2022年10月12日(水)午後3時より久しぶりの対面形式でNPO公開研究会を開催しました。会場は「なか区民活動センター研修室」で、参加者は9名でした。これまで、元横浜市都市科学研究室の岡村駿さんに対するヒアリングを計4回実施しました。そして、それ以前の都市科学研究室関係の中川久美子さん、横山悠さんへのヒアリング結果を総合化して、松本得三が室長を務めた都市科学研修室とは何だったのか、を問いかけました。我々は松本得三の都市科学研究室が、田村明と鳴海正泰という三人による「企画調整三角構造」の重要な一角を占めることを認識しています。その詳細な解明はまだ緒についたばかりです。以下は、当NPO理事で企画調整研究会メンバーの檜槇貢氏のブログから転載した、当日の会合の様子です。
「個人に着眼し一人称で語れる政策を進めるべきだ」
生活現場にこだわって市民生活白書を書くことを求めた松本得三さんの姿勢だった。
その答えは参加と協働だが、依然として一人称で語られていない。
朝日新聞の記者だった松本得三さんが横浜市に入ったのは1969年12月。
約半年が経って、7月に都市科学研究室長になった。
翌年1月には「市民生活白書(横浜と私)を編集し刊行した。
調査季報の29号から46号までを編集。
1974年12月には「市民生活白書(私の横浜)を編集・刊行。
1976年1月に横浜市を退職し、相模原市長選挙に出て、敗れている。
松本得三さんは7年の横浜市役所人生を過ごした。
10月12日(水)15時から2時間半。
NPO法人田村明研究会は「科学的行政と都市科学研究室」をテーマに研究会を行った。
研究会に参加した私は、「自治体政策装置としての『番外地』」を寄せた。
松本得三さんが研究室長を務めた都市科学研究室の役割のこと。
自治体の政策形成の装置だが、自治体官僚制とは「異なる居場所」と説明。
「番外地」だったと言った。
これは私の言葉ではなく、岡村駿さんがインタビューで発した表現である。
研究会の議論は行政のスタイルを超えたところに広がった。
その行く先は「市民とその生活現場」だった。
45年も経っているのに、それが現代に引き継がれている気がしない。
行政は3人称で語っている。
特定できない「彼ら」の問題を解決しようとする。
そのために施策や事業はだいたい外れていて、成果を出しえていない。
「私は」「俺は」「私たち」はどうするのか。
責任の伴う一人称は使うことができていない。
現場や対象者に接近せよ。
そうしないと、地域社会での問題への処方箋をつくれない。
2回の市民生活白書はそんなアプローチを見せようとしたものだ。
問題の構造や答えなんか、すぐに出せるはずがない。
そんな現状認識と行政批判に貫かれている。
地域づくりは一人称であるべきではないか。
参加と協働によって政策展開は市民の生活現場で展開されるはずだから。
その意図するとこを理解し得ているのか、心許ない。
このアプローチは人口減少過程で地域社会がシュリンクする現代。
あらためて問いかけ、答えを出す必要があるのではないか。
研究会終了後の横浜中華街でのビールと肴。
酔いを道連れに議論を覚まさせる。