田村明の市民論第5回

第5回田村明の市民論を読む

田村明『自治体の政策プランナー』(ジュリスト増刊総合特集22号「地方の新時代と公務員」(有斐閣)PP203‐209〈1981年4月〉

 

実施の場所と期日:(2024年7月23日15:00~17:00横浜市役所1階横浜市市民協働推進センター

参加者:HAN Changhee,遠藤包嗣、田口俊夫、檜槇貢

 

 田村明さんはまさしく自治体の政策プランナーだった。私は田村さんに出会ってお別れするまでそう思っていたし、今でも田村さんは政策プランナーだと思っている。

自治体職員よ、自信をもって地域の政策づくりに向き合うべきだ。同じ公務員でも中央省庁のキャリア官僚とは違うものなのだから、全国各地で活躍することが可能であり、またそれが地域を発展させることになる。本稿はそんな励ましの論文である。自治体職員が自ら政策プランナーになろうとする際の応援歌であり、案内書である。

 私は私なりに自治体の政策プランナーを目指した。弘前大学大学院地域社会研究科専任教員を辞めてふるさとの自治体に就職した際のことである。当時の市長の依頼で2014年4月に佐世保市政策推進センターのセンター長になった。佐世保市という自治体のシンクタンクとして、政策プランナーの自覚があった。自治体政策に関する縦割り、部局中心に動く市役所の行動に対して、私なりにもがき苦しんだ6年だった。田村さんが書いていることは理解できるが、残念ながら、そこで想定された成果をもたらすことはできなかった。それでも私が追体験できたことは、政策プランナーは計画書づくりではなく、シクミを創り独自の地域社会を創り上げることだった。だが、私にはそれが実現できなかった。「計画書」から離れて動く力がいるということを学んでいる。(檜槇貢 2024年7月26日)

 

 田村さんが、1981 年に「ジュリスト増刊総合特集・地方の新時代と公務員」に書かれ た論文を久しぶりに読んで、最初に感じたことは、「不完全燃焼」でした。 中央・国に対して、「総合性」「地域性」「実践性」を強く主張し指導してきたのに、 横浜市での「6 大事業」が触れられていなかったことです。様々な課題・困難を乗り越え、 事業を軌道に乗せてきた、生きた事例なのに。 この特集号は 1981 年 4 月に発行されて、当時田村さんは企画調整局長を外れ、技監の 肩書でした。そして同年に横浜市を退職しています。 あえて、これからも多くの課題を乗り越えていかねばならぬ「6 大事業・横浜の街づく り」と「田村さんを継承する政策プランナー」に触れなかったのかもしれません。「自治 体の政策プランナー」の「序論」のように感じました。(遠藤包嗣)

 

 当時、田村さんが考えている「自治体の政策プランナー」について、少し理解が深まりました。地方自治体の公務員は、最終的には政策プランナーとしての役割を果たすべきだと考えていますが、理想論は言いやすいものの、現実とのギャップも感じています。首長の交代や外部的要因、人事などの状況を考慮に入れながら、プランナーとして計画設計だけでなく、実施設計まで行えるスキルを身につけるにはどうすればよいかを考える必要があると認識しました。答えはまだ整理できていませんが、悩みを重ねることが大切だと思います。また、当時の田村さんの立場上、自由に意見を述べることが難しい場面もありましたが、書き記すことで思考を整理することの重要性を改めて感じました。―韓―

 

  昨日の「田村明読書会(仮称)」の展開は面白かった。田村明が書かなかった、又は書けなかった背景を参加者が想像し意見交換できた。田村が本文で、自治体政策プランナーの始まりとして上げた具体事例が企業との公害防止協定(1964)と宅地開発要綱(1968)で、なぜ田村に率いられた企画調整室(のちに局)がチームとして取り組んだプロジェクトを事例に挙げなかったのかが議論となった。それには時代の背景をみる必要がある。田村がジュリスト増刊総合特集22「地方の時代と公務員」に彼の論稿「自治体の政策プランナー」を書いたのは19814月である。ただし、彼の肩書は「横浜市都市科学研究室長」となっている。田村は、すでに企画調整局長を1978年細郷道一が市長になった時点で左遷され、「技監兼都市科学研究室長事務取扱」という屈辱的な扱いにされていた。19813月末に横浜市を退職し法政大学に同年4月から移るのだが、この原稿を書いた時点ではまだ市職員だった。

 田村とそりの合わない細郷市長は、田村に育てられた横浜市の有能な官僚たちの反乱を恐れた。田村を積極的に排除したいが、それではその有能な官僚たちを使いこなせないと、組織運営上の不安材料となる。それを恐れた。しかし、彼らは自分たちが担当したプロジェクトに邁進した。政権が変わってもやることは同じである・・・という行政官僚意識が作用した。六大事業はすべて動いていった、一番の目玉事業の「みなとみらい」も田村の腹心の小沢恵一や広瀬良一が十二分に頑張った。田村を慕って入庁した若手専門職員たちも頑張った。細郷市長は安心した。田村がいなくなってもミニ田村がいる。

 田村も自分の腹心たちがそれぞれのプロジェクトで頑張っていることを理解していた。それゆえ、現在進行形のプロジェクトに言及するのを控えたのかもしれない。腹心の部下や若手職員たちは田村を慕い、プロジェクトを進めるそれぞれの局面で「田村だったらどうしただろうか・・・」と自問自答した。田村は昔から職員たちに向かって「君はどう考えるのか・・・」を問いかけていた。

 もう一つ、田村には「革新自治体横浜市の田村明」という説明書きが常につきまとう。革新自治体のリーダー的存在だった飛鳥田一雄市長がいなければ「都市プランナー田村明」も生まれなかったのは確かである。では、田村の都市づくりは「革新自治体的」だったのだろうか・・・それが曖昧になっている。田村はこの論稿で「選挙次元のスモール政治」から離れることを推奨している。しかし、自治体の首長は選挙に当選しないと継続性がなくなる。いや、それを超越するのが自治体職員だ、と言い切るまでの学術研究での結論はでていない。1960年代から70年代にかけて、横浜の新住民の期待と地元経済界の期待があった。その二つの期待に飛鳥田市長、いや都市プランナー田村明が的確に応えた、という説がある。横浜を元気にする大プロジェクトを田村は推進しつつ、宅地開発要綱で人口急増に対応する学校・保育所等の最低限の公共施設を充実させた。他の革新自治体では見られないものが多い。

 田村の論稿を読むことは、その背景を深く知ることによって、意味が深まる。それゆえ、今後も続けていく。(田口俊夫)

 

次回の課題図書は297 田村明:「飛鳥田横浜市長が残したもの」地方行政8380号(時事通信社)pp2-9,1990.4  

予定は、8月13日(火)15:00~17:00 会場:横浜市市民活動協働推進センター(市庁舎1F)開催