「今回の研究会のねらい」(田口俊夫)

 今日、ゲストでお二人の方に来ていただいています。環境開発センターの元所員であられた、二宮公雄さん、それと氏家隆正さんです。今日のメインのスピーカーは二宮さんにお願いしています。二宮さんの方から、浅田孝さんがお作りになった環境開発センターというのはどういう事務所だったのか、そしてどのような仕事をされてきたのか、そしてどのような影響を日本の社会に残したかを語り合いたいと考えます。

 

 そして、その環境開発センターに途中から参加された田村明さん。今途中と言いましたが、ほぼ初期の段階から参加されていたというふうに理解していますが、田村明さんとほぼ同時期に二宮さん、そして氏家さんが共におられたわけですが、どういうような働きを田村明さんがされたのか、というあたりを色々と語っていただけたらというふうに思っております。そして今日の研究会は今までと同じように録音させていただき、テープ起こしをし、それをこの研究会のホームページに掲載していきます。そしてその資料を今後広く研究をされる方々、あるいは田村明をより深く知りたい方々、そういう方々に提供していきたいというふうに思っております。では、最初二宮さんをご紹介いたします。今日のゲストスピーカーであります二宮さんでございます。

 

二宮:どうぞよろしくお願いいたします。

 

 それから後ほど少し話を伺わせていただきます氏家さんです。よろしくお願いいたします。では、私のほうから、環境開発センターが時系列的にどういうふうに、いつごろつくられ、どういう仕事をし、最終的にいつその事務所を閉じたか、というあたりを田村明さんの動静をそれに加えた資料をつくりましたので、若干ご説明いたします。それと二宮さんの方から皆さんのお手元にございますように今日のレジュメがお配りしてございますので、それに基づいて後ほど二宮さんの方からお話をお聞きしたいと思っております。なお、二宮さんは田村明さんが横浜市に移られてからも、長年にわたり、田村さんが横浜市をお辞めになった後も長期にわたり横浜のまちづくりに都市計画のコンサルタントという立場でずっと関わってこられました。そういう視点ものちほどお聞きできるというふうに思っております。

 

 ではお手元の「環境開発センターと田村明・環境開発センターの主要業務」を簡単にご説明いたします。環境開発センターが設立されましたのは、1961年4月です。浅田孝さんは常に「地域計画エキスパート」ということを環境開発センターでした仕事の報告書の前に常につけるのを旨とされていたということです。都市計画コンサルタントではあるかもしれませんが、我々はエキスパートなんだ、ということを常に言われたということでございます。

 

 1961年4月前に実はここに書いてあります4つの事象がありました。浅田孝さんがまだ丹下研究室におられた時代ですが、香川県知事・金子正則知事から香川県の庁舎を丹下さんが設計の依頼を受けた。それが1953年です。そして1958年には浅田孝さんは東大の丹下研究室の主任研究員と早稲田大学の講師をお辞めになっております。同時に、世界デザイン会議の事務局長に就任されています。そして世界デザイン会議は1960年に東京で開かれました。その場でメタボリズムグループが結成され、メタボリズムグループの研究発表といいますか、活動発表が世界デザイン会議の場でされたということでございます。そしてその翌年、1961年4月です、環境開発センターが設立されました。

 

 この資料を書く上で、参考にさせていただいたのが、つい最近出版された笹原克さんがお書きになりました『浅田孝―つくらない建築家、日本初の都市プランナー』という本です。それに基づいて書いてございます。その中で、出発当時は千駄ヶ谷のマンションに事務所を持ち、唯一の所員が氏家さんであるというように書いてございました。所長の浅田さんと、浅田さんの奥様、そして氏家さん、という感じだったのでしょうか。

 

 もともと環境開発センターは、この前二宮さんからお聞きしたように、私の思い違いでなければ、豊橋出身の三名の方と浅田さんが共同出資しておつくりになったということのようでございます。その後、香川県の観光開発計画の仕事をされています。当時田村さんもまだ日本生命に在職されておられましたが、休暇をとってこの仕事を手伝いにいったというふうに書かれています。その後、香川県の他の計画、こどもの国、それと高速自動車の道路標識システムの設計等々がございます。

 

 1962年8月付で、これは我々のホームページにも掲載しましたが、田村さんから「地域計画機関のあり方」というペーパーが浅田さんに出されました。これからの地域計画機関はこうありたいと、こうあるべきだというペーパーが出されています。そして、その中で田村さんは総合性を強く主張されたと。事務所には総合性がなければいけないというふうに書かれております。

 

 そして、環境開発センターの事務所が銀座に移転しました。これは田村さんが入る直前ぐらいですかね。そして、株式会社のその会長に仁谷正雄さん、これは富士銀行の常務で芙蓉開発株式会社の社長でありますが、が就任されています。社長に浅田孝さん。芙蓉開発が所有している銀座のビルに移転されたということでございます。

 

 そして1963年1月に田村さんが入社されています。その直後に田村さんは、結構な期間ですが53日間のソ連・東欧・ヨーロッパ視察団に参加されています。この時の視察団に参加した時の詳細なメモが横浜市の市史資料室に寄贈されています。これは近々副本ができますので、みなさん閲覧することができます。非常に詳細に書かれた、田村さんの自筆でございますが、視察報告書メモです。ソ連の工場を見たときの状況、こんなことがあったあんなことがあったということが書かれています。

 

 横浜に入る前にもいくつもの横浜市関係の調査報告書をお出しになっています。一番重要なものは6大事業、最初は7大事業だったんですが、「横浜市の将来構想」1964年、昭和39年ですね。昭和38年に飛鳥田さんが当選されてますから、飛鳥田さんが当選直後に、横浜のまちづくりを実践的に組み立てなおしたいということで、浅田さんにお願いされたということだと思います。その中で実際に担当されたのは田村さんでした。ここについても後程二宮さんからお話をお伺いできるかなと思っております。

 

 そして、各地の色々な計画をおやりになっています。これはまたご覧になっていただくとして、こんなこともやっているのか、あんなこともやっているのか、ということがございます。この中で香川県のものが目立ちますが、香川県はちなみに浅田さんの出身地でございます。香川県の金子知事は相当長く知事をおやりになりましたが、金子知事に非常に気に入られて、色々な仕事をおやりになっています。

 

 次のページにございますが、田村さんは横浜市に1968年4月、これは昭和43年ですが、転出されております。と同時に、田村明を囲む顧問会議、これは私の勝手な言葉ですが、浅田孝さん、高山英華教授、八十島義之助教授、河合正一教授を参与にお願いして、顧問と同じふうに理解していただいてよろしいと思いますが、定期的に月に一回くらいですか「木曜会議」というのがこれなのかなと思っていますが、後ほど、1時間ほど遅れて横浜市大の鈴木伸治先生が今日参加していただきますので、鈴木先生が非常に詳しくご存じでございますので、お話を補足的に語っていただくことになると思います。

 

 そして、その後、環境開発センターでは、ここに書いてありますような全国各地の計画をされておられます。そして、大阪の万博や沖縄海洋博も当然関与されてますが、この中には特に総合研究開発機構(NIRA)の設立を浅田さんが総理府に依頼を受けて、日本を代表するようなシンクタンクをつくりたいと、ということでそれの設立に深く関与されたというふうにこの笹原さんの本に書かれておりました。

 

 このようなことがあり、横浜市では1978年、昭和53年、田村さんが企画調整局長を解かれ、技監のみの職ということになられました。そして、環境開発センター自体は翌年の1979年に閉鎖されております。浅田さんはトヨタ財団の専務理事に就任されたのは1987年でございますが、1990年までトヨタ財団の専務理事をお勤めになっています。浅田さんは1990年、亡くなっておられます。このような流れでございます。では二宮さんにレジュメに基づいてよろしくお願いしてよろしいでしょうか。