田村の実践の理論

 いまの時代に「自治体」という言葉はありふれている。あるひとはそれを地方公共団体の言い換えに過ぎないと言うかもしれないが、かつて「自治体」という言葉に強い意味を託した地方自治のムーブメントがあった。1960年から約20年にわたって続いた革新自治体の時代である。その理論的な支柱であった政治学者・松下圭一(1926-2015)によれば、それは「市民自治」や「都市型社会」を前提として国の機構や法制度を「自治・分権型」に再構築しようと試みた最初の画期であったという(松下・中嶌 2010: 77)。言うまでもなく、1960年代は爆発的に増加する人口とそれにともなう社会資本の不足、また公害や交通問題の発生など、数多くの都市問題が噴出した時代であった。したがって日本社会における旧来の中央集権・農村型社会からの転換という現実に即した都市自治のモデルが求められたのであった。

 都市政策プランナー[i]・田村明(1926-2010)はこれまでそうした革新自治体を代表する横浜の飛鳥田一雄市政(1963-1978)におけるブレーン[ii]のひとりと目されることが多かった。実際に現代に至る横浜市のインフラの骨格を形成した六大事業や都市デザイン行政などの歴史を語るうえで田村の名前は必ず参照される。しかし革新市政期・横浜という文脈ではなく、総体としての革新自治体における田村の役割はどのようなものだったのだろうか。じつはこの点に関してはこれまで十分な検討がなされてこなかった。そもそも革新自治体でさえ、地方自治における過去の遺物として扱われ、現在積極的に研究が進められているとはいいがたい。その理由のひとつとして我々[iii]がいま仮説を持っているのは、革新自治体の「政策が先進的」であるとまとめられてしまったためであるというものである。すなわち同時代に提唱された政策がのちの都市政策や文化政策を先取りするものであるために、それらは、ときに乗り越えられるべきものとして、あるいは現在の都市政策の土台として参照されるようになった。松下らも「先進的な政策」を『資料・革新自治体』(地方自治センター編,日本評論社刊,1998)のような形でまとめている。もちろんそれは各々の革新自治体の政策を相互に参照して、さらなる発展に対する期待が込められたものと解される。しかしその一方で革新自治体内部の実践やその受け皿たる職員のあり方については驚くほど検証がなされてこなかった。この点に革新自治体の批判的継承に問題があると我々は考えている。

 もちろん松下自身もそうした問題については自覚的であり、自治体学会の設立や職員の三面性論(自治体職員が公務員であり、労働者であるとともに、市民であることを自覚的に捉えて「市民として考える」職員参加のあり方を模索した)などを展開している。重要なのは「先進的な政策」の中身を問う以上に、「なにが先進的」だったのかという実践を丁寧に検証することであると思われる。興味深いことに田村明が横浜市を退職後に唱えるようになる都市やまちづくりの見方、また晩年の「市民の政府」論に見られるような自治体の位置づけは、松下が1980年代以降に提唱した自治理論(シビルミニマム、地域民主主義、自治体改革)にかなりの部分で響き合っている。実際に両者は革新自治体の時代以前から交流があり、1980年代以降もたびたび対談を行ったり、ともに自治体学会の設立を主導したりするなど、強い結びつきが見られる。ここで両者の違いや共通性に深入りするわけではない。重要なのは政策ではなく、システムとしての革新自治体と具体的な実践のあいだをどのように両者が結びつけようとしていたのかを見直すことである。改めて革新自治体の時代は変化の時代であった。その変化は現在の都市をとりまく変化とは異なるものの、変化に対応する都市自治のあり方を模索した試みとして十分に参照される意義があるだろう。我々はこれまで革新自治体における職員個人の実践に着目して研究活動を進めてきた。そこで得られた研究の成果を田村や松下の自治体理論と結びつけることで、革新自治体の批判的検討やその現代的な意義の展望へとさらに開いていくことを当面の目標としたい。(青木淳弘)

 

[i] 田村明は横浜市退職後(1981)、それまで都市プランナーを名乗っていたが、最晩年は「都市政策プランナー」と名乗るようになった。恐らく、「都市プランナー」は物的側面にのみ着目した印象となるめ、田村が本来意図した総合的な自治体行政を実現する政策に焦点を当て「都市政策プランナー」としたと考えられる。田村の横浜市役所時代の役割とその後の活動姿勢を的確に表現するものとなった。(田口俊夫)

[ii] 飛鳥田のブレーンには政治担当の鳴海正泰(1931-2021)がいた。鳴海は都政調査会時代から松下圭一との共同研究で親交を深めてきた。鳴海は自分が、日本の都市計画コンサルタント第一号である環境開発センター代表の浅田孝(1921-1990)や田村を飛鳥田と結び付けたと述べている。(田口俊夫)

[iii] NPO法人田村明記念・まちづくり研究会では、田村明が提唱実践した企画調整機能について定期的に研究会を開催してきた。その一環で、当時横浜市にあった都市科学研究室(1970-1990)について研究を進める過程で、田村明の市民論やまちづくり論に松下圭一がおおきく影響しているのでないか、との仮説を得た。(田口俊夫)

 

以下の写真は自治体学会鹿児島日置大会(2024年8月)での当NPO会員による発表風景