確認申請も民間に任せるし、役所は誘導的手法から手を引いているように思うけど、どうですか。関内の将来像はどうなんですか。
D:関内は防火対建築帯の整備が進められ、もともとミックスト・ユースだったけど、MM線の整備、住居容積率と高さ制限の撤廃で高層マンションができて関内らしくなくなった。
A:高層マンションで東京と変わらないまちになった。用途別容積制の廃止が効いているのではないか。
D:むしろ高さ制限を外したことが効いているのではないか。
TD:工業用途以外、例えば住宅は誘導するのではなく放っておいた方がいいのではないかという議論もありました。容積の範囲内であれば用途を規制すべきではないという時代の空気があるのですかね。
内藤:もともとは8種類の用途を決め、容積制度を導入した時にその中でどのように使うかは自由という前提だった。それに対して「それでは荒っぽすぎないか」という考え方だったのです。
A:MM線の駅周辺をどう誘導するのかが課題だったのですよね。そこをどうやっていくのかという方針が重要です。平成17年のインセンティブゾーニングですが、インセンティブゾーニングはマーケットの需要より下にレギュレーションがあって、(レギュレーションより)上に行きたいというニーズがある時に意味があるので、マーケットレベルより上に規制がある場合は意味がない。平成17年の時は事前にスタディをしたのでしょうか。平成17年の条例の制定の仕方をスタディする価値があるのではないでしょうか。今うかがっているとそもそもニーズがないように聞こえます。
内藤:市街地環境設計制度ではかなり誘導しました。表札のようなものを張り付けていつの間にか公開空地が駐車場にならないようにしました。
T:(現在は)インセンティブを使わないでも既存の制度内で充分ですという状況ではないでしょうか。
A:東京都は都心居住をとても重視している。横浜の場合は都心居住をあまり言わなかったのでしょうか。
内藤:むしろ国から言われましたね。商業地域で住居が建ってなぜいけないのかと。住居もある商業もあるという前提で都心居住は魅力があるのですよと国から言われていました。蓑原さんはそう意向が強かったけど、横浜市がやむにやまれずということならそれもしょうがないという意向でした。大きな問題がなければ住居があってもいいですね。
A:横浜にも同潤会のアパートがありましたね。
内藤:中華街と平沼にありました。
A:関内は同潤会のようなタウンハウス型が魅力的だと思う。
T:田村明さんは関内のあり方について何か言っていたのでしょうか。
内藤:細かいことはおっしゃらなかったですね。二つの都心をつなげ、両方とも強化しなければいけないと言っていました。
T:横浜のスケール感から言うと三つすべてで機能集積をするのは難しいと思っていたとも考えられます。当人に聞かないとわかりませんが。
TS:当時かすがいで結びつけると言っていた時に、三地区(横浜駅周辺、みなとみらい21、関内)の機能分担の考え方はあったのですか。
内藤:分担論はなかった気がします。業務商業がにぎやかで、もっと人が行き来しているイメージで、関内はこういう方向に用途をシフトしようとか、西口やみなとみらいは業務にシフトしようとか、といったことはなかったと思う。
TS:それ以降もずっとないように思う。
9 マスタープランと動きを総合化すること
A:田村さんはマスタープラン型ではない。非定型流動型とおっしゃっていたように思う。思考の枠組みとしてちょっと違っていたのじゃないかと思う。きっかけがあったらそれを梃子にして総合化していくと言っていたような気がする。全体を総合化するというより、ある動きをもとに、関係のあるものを集めてきて、なんかやる。そういうことが正しいように思います。マスタープランを作ったって意味のある文書だと思っておられる方が何人くらいおられるのかと思う。例えば地下鉄工事の埋戻しの時に道路を付け替え、広場を作ったように。あれだってなかなかやらないですよね。ああいう発想は今でもできるのじゃないでしょうか。
内藤:あれは道路局と企画の合作です。中土木事務所に面白い所長がいて岩崎さんと馬が合ったのです。
A:あれの言いだしっぺは誰なんですか。
内藤:デザイン室じゃないんですか。
10 田村さんの国への影響力
G:用途別容積率制度導入の時に国に対して田村さんが力を持っていたという話がありましたが、どんな力だったのですか。建設省に人脈があったのですか。
内藤:人脈もあったと思うけど、田村さんが宅地開発要綱を六大都市で初めてやると宣言した時に相当非難されたらしいですよ。「横浜市はいつから独立したの」くらいのことを言われたと言ってましたから。大議論になったようです。それでも田村さんががんばったのは止むに止まれないというか、行政責任というか、革新市政で担われていたものがバックにあったから、何とか押し切っちゃったというか、やってしまった。それまでは大阪の小さな市が要綱で開発規制をかけていたけど、「大都市でそんなことをやるの」と建設省に言われたようです。建設省に言わせれば、学校が足りないのなら文部省に行くことが第一だということになる。横浜市には市政に負わされている責任の認識があるので国の方と全然違っていたのです。そこでぶつかったけど、とにかくやっちゃたわけでしょう。成果を上げたので認めざるを得ないですよね。敵ながらあっぱれと思ったどうか分からないけど、何らかの制度を作らなければいけないことに対して国の方は内心ではしょうがないと思ったと思うのです。それで田村さんの知名度はバーンと上がった。
高速道路については国とケンカしたのではなく、むしろ市の内部の問題で、一度決めた都市計画決定を変更してしまうという話でしょう。市の内部に都市計画決定をした部局があるのだからそれは困るよね。「この間決定したばっかりじゃないの。なんでひっくり返すの」という思いがあったと思います。
T:宅開要綱が大きかったのですね。八十島さん、高山さんが関係したからというより。
内藤:そうだと思います。宅地開発要綱というのはかなり実務的な話だから。小さな開発でも公共、公益用地100坪出せとか。担当の建築局の実務も大変だったと思う。安く買った土地を後で処分して、そのお金で学校をつくったりする。それを全部合わせると何百億になるのです。横浜市にとってものすごい財政的救済策だったと思います。
?:住居容積制については建設省とそれほどのやり取りはなかったのでしょうか。
内藤:作る前はあったのです。50条はそういうことに使うのじゃないということから始まって、住居を50%とか100%とかに規制することはおかしいということを言ってましたから困りましたよ。
T:宅地開発要綱に比べると住居容積率の話はそれほど大きな対立ではなかったのでしょうか。
内藤:宅地開発要綱ほどは大きくなかったと思います。
11 自治体の都市計画権限拡大
A:先ほどおっしゃったように自治体の条例で集団規定について立法したのは日本の歴史上最初で最後だったのだから生涯の思い出に残るものだったのですか。
内藤:作った当時は風穴を開けたなと思いましたよ。
A:今は自治体の権限が増えているという話があったけど、条例以外でいっぱい権限があるということですか。
内藤:法律で権限が委譲されたじゃないですか。許認可権限が。
A:一番すごいなと思うの何でしょうか。私は大して変わってないと思うのですが。
内藤:はっきり記憶しているのは保健所が県から市に移されたことです。
A:都市計画ではどうでしょうか。
内藤:都市計画決定ではあまり多くないですね。他にはいっぱいありますよ。区長になった時に保健所が区長の下に入っていました。
A:マスタープランとか用途地区が自由になったとかいうことはご利益があったという感じじゃないですか。
内藤:うまく使えばあるんじゃないかと思うのですよ。条例じゃなくて都市計画法の特別用途地区を指定すれば機能的には同じじゃないかと思うのですが、ただ都市計画法でしょう。片方は建築行政ですから単体で勝負できるじゃないですか。都市計画決定だとちょっと別ですよね。建築行政に渡すまでに一回クッションがあります。その辺が実際どうなのかなと、実務的にはよく分からないのですが。ただ行政としては自分たちが決めて自分たちで実施できるということは同じでしょう。
T:今日は様々なことを話していただきましたが、次世代に有用な情報を伝えるには史実をしっかりととらえる必要があります。田村さんの本には資料がついていない。確認ができないので今回のようなことをやらせていただきました。正直な感想を言うと、何も知らなかったな、知れば知る程自分たちの非力さ加減を感じます。今日は多くのことを教えていただきありがとうございました。