質疑応答

田口:大変ありがとうございました。極めて興味深いお話ですね。先ほどご紹介しましたように横浜市大の鈴木伸治先生がお見えになっておりますので、田村明研究を長年おやりになっておりますので、そういう知見からご意見を頂戴したいと思っています。ではだいぶ衝撃的な色々なお話がありました。ちょっと頭を整理しながら。ご質問なりをお願いします。

 

田村千尋:どうも、先生ありがとうございました。実は今日、明の誕生日なんです。そういうことが記念でもあると同時に、ちょうど88歳になった日で、今日のお話伺っていて明が呻いている姿も想像できましたし、大変有意義な話をいただいたと思っています。ありがとうございます。

 

二宮:そうですか、誕生日だったんですか。

 

田村眞生子:奇しくもね、ちょうど今日が誕生日でした。

 

・環境開発センター設立の経緯について

田口:私の方から確認の意味でなんですが、最初に環境開発センター作るときの3人の方は、この前お聞きしたんですが、出資をされたのは豊橋の方でしたか?

 

二宮:それは氏家さん、どうですか。

 

氏家:環境開発センターという株式会社を設立するときに出資者と発起人ですね。それがなぜか豊橋の3名でした。名前言いますと、井口さん、川合健二さん、川合健二さんをご存知の方は大勢いらっしゃると思う。それから、満田先生。豊橋の桜丘高校の理事長。満田、さんずいの「満」、田んぼの「田」。満田先生、理事長です。校長兼務ですが。その3人の方を発起人の一部で、一部っていうのは失礼ですけど、その判をもらいにいきました。浅田さんと一緒に私付いて行ったからよく覚えています。その時の浅田さんの移動はフォルックスワーゲンだった。森西栄一さんという元は丹下さんのドライバーやってた方が、浅田さんのドライバーに代わり、その方の運転で豊橋に行きました。3人を訪ねて行きましたんで、私よく覚えているんですが、その3人の方の判子を書類に押すところまで、私見てました。そういうことで豊橋の3人。あとは覚えてません。あ、あとはね、大高さんとか菊竹さんは、黒川さんは除いてますが、も出資者の一人です。それはあまり公表してないと思いますけれども。

 

田口:何で豊橋に?

 

氏家:それはね、川合健二さんという、アインシュタインみたいな方がいらっしゃってね、風貌からしてアインシュタイン。この方はね、リュックサック背負って丹下研に現れたんですよ。で、丹下さんが適当にあしらってたんだけど、浅田さんがこいつは面白い人物だと。ちょっと待て、って言って、色々話を聞いたら、いろいろな資料を取り出してですね、丹下さんが東京都庁舎設計し始めたころの話だったんじゃないかと今思いますが、こういう世の中に優れたボイラーがあるから、こういうのを使えということで、東京へいらっしゃった。豊橋から。それが川合健二さん。それからの付き合いだというふうに私は伺ってます。

 

田口:すいません、カワイケンジさんの漢字は?

 

氏家:三本川の川合さん。アイは一合、二合の「合」。ケンはにんべんの、健康の「健」

 

田口:何をその方はやられていたんですか?

 

氏家:あのね、医者の息子さんなんですよ。豊橋に川合医院というのが確かにありました。そこに浅田さんと一緒に行ったんですよ。その方がなぜか知らないけれど自宅にテレックスを、当時ですよ、昭和35年の頃、テレックスを置いて、豊橋みたいなあんな田舎と言っちゃ失礼だけど、もちろんちゃんとした街中。それで書類の山です。アメリカから取り寄せた、ボイラーの資料が世界中からあった。まあボイラー以外の資料もいっぱいあったんでしょうけど。もう足の踏み場もないほど、地震が来たらどうするのと思うほど積み上げてある。それを毎日虫眼鏡で読んでいる。虫眼鏡で見ると脳みそにみんな入ってくるっていう。

 

二宮:川合さんって人は独学で、そういうことを身につけた人なんですよね。だから普通のキャリアじゃないんですよね。スタンダード・アメリカか何かの極東組織…

 

氏家:アメリカン・スタンダードの日本の総代理店みたいなのを個人でやっていた。ですから香川県の五色台山の家を設計したときもアメリカン・スタンダードのボイラーを入れた。非常にコンパクトで鋳鉄がしっかりしたボイラーですから、それを押入れくらいの大きさの中に一個すっぽり入っちゃうんですね。それを各棟ごとに全部。どこか中央に機械室、ボイラー室設けるのではなくて、もっと小さいスペースで。そういう分散型がいいぞとアドバイスしてくれたのが川合さん。それで川合さんを浅田さんは非常に可愛がってた。言い方はおかしいですけれども、川合さんの方が年上ですから、全く素晴らしい重要な人物であることを浅田さんが見抜いて、お付き合いをしていたんだろうと思います。

 

田口:分かりました。もう一点、すみません。芙蓉開発が資本参加されるじゃないですか。

 

氏家:芙蓉開発はその後ですね、その数年後です。最初から株式会社ではなく、数年後に株式会社にしたんじゃないかと思います。何ですが、芙蓉開発の仁谷さんという方が浅田さんに大変惚れ込みまして、出資して自分のビルに移転せんかと。住宅のマンションの一室じゃなくてね、という話があったんだろうと思うんです。その二人の会談の内容というのは私は知りませんけれども、それで急きょ銀座の新義産業ビル、古い焼け残ったビルです。銀座二丁目の。今はもうありませんけどね、エレベーターもちゃんとついてました。昔ながらの手挟みそうなああいう扉の、自分で運転するんですけれど、そういうエレベーターのついた新義産業ビル、そこへ引っ越すことになりまして、そのビルの3階か5階かちょっと忘れましたけど、芙蓉開発という会社が入ってまして、その4階にオフィスがあったんですね。

 

田口:芙蓉開発さんはずっと、その後もずっとその関係を保ったんですか。

 

氏家:関係ないですね。出資はしたけれども、仕事は1つ2つもらったみたいですね。

 

田口:じゃあ一応会長職という名目上で、仁谷さんがおられた。

 

氏家:出資したのは確かです。環境開発センターに、増資するときに。そのときに芙蓉開発さんが出資されて、その時から会長になったんです。仁谷さんが。

 

田口:特に何か仕事上で深い関係があったということでもないと。

 

氏家:芙蓉開発がつくったバキュームコンクリートっていう会社がありましてね、その同じビルの中にバキュームコンクリートが入っていた。工場は茨城県だったかな、に立派な工場がありました。バキュームっていうのは要するに、吸引する。真空状態に持って行って吸引するんですねコンクリートを、打設したときに。そういう特殊な工法、何かパテントらしい。非常に頑丈なコンクリートでそのコンクリートで矢板、地下掘るときに矢板を使うのですが、スチールで。その矢板にも使える。そういう会社もありました。仁谷さんがなぜ環境開発センターの大株主になったかは知っておりましたけど。特にそのために何か浅田さんが束縛されるとか、そういうことは一切ありません。全く無いです。そういうことは浅田さんは大嫌いなので。

 

田口:銀座から虎ノ門に移りますよね。あれは何年頃なんですか。

 

二宮:私が出た後ですから正確には分からないですね。

 

田口:あれはもうだいぶ…

 

氏家:私も辞めた後ですから。私も二宮さんと同じ時期に辞めてますから。

 

田口:それで銀座から虎ノ門に移って、最後は白金のマンションでおやりになっていた?

 

二宮:そうですよね。

 

氏家:ええそうです。浅田さんは最初はですね、私の頃は銀座の数寄屋橋の近くに柳月っていう「柳」の「月」の、木造の旅館がありまして、そこで生活していたんです。一人で。お家は逗子にちゃんとあるわけですけど。

 

田口:ご自宅は逗子にある?

 

氏家:そうそう逗子に、ちゃんとお家はあるんだけど、まあずっと一人生活、銀座で。銀座の旅館の住み込みだった。浅田さんは1DKですかね、1ルームの畳の部屋があって、あとDK、ダイニングキッチンですね。LDKそういう部屋で環境開発センターを始めたわけです。千駄ヶ谷3丁目、渋谷区ですね。そこに田村さんがお入りになるとき、その時は銀座にすでに引っ越していて、浅田さんがそこに住んでいたんだけど、そこを渡して、そこに田村さんが一時お入りになったと思います。その時の印象はね、二宮さんがおっしゃったように、確かにガリバーの日本生命、とてつもない会社ですけど、田村さんに社員って何人ですかって聴いたら、君ね法律上社員っていうのは契約者だと。契約者が正式には社員っていうんだよなんて。色々と田村さんから教えてもらいましたけれど、最初に教わったのはそれです。例えばね、ビルもいっぱい持っている、どういうビルがあるんですかって聞いたら、そうだな氏家君の知っているビルだと、日本橋に高島屋ってあるでしょう。あれも日本生命のビルだと。その翌週、わざわざ見に行って、探したら、奥の方にですね、高島屋の正面向かって右側の一番奥の入り口側に「日本生命」ってちゃんと銘板が貼ってあるんですよ。へぇと思って。私は高島屋のビルだとばっかり思ってたから。所有者だったんですよ。そういうことを田村さんから一番最初に教わったんです。まあ私はあんまり色々なこと知らないんでね。驚いたりしてましたけれども。そういうことを教わりました。それでちょっと印象に残っている。話が長くなった。この辺ですみません。

 

・会場からの質問

田口:さあ、では皆さんの方で何か疑問やご質問なり、あれば。

 

質問者1:じゃあちょっといいですか。質問というより感想みたいになっちゃうんですけれども、今日お話聞いていて改めて感じるのが、日本にこういう人が他におられるのかと。ちょっと思ったのは、プランから関わって、実際に計画をやって、実践までやったという、一つの大きなまちづくりに対して、プランから実践までを一通りやったっていう人はいるんですか。特に僕なんかの時代からすると、大体プランはコンサル中心に、役所も入ってつくるんだけれども、どちらかというと役所はあとは実戦部隊が出てくる。だから役所の中でも二つやる人はいないわけですよ。両方やるって人は。基本的には。田村さんは全部やられたという感じで、そういうタイプの人が今まで、日本に他にいたのかなと思ったんです。

 

二宮:結局、田村さんはそういうことをやりたいと思って日本生命を辞めて、環境開発センターに入られたんだと思うんですね。

 

質問者1:ただ環境開発から横浜市に行くことで、全部やれる話になったわけですよね、なかなか無い例だろうと今お話聞いていて改めて思いました。そういう意味では幸せな方だったのかもしれませんね。

 

二宮:やっぱり恵まれたところはあった。そういうのを選ばれたんですからね。

 

質問者1:まあ、そうですね。自分でね。

 

二宮:やっぱり、環境開発センターに入ったころの田村さんはかなり大変だったと思いますよ。(田村眞生子:大変だったようですね。)要するに都市計画の、極端に言うと、イロハも知らないわけですよ。36歳ですか、になって。それでこの笹原さんの本にもちょっと写真なんか出てますけども、若い早稲田の大学の学生さんがですね、トレペにマジックでこうやって赤とか緑とか、こう団子を回して、これゾーニングだって言っているのを、その言葉自体が最初分からなかったみたいです。それはそうですね、そういう世界に初めて入るんですから。ですから、相当その時期の田村さんは大変だったし、勉強もしたんだろうと思いますね。だから、それ乗り越えたんだと思いますね。

 

田村眞生子:そのころ本当に大変だったと言っておりました。(二宮:そうでしょうね)全然それまで都市計画をやっていないわけですから、(二宮:そうなんですよね)ですから若い人たちがみんなそういうことをよく知っていて、色々なそういう新しい言葉を使いながら仕事やってらっしゃるのに、自分はそれを知らないから、それをまず勉強しなきゃというんで、家に帰ってから最終電車で夜中に12時ごろ、(二宮:いつもそうですよね)横浜の家に帰ってくるんです。そこでやっと夕食を頂いて、それから二、三時間残っている仕事をやって、それからしばらく寝て、それで翌日まあお昼まではちょっと寝るんです。お昼のお食事をして、それで出かけていくという形なんですけれども、何か二時間くらいしか寝ない時代もあったのです。ともかくすごくその時は本当に一生懸命勉強したようでした。仕事とそれから都市計画の仕事に対する勉強、今までしていなかった勉強を若い人に負けないようにやらなきゃなんないというのがものすごく大変だったと。

 

二宮:それはそうだったと思いますよ。マジックでこう書くのが実は大した技術でも何でもなくて、大したことないのをやっているんだけれども、それが大したこと無いんだということが分かるまでがやっぱり、結構大変だった。いやいや、本当にそうだと思います。そこまでの壁が。

 

田村眞生子:計画だけじゃなくて実践も、とおっしゃいましたけど、何か自分で実践的プランナーというふうに言っておりますよね、ですから、プランと実践と両方やる人はあんまりいなかったということを、自分でも何かの時に言っておりますけれど、そういう意味ではちょっと日本では珍しい、変わった人間なのかもしれません。

 

二宮:やっぱりだから、道を開いたっていうか、本当にそれであとの人が付いていけるようになっているかどうかという問題はあるんですけれどもね。少なくともたぶん、あんまりいらっしゃらないだろうと思いますよ。そういう方は。

 

田村眞生子:両方をね、わきまえている人というのは。まあ日本にはね、いらっしゃらないかと。

 

質問者2:いいですか。この二宮さんの今日のレポートは、浅田孝と田村明を明快に分けているわけではないので、どちらに力点があるのか、ちょっと分からない点もあるんですけど。生前の先生のご講演で、都市デザインとか、アーバンデザインとかが、どういう意味かということが議論になったことがあってです。例えばその法制であるとかですね、横浜であれば色々な建築の規制であるとか、それから事業であるとか、そういうまさに総合的にね、都市をデザインするのが、都市デザインだと。その一つの見解が出てるんですけれども、今のこのレポートを見てますとね、二宮さんのニュアンスの中に、例えば6大事業が、「長期に亘る地域社会の骨格的なストックを総合的に建設する基幹的な事業」という言い方があります。そしてそういうものを、そのちょっと上の方ですけれども、「明確なトータルイメージ」「明快なビジュアルイメージ」として提示する。それが計画の市民化への重要な要素であると。いうような書き方されてますよね。これは日本みたいな、日本を一般化していいのか分からないですけれども、あまりくっきりとしたビジョン無しに、次から次へと成り行きでまちがつくられてたり、社会がつくられてたりするんですね。都市を形成する、都市をジェネレイトする骨格を考える、そしてそれをビジュアライズする。それを市民に提示するっていうのが、稀有なことと思うんです。それでその部分は例えば田村さんから直接印象を受けたように、つまり法学部出身で建築学科出身でもある田村さんの総合性とはちょっと違いますね、これは浅田さんの、つまり何でもデザイン的に考えるという浅田さんの個性なのかなというふうに。僕は今このレポートをお聞きしててそういう印象を受けたんですけれども、違ってますでしょうか。

 

二宮:いや、それはかなりの部分そうだったと思いますね。ただですね、こういう話が出てくるのは昭和40年代くらいですけれども、ちょうど横浜市が人口が毎年10万人くらい増えてた時期ですよね。浅田さんがしきりに言っていたのは、文明の転換期だと言っていたんですよ。人口の国内の大移動が背景ですけれども、それによってライフスタイルから何から色々と変わってくる。そういう時にどうするか、ということで、それが一番根元にあるもんです。それに対してこういうストック形成が必要だという話が出てきているんですね。ある意味ではデザイン的な部分もあると思うんですけれども、やっぱりそうじゃなく、ある普遍性は持っていたんじゃないかという感じが私はするんですけれども。

 

質問者2:しかも、それピリッとしたイメージとして、粟津さんがデザインしたのかもしれないけれども、それを構想してそれを絵にしてくれっていったのは浅田さんの方だったんですよね。

 

二宮:そうですね。あの環境開発センターの報告書の方には、非常にプリミティブな形の絵はあるんですよね。それをうまくビジュアルしたのが粟津さんだったと思いますね。

 

田口:1961年がどんな時代だったかということで、ちょうど日本の都市計画コンサルタントに通じる建設コンサルタンツ協会が1961年4月につくられた。どちらかというと土木寄りかなとは思いますけれど。その前の1957年には技術士法ができてます。やはり日本のそういうコンサルタント、都市地域計画をできるコンサルタントというのは、養成しなきゃだめなんだという動きがあった。パシフィックコンサルタントがそもそもできたのが、1951年。これはアメリカ法人としてつくって、それで1954年に日本法人もできてますよね、だから浅田さんがつくった環境開発センターというのはより都市計画、より地域計画寄りでいわゆる土木系のコンサルタントとはちょっと違うのです。ちょっとこの動きも違うのかもしれないですけれど、国全体としては、そういう地域計画、都市計画がらみのコンサルティングができる組織をつくるべきだという動きと上手く呼応するのかなというか、感じもしますけどね。

 

二宮:そうですね、あの技術士法というのは、分野で言うと23ぐらいあるんじゃないですかね、化学とか、電気とか機械とか、色々ありますね。要するに社会全体としてそういう専門家とかですね、コンサルティング機能とかそういうものが必要だっていう、そういう技術のニーズは相当あったんだと思うんですね。ただやっぱり浅田さんにしろ、田村さんにしろ考えていたのは、その時技術サービスをしようということではなくて、やっぱり技術サービスが色々あっても、それを社会の何ていいますかね、外部経済というか、どういう言い方をするのかわかりませんけど、ようするに総合的な計画をつくるというのがメインのターゲットだっていうのが、ちょっと違っていると感じはします。

 

質問者3:ちょっとつまらないことしか聞けないんですけれど、鹿島のですね、工業都市圏のところでね、田口さんのメモでは「生活環境整備調査」ってなっているんだけど、先生の方のメモでは「生活」って入っていないんですけれども、これは無いんですかね。これどっちが正しいんでしょうか。

 

二宮:いや、これは単年度じゃなくてですね、二回受託しているということですよ。年次が一年ずれてますよね。田口さんのメモだとこれは、そうですね。

 

質問者3:このころは大変に大きな騒動になる鹿島の、ということは、まだもっと前のそういうのが浮かび上がってくる前の前の時代のことですよね。

 

二宮:そうです。あの新産工特っていうのがありましたよね、あの時の工特ですよね。鹿島は工業整備特別地域ですね。

 

質問者3:それともう一つなんですが、先ほど二枚目のところで先生が、浅田孝さんがSDの中でジェネレイティング・システムという言葉を使っています。それが新全総からだったんじゃないかというお話でしたが、ちょうどSDの特集が出る前ぐらいに、ご存じのクリストファー・アレグザンダーが形の生成に関する論文を書いて、日本で一世を風靡した。だから、ちょうどSDの前にクリストファー・アレグザンダーのパターンランゲージとか、このジェネレイティング・システムという言葉が一世を風靡するんですけれども、僕はちょっと出所がはっきりしなくて、単純に考えていたんですが、浅田先生はもっと前からこのジェネレイティング・システムという言葉を使っておられたんですか。このSDよりももっと昔からこの言葉を使っておられたんですか。

 

二宮:これのちょっと前だと思うんですけれども、アレグザンダーの『都市はツリーではない』でしたか、あれの英文を持ってきて、お前これ読んでおけと言われた記憶があるんですよ。で、それよりもこれは前だったような気がするんですね。

 

質問者3:そうですか。じゃあきっと一般ワードとして、アレックスが生み出した言葉じゃなくて、アメリカの都市計画とか、かなり昔からこの言葉は専門用語として理念とか、そういうものがあったわけなんですね。きっとね。それをお読みになっていて。

 

二宮:そうですね、どうなんでしょうかね、そのあたりのことはちょっと分からないですけれどもね。あの新全総の中で入っていたから、どうも下河辺さんじゃないかと私は思ったんだけれども、そうじゃなかったみたいだという話なんですね。

 

質問者3:あと、僕らはちょっと思い込みがあって、田口さんのにもちょっと書いてあったんですけれど、総合性というのは、田村さんの、田村先生の専売特許だったというふうに僕らはすっかり思い込んでいたんですけれども、今日のお話の中でね、やっぱり糸口は浅田孝先生にあるということが、これでああなるほどというふうに今日思いましたけれども。

 

二宮:浅田さんが言っている総合性とですね、それを田村さんは聞いているはずですけれども、ちょっと田村さんの言っている総合性というのは、またもう一味違ったものが関わっているんじゃないかなという感じはしますね。

 

質問者3:それはどういうふうにですか。

 

二宮:いや、結局ですね、それぞれの個性の違いというのを端的に言うと浅田さんはデザイナー的で、田村さんはプランナー的だったんだと思うんですよね。そうするとデザイナーが及ばないような部分の総合性はあるんじゃないかと。それはここでいうと「事業推進の組織戦略」みたいなことについては、これは田村さんのいう総合性だったんだろうと思うんですね。たぶん浅田さんはそういうところまでは、イメージとしてはもちろん言うでしょうけれども、実際のつなげ方とかそういうところまでは、及ばなかったんではないかなとそういう感じはするんです。同じ言葉でやっぱり含んでいるものがそれぞれだという感じがするんですけれども。

 

田口:非常に細かい話なんですけれども、浅田さんの蔵書が東北芸術工科大学の図書館の中で見れるんですが、えらく洋書が多いんですよね。浅田さんは語学には長けてたんですか。ちなみに田村さんはあまり語学には長けてなかったという感じがいたしますが。

 

二宮:浅田さんは非常に語学のセンスがあったと思います。喋るのも上手いし、アメリカの学者で親しい人が何人もいましたよね。デーヴィット・リースマン『孤独なる群衆』書いた人とかですね、それからニューヨークの都市計画協会で「大都市の解剖」とか何かそういうシリーズが4,5冊出た時期がありますけれど、1960年代。あの著者とかですね。そういう人と色々議論しているんですよね。議論していて彼らはどうだというようなことを、ちゃんと文章に書ける。すると、できたんだろうと思いますね。

 

田口:分かりました。

 

質問者4:すごい初歩的質問いいですか。横浜市で企画調整局を作り、ご自分の仕事を中心にやってらした。環境開発センターという組織が何かすごく似た組織というか、コンセプトがすごく似た感じがするんですけれども、外から見られてどんな感じされたんでしょうか。

 

二宮:あの、おっしゃる通りというか、それが私一番最後の行で言いたかったことなんですけれども、やっぱり田村さんがそういうところも横浜市に持って行ったんだと思うんですね。それで当時の企画調整局の方がここにいらっしゃるかどうか分かりませんけれども、最初は廊下をずっといった突き当りの部屋だったんです。あそこの真ん中に大きなテーブルを置いて、そこでトレペを広げて、それこそマジックで団子を書いて、あれは環境開発センターでやっていたのと同じスタイルなんですね。それからファイル、キングファイルっていうのありますね。あれに一件ずつファイルして、棚に入れた。あれもそうなんです。だからそういう環境開発センターの持っていたプラスの部分はちゃんと田村さんは継承して、それでそれを基にして、横浜市の市役所の中の組織を、要するに行政のユニークな組織として育てていったということじゃないかと思いますね。

 

田口:まあだから全部を統括するけど、自分では直接は事業を持たない、しかれども全体を統括する。コントロールして集合化していくという、プロデュースということですよね。

 

二宮:そうですね。六大事業の財政的な話は、あんまりどこでもでてきていないような気がしますけれども、あの当時飛鳥田さんのポリシーだったろうと思うんですけれども、六大事業っていうのは横浜市の金は使わないでやるんだということで実際色々なところのお金も出てますよね、そういうプロデュースの仕方もやっぱり一つの特徴だったんじゃないかなという感じがしますけどね。

 

田村眞生子:それは飛鳥田さんの、市の財政を使わないでなるべく色々民間の使うというのは、私は田村がそれは考えたんだと思ってましたけど、それは飛鳥田さんのですか…

 

二宮:いやいや、それは私はあまり分からないです。あの田村さんはもちろん自分でそういう戦略をつくってそれで市長に上げてると思いますから。

 

田村眞生子:そこのところが田村の特徴かと思ったんですね。市の税金を使わないで、民間の方たちをいれながらやっていくという、そういうやり方はちょっと珍しいんじゃないかと思うんですけれども。それは飛鳥田さんよりも田村が考えたことだと私は思ってたんですけれども、どうなんですか。

 

田口:飛鳥田さんというより、浅田さん…

 

二宮:いや飛鳥田さん、市長です。

 

田口:でも浅田さん自身もそういう発想を持っていたんじゃないんですか。違うんですか。

 

二宮:そんな具体的じゃなかったような気がしますね。

 

田村眞生子:浅田さんは市税を使わないでというか、そういう考えはあまりなかったんじゃないですか。それは私田村独特のものかと思っていたんですけれども。

 

二宮:いや私はこれはよく分かりませんけれども。

 

田村眞生子:その辺はちょっとよく、研究してくださいね。

 

田口:鈴木先生も研究されてますけれど。

 

鈴木:すみません、仕事の関係で遅くなってしまって、今の件で言うと、環境開発センターが出したレポートの中に、当時はそういうものは無かったと思うんですけれども、第三セクターのようなそういう組織をつくって、進めるというような、そういうふうに読み取れるところが出てくる。ここはおそらく環境開発センターだけで議論している話なので、おそらく田村さんのアイデアじゃないかな、というような感じ。そこら辺、浅田さんとどういう議論をしたのかは分からないですけれども、当時無いような事業実施方式をレポートの中に書き込んでいたことは確かです。それはおそらく飛鳥田さんとかそういうレベルの話では無いというふうに。

 

田村眞生子:そこら辺をね、どうぞ研究してください。

 

田口:そこら辺はこれから皆さんで細かくやっていかないと。

 

田村眞生子:田村が日本生命のような民間に勤めたということは、やっぱりそういう考えをもっていたのかなと私は思っていたんですけれど。あんまり浅田さん的な考えではないんではないかという気が私はしたんですけれどね。

 

鈴木:すみません。今日のお話の中で「ニューヨーク港とその水際の運営」でポート・オーソリティの話が出てきて、非常に印象深かったんですけれども、昭和39年の環境開発のレポートで港をどうやって運営していくのかということをものすごくページの分量を割いている、と思うんですね。横浜自体は国営の直轄の港湾で戦前まできて、戦後になり自治体港湾というかたちになったんです。お金もないのに港をどうしようもない。港をこれからどうするのか、という基本的な方向性を求めるときにおそらくポート・オーソリティという考え方を横浜に当てはめたらこうなるんじゃないかと言うような、そういう提案だったというふうに、7つの提案の中のレポートに見えるんです。そもそもこの「ニューヨーク港の水際地域の運営」というレポートはですね、当時環境開発センターでそういった資料があって、それを参考にされたんでしょうか、浅田さんはそういうことを知っていたのでしょうか。

 

二宮:私はこの資料そのものを見ていないものですから、なんとも言えないんですけれどもたぶん、このころ相当、要するにお手本はニューヨークのポート・オーソリティだと思うんですけれども、あそこの資料なんかを調べていたような感じはしますね。成果物にはなっていないところで、ポート・オーソリティの機構図みたいなやつを見たことはあるんですよ。港湾とそれから空港とトンネルと、何かそういうカテゴリに分かれていて、こういうところで構成されるんだっていう話とか、それから港湾部門が全体でいうとあんまり高い比率じゃなかったということが書いてあるとか、そういうのは見たことがありますから、たぶんこの時点で相当そういう資料を調べたんじゃないかと思います。

 

鈴木:去年、鳴海正泰先生にお話を伺ったときに、田村さんがまだ市役所に入る以前に横浜市の総合計画をつくった時にニューヨークのChange・Challenge・Responseという総合計画のようなものをずいぶん参考にして、書いたと。要するに情報の出所はあまり聞いてもよく分からなかったんですけれども、なんとなく環境開発センターではないかなと思っていたんですけれども、そういう情報のチャンネルが当時あったんでしょうか。

 

二宮:そうですね、チャンネルと言えるかどうかは分からないんですけれども、とにかく浅田さんはそういう情報というか、動きには敏感でしたね。今おっしゃったChange・Challenge・Responseですか、あれも私も聞いたことあります。

 

鈴木:瀬底さんが非常に海外との人脈を持っておられたという噂は聞いたことがあるんですが、そのころはまだ? 

 

二宮:瀬底さんはデザイン会議の頃から付き合いがありましたから、当然私がいた頃は付き合いがあって、コロンバスですかね、あそこなんかは瀬底さんが浅田さんに紹介したんだったと思いますね。

 

氏家:槇文彦さんから随分アメリカの情報は得ていたと思いますけど、他からもあったと思いますけれど、槇さんからもらった情報はずいぶんあります。

 

田村千尋:浅田さんと明のこの3つの特徴、なんか総合性があるようで無いようで、特徴として最後に残ったのが、人を捌くのが上手かった、つまり頭からそういう構造になっていてやれたのかね。その環境開発の以前に生命保険、ニッセイにいた時代に得た人づかいみたいなものが生きていたのか、その辺がちょっと僕は面白いなと思っていたんですけれども、総合性というか明が残っているのは実践的なところだけは浅田さんにはあんまり、無くて、明にはかなり特徴的に人を使ってものを動かすということの、人というか具体的にものを動かす感じ。だからもっと大きいところは浅田さんがやり、もうちょっと手を使わなきゃいけないところは明の方がやった、そういうふうな理解でよろしいでしょうか。

 

二宮:いや、もっと田村さんは堺・泉北のケースのようにそれこそ総合的なレベルでもう色々なことを考えられていたと思うんですよ。浅田さんはどうして解決するかっていうとデザイン的に色々な発想があったなかで、こうしたほうがいいんじゃないかと。要するに総合化という言葉の内容が非常に問題だと思うんですけれども、そのあたりがやっぱり、浅田さんだけの発想というわけでは無かったような気がしますね。

 

田村千尋:今の総合化という言葉はね、この研究会の名前にも使われちゃってるんですけれども、英語にならないなと。英語にならない、日本語としても総合化ってよく考えてみると、なんだかよく分からなくて困ったなというところもあるんですけれども、なんでしょう。totalizeでもないし、何だか。

 

二宮:総合計画はcomprehensive。

 

二宮:言葉の内容は難しいですね。総合性で何を言うかで。

 

田口:すみません、そろそろ時間なんですけれども、先ほど申し上げたように二宮さんはずっと横浜市とお付き合いされている方なんですね。つまり田村さんがおられた時から、横浜市の変遷を見てこられた方なので、そういう話も面白いのかなと。ただそれを聞いているともう時間がありません。

 

二宮:じゃあ一つだけ。昨日ちょっとですね、実は来週、私の田舎は九州なんですけれども、九州でやっぱりこんな話を聞きたいという人たちがいてね、それで横浜市役所の行政資料室に行ったんですね、色々と再開発の資料なんか見て、色々見ていたんですけれども、みなとみらいのことについては雑誌というか、年に3回か4回かパンフレットみたいなものが出ていて、動きが分かるんですけれども、港北ニュータウンは何の資料も出ないんですよ。私は六大事業の中では特に港北ニュータウンに色々思い入れがあるというか、自分がイメージしたことがちょっと入っているとかそういうことがあるものですから、港北ニュータウンを少し調べたいと思ったんですけれども、担当の人に港北ニュータウンの資料どこかに置いてあるんですかって聞いたら、色々調べてくれてですね、結局、横浜市史の中に書いてあるっていうんですよ。要するに港北ニュータウンっていうのはもう行政資料じゃなくて、歴史になったんだなっていうんで。

 

田口:港北ニュータウンの計画とかそういう資料は都筑区の図書館に系統的に整理されてますね。まあ、それは今おっしゃられたように行政資料室という一応行政の窓口であるべきところでどう扱っているかっていうところは非常に示唆が富んでますよね。では、ご質問されていない方に一言聞いてみたいですが。

 

質問者5:質問してもいいですか、途中から聞いていてちゃんと聞けていない部分もあるかと思うんですけれども、この浅田さんのお仕事を見ていると、革新自治体のシビルミニマムの考え方と連携しているように思うんですけれど、浅田孝さんのなかで、シビルミニマムという考え方に対する比重っていうのはどのくらいだったのか、その革新自治体の美濃部さんとか飛鳥田さんとかが目指していたものと基本的には同じ方向を向いていたのか、それとも浅田さんは浅田さんで別のことを考えていて、そういう革新自治体の人たちと連携していたのか、というのはどうお考えかということをちょっと知りたかったんですけれども。

 

二宮:あの二ページの一番下にある「住居表示=地区計画」というところなんですけれども、浅田さん自身は非常に地区レベルの計画というか、地区レベルの状況に関心があって、そういう意味ではシビルミニマムとたぶん同じ立場だったんだと思うんです。で、環境開発センターとはちょっと別なんですけれども、浅田さんは東京都の美濃部知事の参与をしていた時期があって、その時に「広場と青空の東京構想」の策定指導をしているのですけれども、その「広場と青空の東京構想」の中で、大きなプロジェクトもあるんですけれど、それと並行してシビルミニマムの空間化みたいな概念を入れている。そこでシビルミニマムと浅田さんの思想っていうのはつながっているんですね。要するにシビルミニマムっていうのはあの当時松下圭一さんが色々主張して、それを東京都が行政計画として受け入れてくれたんですけれども、数値目標なんですよね。だからその数値目標だけでは地区の環境は不十分だという意識は浅田さんの中にあって、これを生かすための空間化っていうのを考えていたと、そんな感じだったと思います。

 

田口:じゃあそういうことで、一応今日は予定の時間過ぎておりますが、私から申し上げると、あまりに驚きがありました。これだけ話をお聞きし、色々意見を頂戴しても分からないものが尽きないですね。今回のをまず記録としてしっかり残させていただきながら、また機会を見て、我々研究会自体もさらにしっかり勉強をしたうえで二宮さん、氏家さんのお話をどこかの機会で聞いてみたいと強く感じております。というわけで今日は本当、ありがとうございました。