2023年4月20日(木)午後6時より、NPO田村明研究会の社員総会での記念講演として、横浜市都市デザイン室の光田麻乃室長と桂有生係長から「横浜のこれからの都市デザインを考える『未来会議』の報告と今後」と題して講演があった。1時間の公演と30分の質疑応答で、参加者からいろいろな意見がでた。都市デザイン担当設置から50周年経ち、これからも横浜市にとって必要とされる存在であり続けられるかが問われる。なお、講演会の詳細については、テープ起こしをして公開しますので、少々お待ちください。
On 20 April (Thursday), 2023, at 6 p.m., Asano Mitsuda, Chief of the Yokohama City Urban Design Office, and Yusei Katsura, Deputy chief, gave a lecture entitled "Report of the 'Future Conference' on Future Urban Design in Yokohama" as a commemorative lecture at the general meeting of the NPO Akira Tamura Study Group. 1-hour performance and 30-minute Q&A session, Various opinions were expressed by the participants. The question is whether the urban design office can continue to be an indispensable entity for the city in the comng future, 50 years after the establishment of the Urban Design. The details of the lecture will be transcribed and made available to the public in due course.
講演者プロフィール Profile of lecturers
Mitsuda Asano光田 麻乃(みつだ あさの)Chief of the urban design office横浜市都市整備局都市デザイン室長
2000年、横浜市役所に建築職で入庁。
職員時代は、緑政局、都市計画局を経験し、昇任時に土木職に転職。教育委員会学校計画課、財政局、都市整備局MM21推進課、土木事務所、都市整備局企画課を経て、現職。横浜市出身。筑波大学時代に岩崎駿介氏(元横浜市都市デザイン担当副主幹)に師事。
Katsura Yuki桂 有生(かつら ゆうき)Deputy chief of the urban design office横浜市都市整備局都市デザイン室デザイン調整担当係長
東京芸術大学建築学科卒業後、安藤忠雄建築研究所、山本理顕設計工場を経て、2007年、公募による専門職として横浜市都市デザイン室。2010年正規職員となり、2023年より現職。主なプロジェクトに横須賀美術館、象の鼻パーク、新市庁舎コンセプトブックなど。鎌倉市生まれ、藤沢市育ち、横浜市南区在住。
光田麻乃様
桂有生様
昨日は、私たちのNPOの総会で講演して頂き、まことにありがとうございました。
以下、失礼を省みず、感じたことを率直に書きます。
お二人の講演を伺って、まず、役人らしくないところが「いいな」と思いました。また、内容は広い領域にわたり、先輩方からは心配する意見感想が出ましたが、私は、明日の横浜につながる前向きの話で、違和感を感じることなく、「いいな」と思ってずっと聞いていました。
昨日も申し上げたように、私は、都市計画を専門に学んだものでもなく、役所に勤めたこともありません。立場としては、勝手なことをいう市民の立場に近いと思いますが、横浜市民ではなく東京都民です。人生の半ばで田村明さんの「現代まちづくり塾」に出会い、晩年の田村さんから教えを受け、そのご縁でNPOの創立メンバーになりました。そういう私の立場から、お二人のお話は、大変よかったです。
そして、二つの点で、田村さんにつながっている、と感じました。一つは、市民のくらしから都市を考える、という視点です。もう一つは、対象はできるだけ広く、時間的にはできるだけ長く考える、という視点です。
役人としてのお勤めが長かった先輩方は、「一体どうやってまとめて行くのか」と心配しておられましたが、まずは、一度風呂敷をできる限り大きく拡げ、そもそも論を考える、というのが、私の感じている田村流です。
そして、昨日のプレゼンテーションにはそれが感じられたから、私は、「田村明のスピリットが感じられる」といいました。
田村さんの考えが生きているから、ということとは別に、私が横浜市民だったら、役所がこういうことを考えてくれている、ということは、大変ありがたいことで、信頼もできるし協力もできる、と感じました。どうやって形にして行くかは、これからの問題です。田村さんは、「できることだけやっていたのでは大したことはできない」といっていました。
昨日、改めて思い出しましたが、田村さんは役人ではありませんでした。光田さんが、「市役所がまずヴィジョンを提示する」とおっしゃったのにも、大いに共感しました。国をはじめ、このところ、パブリックセクターがヴィジョンを語らなくなっていると感じています。パブリックセクターが、自分を見失っている、と感じています。星さんが提案した「令和の六大事業」、表現は別として、21世紀のグランドヴィジョンをつくることに私も賛成です。
田村さんは役人ではなかったけれども、役人が本来やるべきことをやった。その微妙なところをよくわかっていて果敢にそれをやったのが田村さんです。最適解にたどり着くためには、一度風呂敷を拡げて全体を俯瞰することが必要です。役所のどこかで誰かがそれをやらなければ、役所は部分最適解をバラバラにやって行くことにしかならないでしょう。
昨日のお話を伺って、都市デザイン室が進めていることは間違っていない、と思いました。どうか、頑張ってより魅力的なまち横浜をつくって下さい。応援しています。
また、田村明を研究する私たちのNPOと今後ともよい関係をもち続けて頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
関根龍太郎
講演会の感想
青木淳弘
率直に言って、都市デザインというものが、わからない。
2023年4月20日の公開研究会は、いよいよポスト・コロナの時代の到来を感じさせられるように、ノーマスクも目立つ対面開催となった。NPOの正会員であっても直接顔を合わせるのは随分と久しぶり。そんな方が多く集まっていたのが印象的であった。
私は自分自身のこれまでの研究活動の中で都市デザインというものを考える機会を何度も持ってきた。言うまでもなく、田村明の中心的な業績はなにかと問われたときに、「都市デザイン行政」が挙げられることは少なくない。ここで括弧付きで都市デザイン行政という言葉をくくるわけは、端的にそれがいまだ十分に検証されていないという問題意識の表明と、そもそもその言葉で表現されるものがある限られた領域に閉じられているのではないかという疑問ないし仮説があるということを示すためである。
私自身は都市デザインという言葉には「ゆらぎやすさ」がつきまとうと思う。ある人が都市デザインというとき、果たしてその聞き手に同じものが想起されているだろうか。それは魅力的な歩行者空間の整備であり、ある人にとっては快適な住環境の整備であり、またある人にとっては都市に個性を与える歴史的な景観の保全になるかもしれない。かつてみなとみらいが「創造実験都市」を名乗っていた頃に盛んに議論されたように、市民の生活・文化までその概念を拡張して考える可能性も十分にありうるだろう。50周年の歴史を数える横浜市都市デザイン室の「正史」が生み出されたとき、何が選び取られ、何が捨て去られたのか。講演内容のようにPluriverse(=多元的な世界)を掲げるとき、果たしてその実現のためにどのようなひとの意図がそこに介入するのか。あるいは都市デザインは古いという見方もあるだろう。例えば、これからはアーバニズムの時代だ、という言説に対して、都市デザインならではと言える立場や価値はどのように表現することができるのか。
そうした「ゆらぎやすさ」の中で50年のときを超えて存続してきた都市デザイン室のいまを担う人たちは、どんなことを考えながら仕事をしているのだろう。私はそうした思いと共に公開研究会の場にいた。そして講演が終わると共に、冒頭に書いたような感想を持ったのであった。うまく噛み砕いて、飲み下すことができずにいた。率直に言えば、総花的な総合計画を読んだあとのような感覚に近かった。最大公約数的な良い都市空間。それは多くの人が「良い」と言えるもの。都心部の新しい可能性について、山と海を結びつけることについて、コミュニティを開いていくことについて…おそらく反対はないだろう。もし否定的な意見が出るとしても、それは実現可能性(予算や事業規模といった制約)があるのかないのか、という点に行き着くのではないか。まちづくりにはビジョンが必要だし、公的セクターがそうした未来像を語ることを否定されることはない。ただしそれを都市デザイン室がする必然性はどこにあるのだろうか。
総合計画のようだ、と思った。それはもちろん「つくっていく」ことが前提にある。広がっていく都市。つながっていく都市。しかし日本社会に蔓延る閉塞感や未来に対する予測を頭に浮かべるとき、それは、広がりを阻み、つながりを拒んでいるようにさえ思える。しかし私はむしろ、そこにこそ都市デザインを再考する契機があると考えている。田村明のまちづくりの(あまり注目されていない)面白さのひとつには、「つくらない」まちづくりの可能性を否定しなかったことがあると思う。いわく非定型流動のまちづくり。それは横浜からはじまった。都市デザインの歴史の継承というときに、目に見える都市の資源だけを見るのではなくて、目に見えないものにこそ注意を払い、価値を見出し、守り抜くことも重要だと思う。そしてそのためには、都市デザインを、工学的技術にとどめるのではなく、また官民連携という使い込まれた言葉に結びつけるにとどめることでもない、新しい都市デザインのあり方を構想していくことが求められるのだろう。その意味において、むしろ都市デザインが描きだす都市は、総合計画のアンチテーゼであってもよいはずであるとさえ思う。
田村明がいた時代の都市デザイン室は「企画調整」と共にあった。高度経済成長とその矛盾に対峙する都市経営。それは絶え間ない協力と対立を生みながら進んでいくまちづくりの時代であったと言えるかもしれない。そんな時代の都市デザインは、新しい都市のあり方を世に問いかけ、絵に描いてみせ、横浜という空間にそれを実現させてきた。しかし私はそれを正しくも同時に一面的な見方であると思っている。
都市のありかたをめぐる「企画」と「調整」という要素が駆動することで、かつての都市デザインは横浜市に大きな足跡を残した。そしてそれらは予算や事業規模というもの、すなわち行政とか組織の問題へと回収されて語られることが多かった。高度経済成長期と低成長・人口減少の時代は違うんだ…それはそういう時代だったからできたんだ、という半ば諦めにも似た言葉をこれまでに何度も聞いてきた。そうした時代の違いを等閑視するつもりは毛頭ないことを強調したうえであえて言いたいのは、都市デザインはもっと既存の行政という枠組みから自由であって良いのではないかということである。田村明という「外部人材」によってもたらされた自由。都市デザインはそのゆらぎやすさを逆手にとり、国に対する「自治体」独自のまちづくりを表現する手段のひとつであった。そしてそのゆらぎやすさのなかで、「組織や行政」としてではなく「個人」が許容される雰囲気があったのだろうということがこれまで我々が追究してきたことから予想される。そうであるならば、現代においても、もっと「個」の見えてくる都市デザインが横浜から再び生み出されてきても良いのではないかと思えてならないのである。
こうして考えてみると、都市デザインがわからない、という感想の所以もよりはっきりしてくる。身勝手にも都市デザインに対してラディカルなものを連想していた私には、あまりにも良い子すぎる内容であったということである。みんなと力を合わせてやっていこう、ということは良いことであることに疑いはない。しかし「都市デザインだからこそ」みんなと同じじゃなくたっていいのではないか、とも思うのである。小さな現場において独創性を発揮し、総合的な構想においてはもっと大胆に。田村明のまちづくりを継承する組織であるからこそ、そんな想いを密かに、しかし強い期待を込めて持っている。
最後に、言うまでもなく、今回講演してくださった光田麻乃氏も桂有生氏も傑出した現代のアーバンデザイナーであることは改めて強調しておきたい。語られた言葉のなかに未来の横浜を魅力あふれる場所にしたいという想いが溢れ、情熱が静かに迸るのを感じた。私がもっと個性ある都市デザインの姿を期待するのも、横浜という都市がまさにそうした逸材がさらに活かされる場所であってほしいという想いと表裏一体なのである。我々のNPOにできることは限られた領域にとどまることのない「都市デザイン行政」のあり方の模索と、そのためのさまざまな経験的検証にあると思っている。及ばずながらも、そうした活動が「都市デザイン行政」の活性化に寄与できるのであれば、これ以上に嬉しいことはない。また「都市デザイン行政」が未完のものであり、今後の50年、100年に向かって更なる発展がなされることを強く願ってやまない。それこそが田村明の残した「後世への最大遺物」を未来へ引き継いでいくことに結びついていると堅く信じるからである。
The public workshop held on April 20, 2023, was a face-to-face meeting. As if to remind us that the post-Corona era has finally arrived, there were many participants without masks, many of whom had not seen each other in person for quite some time, even if they are full members of our NPO.
I have had many opportunities to consider urban design in my own research activities. Needless to say, "urban design administration" is often cited when asked about Akira Tamura's major achievements. The reason I use the term "urban design administration" in parentheses here is simply to express my awareness of the problem that it has not yet been fully examined. There is also the question of whether what is described by this term is confined to a certain limited area, and whether its potential has not been fully examined.
I believe that urban design is a "fluctuating" concept. When one person refers to urban design, does the other person really have the same thing in mind? For some, it may be the creation of attractive pedestrian spaces, for others a comfortable living environment, and for still others the preservation of historical landscapes that give character to a city. As was actively discussed in the past when Minato Mirai district called itself a "Creative Experimental City," it is quite possible that the concept could be extended to the lives and culture of its citizens.
When the "authentic history" of the City of Yokohama's Urban Design Office, which is celebrating its 50th anniversary, is drawn, what was selected and what was discarded? What kind of people's intentions will be involved in the realization of the "pluriverse" in the city, as mentioned in the lecture? Some may say that urban design is old-fashioned. For example, how can the position and values unique to urban design be expressed in response to the discourse that the present is the age of urbanism?
I wondered what the current members of the Urban Design Office, which has survived over the past 50 years amidst such "fluctuating ease," were thinking as they worked. I was there at the public workshop with these thoughts in mind. As soon as the lecture was over, I had the same impression as I wrote at the beginning of this article. I could not chew it up and swallow it down properly. Frankly speaking, I felt as if I had just read a comprehensive plan that was generalized but lacking in substance. The greatest common denominator good urban space. It is what most people would say, "This is definitely good. There is probably no disagreement about the new possibilities in the city center, about connecting the mountains to the sea, about opening the community.... If there are negative opinions, they may come down to feasibility (constraints such as budget and project scale) or lack thereof. Town making activities City planning requires a vision, and the public sector should not be denied talking about such a vision of the future. However, what is the necessity for the Urban Design Office to do so?
He said it was like a comprehensive plan without substance. A comprehensive plan is, of course, based on the premise of "creating" a city. A city that expands. A city that connects. However, when one considers the sense of stagnation and uncertainty about the future that pervades Japanese society, it seems that a variety of factors are preventing expansion and denying connection. I believe, however, that there is an opportunity to reconsider urban design in this context. One of the (little-noticed) interesting aspects of Akira Tamura's philosophy on urban development is that he did not deny the possibility of "no-building" urban development. This is what is called "atypical fluidity" in city planning. This started in Yokohama. When we talk about passing on the history of urban design, I think it is important not only to look at the visible resources of a city, but also to pay attention to, find value in, and protect the things that are invisible to the eye. To this end, urban design should not be limited to engineering techniques, nor should it be limited to the familiar terminology of public-private partnerships. In this sense, I believe that the city as envisioned by urban design should be the antithesis of the tasteless comprehensive planning.
The Urban Design Office during Akira Tamura's time was with "Planning and Coordination. Urban management confronted the high economic growth and its contradictions. It was an era of city planning that proceeded amidst constant cooperation and confrontation. Urban design in such a time asked the world what a new city should be, showed it to the world in pictures, and brought it to life in the space of Yokohama. However, I believe this to be a correct and at the same time one-sided view.
Urban design in the past left a significant mark on the city of Yokohama, driven by the elements of "planning" and "coordination. And these are often recovered and talked about in terms of budget and project scale, i.e., administrative and organizational issues. I have heard many times people say with resignation that the period of high economic growth was different from the period of low growth and declining population...that it was only possible because it was such a period. While emphasizing that I have no intention of ignoring the differences of the times, I dare to say that urban design should be free from the existing framework of government. It was freedom that Akira Tamura brought to the former City of Yokohama from the outside. Urban design was a way for Yokohama to express its self-deterministic approach to urban development to the government. And it can be predicted from what we have studied so far that there must have been an atmosphere in which "individuals" rather than "organizations and governments" were tolerated during such fluctuating ease. If this is the case, it would be good if Yokohama could once again produce urban design that reveals more of the "individual" in the modern age.
In this light, the reason for my impression that I do not understand urban design becomes even clearer. I had selfishly associated urban design with radicalism, and the content of the lecture was too "goody-goody" for me. I have no doubt that working together with others is a good thing. However, I also think that "because it is urban design," it is not necessary to be the same as everyone else. Show originality in a small site and be more daring in a comprehensive conception. I have strong expectations for the Urban Design Office because it is the organization that inherited Akira Tamura's philosophy of urban development.
Finally, it goes without saying that both Ms. Asano Mitsuda and Mr. Yuki Katsura are outstanding contemporary urban designers. In their words, I could feel their passion for making the future Yokohama an attractive place overflowing and quietly welling up. My hope for a more distinctive urban design is based on my hope that Yokohama will be a place where such outstanding talents can be further utilized. I believe that what our NPO can do is to search for a form of "urban design administration" that is not limited to a certain area, and to conduct various empirical examinations for this purpose. We would be more than happy if such activities could contribute to the revitalization of "urban design administration," even if it is not enough. I strongly hope that the "Urban Design Administration" is not yet complete, and that it will continue to develop further over the next 50 to 100 years. I firmly believe that this is what will allow us to carry on the "greatest legacy for future generations" left by Akira Tamura.
By Atsuhiro Aoki