今回の読書会のテーマは、「横浜新貨物線問題」をとりあげました。市民派飛鳥田一雄市政で最大の難関であったテーマです。一回では終われないので、次回(2月17日月曜日午後3時より、横浜市民協働推進センター)も取組みます。
20250127
檜槇 貢
第15回田村明読書会資料 横浜新貨物線問題をテーマに
(文献)
田村明『都市プランナー田村明の闘い―横浜〈市民の政府〉を目ざして』pp.228‐230(学芸出版社)2006.12
飛鳥田一雄「新貨物線問題」『生々流転飛鳥田一雄回顧録』pp.140‐142(朝日新聞社)1987.9
鳴海正泰『自治体改革のあゆみ』pp.204‐207(公人社)2003.7
宮崎省吾『いま,「公共性」を撃つ:ドキュメント横浜新貨物線反対運動』2005.11(復刻)
(問題状況)
☆横浜新貨物線問題:昭和41年(1966)年4月、国鉄は横浜・鶴見東戸塚間に貨物線を新設する計画を発表した。この計画は東海道線に並行して走る従来の貨物線を旅客専用に転換することとし、その代替措置として新たな貨物輸送路を確保する。この事業によって、東京湘南間の通勤ラッシュ緩和と貨物輸送の近代化をねらっていた。ところが、新貨物線予定地の住民等は「横浜新貨物線反対連絡協議会」を結成し、白紙撤回を求めて国鉄を全面対決の姿勢をとった。この地域住民と国鉄の対決に横浜市は結果として巻き込まれ、反対運動住民等による市長室占拠等の事態を生じさせた。
☆革新市政が求めていた「住民本位」の政策対応ができず、横浜市はオカミとしての行動をとった。
〇飛鳥田、鳴海、宮崎、田村の4氏の課題認識と市民・自治体については次表。
|
課題認識 |
市民、自治体 |
飛鳥田一雄 |
・損を承知でやらなきゃ革新市政の意味はない。条件闘争として対処した。 |
・混雑のままで鶴見事故の再発を招きたくない。 ・関係をこじらせると市政はやっていけない。 |
鳴海正泰 |
・住民から攻められるのはつらい。 ・住民を新線開発から守りたいという認識を反対運動に逆手に取られた。 |
・住民運動が革新自治体の弱い所をついてきた。 ・国鉄との協定は住民運動を踏まえた成果であって、市民重視の政策になった。 |
宮崎省吾 |
・横浜市は主観的善政策であって、住民本位の政策対応をとりえなかった。 ・革新市政の正体がわかった |
・新貨物線建設を地域住民の立ち位置から考え、住民側からの計画づくりを進めるのが自治体なのではないか。 |
田村明 |
・飛鳥田市長はあえて国鉄と住民運動の仲介に乗り出した。 ・将来に使えるようにする計画論として対処すべきだったが、それを許す社会状況ではなかった。 |
・事業者は国鉄であり、従来なら市の出る幕はない。市民参加の市政は国鉄と反対住民の仲介に乗り出した。だが、反対住民は飛鳥田市長を「当事者」として位置づけ、姿勢・対応が追究された。 |
第15回田村明読書会 2015.1.27.
横浜新貨物船問題をテーマに(感想) 遠藤包嗣
1,横浜新貨物線問題のはじめ
昭和41年(1966)に、国鉄の「第3次長期計画」が発表され、その中で首都圏周辺の通勤輸送緩和として東京―小田原間では、大船―東京間での通勤線複線化を構想し、旧来の貨物線を通勤線(横須賀線対応)として活用し、新たに鶴見から戸塚への貨物専用線を新設する提案をしていた。
港北区篠原地区で、貨物線が通るという話が41年8月頃話題となり、9月に入り地元選出議員からの概要の説明を受け、国鉄幹部に面会し計画を確認する。地域の実情を理解しない国鉄側の一方的な計画・スケジュール提案に、地元住民集会で「篠原地区貨物線反対期成同盟」が結成された。9月25日に「住民総決起大会」が開催され、国鉄の計画が正式に決まっていないことをテコに、関係当局、横浜市長、市議会への陳情活動、国鉄との交渉などが動き出した。
2,反対同盟の運動
地域住民にとって、生活基盤を侵される「提案」が一方的に出され、協力を強制される事態に対し、誠意を持った説明と議論、疑義に対する対策の説明などを求める姿勢は画期的であった。当時深刻だった公害問題に対する反対運動と同様な視点といえる。
3,飛鳥田横浜市長の対応
①「通勤混雑の緩和」を目的とした事業提案を自治体行政として拒否することはできない。反対する住民と事業者の国鉄の間で、十分な対話がされ、合意に至るように汗をかく。
両者が満足する合意は難しく、「損を承知でやる」姿勢。
②計画案の精度は、現地での住民との対話によって改善されるべきで、一方的に事業を推進する姿勢は問題があると認識。昭和42年5月に国鉄総裁あてに貨物線計画は市の計画や市民への影響を考慮するように要望書を提出。8月、住民が不安を感じている想定される騒音・振動などの弊害について、独自調査を指示した。
③昭和43年3月、市長が座長となり、両者の会見をする。昭和44年9月、強制測量実施で住民にけが人が出た時点で、あっせん案を提案し、両者が話し合いを決める。
④昭和49年(1974)に、用地の強制収用のための土地物件調書に代理署名をする。(神奈川県収用委員会による代執行手続きが進む。
4,田村明の関り方の考察
①昭和43年(1968)に入庁し、新設された企画調整室企画調整部長として6大事業の総合調整役となった。
②当初、高速道路横羽線の都市計画決定(高架構造案)を、関内都心部の都市づくりのために地下化に変更する建設省との交渉と、同時に乱開発が進む郊外部の開発に対するルール作りとして宅地開発要綱作成にかかる。「横浜市宅地開発要綱」は8月に制定され、高速道路の都市計画変更も12月に決定される。
③都市づくりの立場から見ると、「新貨物線計画」は国鉄の独自計画であり、制度的に自治体が指導できるものではなかった。トンネル構造を主とする通過型の鉄道ルートは、既存道路と連絡部を持つ高速道路ルートと異なり、ハードな立場からの自治体の関りはほとんどなかった。
5,政治家・革新自治体市長と行政責任者としての市長
昭和38年に横浜市長に当選した飛鳥田氏は、「子供を大切にする市政」「だれでも住み
たくなる都市づくり」を掲げ、公害問題や緑の保全など、市民生活の改善に向けて、住民
側に立って事業者と対峙する「革新的」な姿勢を強調していた。39年に「公害センター」
が設置され、大気汚染に対する企業との交渉・指導で「公害防止の横浜方式」がアピール
された。新貨物線問題でも昭和42年・43年と、住民の立場を汲んで、国鉄に対して誠意
ある対応を求めてきた。
「革新自治体」の長としての政治的発言は目立つが、「自治体」の長としての責任は、
住民の側の問題提起を受け止めて、対策を検討し、推進派と反対派の合意を図る、「条件
闘争」が基本となる。高速道路や大規模開発などでの住民の反対運動も多数あったが、技
術的な対策や、事業範囲の変更、地域環境の改善策など様々な検討を重ねて、おおむねの
合意を導き、事業を実施してきた。その意味では、現実的で、有能な行政責任者であった
といえる。
横浜新貨物線問題と田村明
2025年1月31日/2月2日
田口俊夫
相鉄東急直通線(2023)と相鉄JR直通線(2019)が開業した。相鉄西谷駅と羽沢貨物駅間は新規路線のトンネルで結ばれた。相鉄東急直通線は、そこから新規に新横浜を通り大倉山から綱島にかけて新路線を作り日吉で結合する。相鉄JR直通線は羽沢貨物駅から旧横浜新貨物線を使い、生麦から新鶴見へと通じる。首都圏の輸送力増強でなく、相鉄沿線の不動産価値を上げる渋谷新宿への直通路線である。相鉄は東急(渋谷・目黒)につながることで沿線のイメージアップを図り、JRとつながることで新宿駅に限らず東京駅ともつながることが技術的に可能となる。JRは相鉄とその背後に広がるマーケットを見ているのかもしれない。
横浜新貨物線が開業後どれだけ使われているかの統計やデータにアクセスすることは難しい。ただし、JR貨物のコンテナ時刻表がネット公開されている。横浜羽沢貨物駅での方面別コンテナ発時刻を見ると夜間と日中も若干使われているが極めて少ない。横浜羽沢貨物駅構内で、相鉄JR直通線は相鉄東急直通線から分岐して短く専用線を通り横浜新貨物線に乗入れる。新貨物線は相鉄東急直通線に合流せず戸塚方面に分岐する。相鉄JR直通線は時間当たり2本から3本である。相鉄東京直通線は時間当たり4本から6本まであり混雑している。相鉄JR直通線の増発を阻害するほどの貨物輸送があるとはいない。相鉄の方が受ける余裕がないのかもしれない。
通勤地獄を解消するために新貨物線は構想され、鉄道貨物輸送は存続すると信じられた。新貨物線の現状を飛鳥田はどう説明するのだろうか。横浜新貨物線反対運動(1966-1981)で飛鳥田市長と鳴海正泰は、公害対策横浜方式を沿線住民と国鉄との問題解決で適用きると判断した。原因事業者と住民との間に市が入り調整役となる。横浜方式は根岸湾埋立地に始まり、後に田村が担当した日本鋼管扇島移転問題で集大成となる。
ただし1966年時点で、田村明はまだ横浜市に入っていない。1968年に市に入った田村は飛鳥田市長からの要請で、首都高速道路地下化事案に取りかかる。当該事案の調整が成功するかの勝算はなかった。焦点となった地下化による追加負担を道路部門幹部の発意で、新規の市による街路事業を地下化と同時施工することで実質裏負担した。最終調整段階で運輸省が地下鉄路線変更に強硬に反対したため、飛鳥田盟友の国会建設委員会委員長(社会党)の斡旋で建設省が折れた。まったくきわどい調整作業であった。結果として1年間にわたる調整に成功した田村は市役所内で市民権を得た。
地下化事案では飛鳥田の意向を受けて田村が動いた。仮に、田村が地下化事案の後で新貨物線問題に関わったとしても、飛鳥田の意向で田村が行動するとはならない。飛鳥田と鳴海は既に違う方向を向いていたからである。では、仮に田村が当初から当該事案に係わったならば、田村はどう対処したのだろうか。そして、政治家飛鳥田は田村と組み、どう異なる動きを作れたのだろうか。田村は国鉄のウソを科学的かつ客観的に見抜き、対案や廃止を提案したかもしれない。つまり、貨物線を新設しないでも、横須賀線に既存貨物線を使い輸送力増強を図ることはできた。それは、国鉄が貨物事業を辞めることになる。宮崎省吾たちが求めたように、市が反対同盟と一緒に貨物線問題を熟慮し結論をえる。仮に国鉄や運輸省に負けても、一緒に負けることになる。それでいいのでないか、と考えるのはどうだろうか。
下の図は、
上:相鉄東急直通線と相鉄JR直通線 JRTT鉄道・運輸機構HPより転載
中:相鉄・JR・羽沢貨物駅の位置関係 ©T.Taguchi2025
下:今昔マップより転載 左が相鉄直通線建設前、右が建設後
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国家的公共性への対抗軸の不在を問う
檜槇 貢
2025年2月4日
直接民主主義としての自治体行政。
その実験を始めていた飛鳥田横浜市政の時代のこと。
そこに東京・小田原間の線増計画が国から持ち出された。
この計画は1965年1月閣議了承された国鉄第3次長期計画にあった。
首都圏の旅客と貨物の輸送力向上であって、この事業はまさに国家的公共性の実現を目指していた。
市民参加を標ぼうしていた革新自治体の横浜市。
貨物線新設反対を掲げる対象地域の市内の住民にとって、そこに居住する市民の安全と安心を守ってくれる横浜市への期待は大きかった。
革新自治体の横浜市は、住民としての自分たちの声を聞き、そこに居住する住民のために動いてくれると信じていたに違いない。
横浜市は、この問題の当事者になり、反対住民の側に立って動いてくれると思っていた。
だが、現実は運輸省、国鉄、神奈川県と横浜市は重なっているように見えた。
住民から見える「行政」は国、県、市の区別がつきにくい。
横浜市が声高に住民の味方だと言ってもそれは伝わらない。
行政は住民のために動くものが、犠牲を強いることが少なくないことを知っている。
実際に運輸省以下の「行政」はこの線増計画への住民参加を行なっていない。
1964年東京オリンピックの2ヶ月前に事業大綱が発表された。
国家的公共性を押し付けたように見えたであろう。
横浜市はそれを問題にしたという形跡がない。
横浜市は国から見て行政の末端にある。
革新自治体と言いながら、国家的公共性の片棒をかついでいるのではないか。
線増事業を進めながら、市は第三者としての仲介役を演じ、鉄道事業の公害防止協定を結ばせる。
反対住民にとって、横浜市は自分たちの味方ではないのではないか。
横浜新貨物線問題は横浜革新市政の汚点になった。
旗色がはっきりせず、反対住民等による市長監禁等につながった。
田村明さんも「(飛鳥田横浜市長は)自分の言い出した市民参加に大きく足をすくわれることになった」(田村明「都市プランナー田村明の闘い~横浜〈市民の政府〉を目ざして~」(230頁)と書いている。
何が問題なのか。
私なりに思うことは、この事業が提起している国家的公共性に対する横浜市側からの対抗軸が不在だったということだ。
住民の参加はもとより必要だが、当時の横浜市はもつべき市民的公共性とそれを具体化する手法がなかった。
その後の横浜市のこと。
1970年7月に田村明等が都市科学研究室を発足させた。
その後、都市科学研究室長に朝日新聞の松本得三氏を迎え、住民・市民ニーズを追い求め、市民の生活現場から自治体としての制度や取り組みを創造する活動を始めた。市民白書や自主研究を基礎においた調査季報の発信である。
都市としての問題とそのあり方を模索していた。
革新自治体は政治的保守の反勢力になるためのものではない。国家的公共性をこえた地域重視の市民的公共性の発見とその実現である。田村明が市民の政府としての自治体を説いていたことを思い出している。