論文・論考
2017年
5月
22日
月
MM21論文が日本建築学会計画系論文集に掲載されました
NPO法人田村明記念・まちづくり研究会の田口俊夫です。この度、みなとみらい21に関する研究を再度まとめ直し、日本建築学会査読論文の審査を通り、「計画系論文集」2017年5月号に掲載されることとなりました。
会員とご支援いただいている方々に、お目を通していただきたく、当NPO法人のHPに掲載することといたしました。
当該論文は、2016年4月3日の記念シンポジウムの場で発表させたいただいたものを、まとめ直したものです。より分かり易く内容を整理したつもりです。みなとみらい21事業に関わった方々のご苦労を学び直す上で、参考にしていただけると、幸いです。
では、皆様からのご意見をお待ちします。
2017年
2月
17日
金
2月10日(金)公開研究会報告
宅地開発要綱田口論文・第二回研究会
開催日:2017年2月10日(金)午後6時~8時30分
場所:横浜市民活動支援センター4階セミナールーム2号
参加者:8名(講師含む)
2017年
2月
13日
月
MM21開発に関する参考資料
この度、日本建築学会の計画系論文集に小生研究『横浜みなとみらい21開発中央地区における開発方式の時系列的分析』が最終の論文審査に通りました。
ついては、情報開示請求で取得し研究に活用した資料を多くの方々に活用していただくために、本NPO法人のHPで掲載公開することと致しました。
当該研究論文は、2016年4月3日NPO記念シンポジウムで発表させたいただいた論文『みなとみらい21開発の経緯』が土台です。
最終的には今年5月の論文集に掲載予定です。なお、当該情報開示資料の公開は、開示許可に際して開示元からご承認を頂戴しておりますことを申し添えておきます。
田口俊夫
2017年
2月
04日
土
2月10日(金)定例研究会開催のお知らせ
定例研究会を下記のとおり開催します。会員または会員外でも参加できますので是非お誘い下さい。
NPO法人田村明記念・まちづくり研究会 定例研究会
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テーマ:「革新首長と宅開要綱」
発表者:田口俊夫(当NPO副理事長)
日時:2月10日(金)午後6時~
横浜市中区桜木町1-1-56みなとみらい21クリーンセンタービル4階
資料代:500円(当会会員は無料、賛助会員へのお申込みはこちらから)
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2016年
12月
08日
木
12月2日(金)公開研究会報告
開催日:2015年12月2日(金)午後6時~9時
場所:横浜市民活動支援センター4階セミナールーム2号
参加者:9名(講師を含む)
議題1 田口俊夫『革新自治体における開発コントロール手法形成の経緯と変化-横浜市における宅地開発要綱を事例として-』
議題2 永山克男さん『宮城大学における博士論文の進め方』
2016年
11月
29日
火
12月2日(金)定例研究会開催のお知らせ
定例研究会を下記のとおり開催します。会員または会員外でも参加できますので是非お誘い下さい。
NPO法人田村明記念・まちづくり研究会 定例研究会
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講師:田口俊夫
テーマ:「田村明の宅地開発要綱についての一考察・横浜の30年後の姿」
日時:2016年12月2日(金)18時~
横浜市中区桜木町1-1-56みなとみらい21クリーンセンタービル4階
資料代:500円(当会会員は無料、賛助会員へのお申込みはこちらから)
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2016年
11月
17日
木
横浜市会議員・高橋正治さんのミニ研究会報告
2016年11月14日(月)午後7時30分より9時まで
桜木町市民活動支援センターセミナールーム2号
出席者・8名(講師含む)
市会議員の人の話を聞くのは初めてであった、まあその程度の地方政治に対する意識しかない田口であるが。市会議員として緑区選出で14年目の高橋正治さんをお招きした。高橋さんは民間会社の技術者から議員に転身した。
宅地開発要綱について研究を始めた田口が、いまの市会がかつて宅地開発要綱で定めたような開発者負担を求める「条例」を果たして制定できるものなのかどうか、を議員の立場から意見を聞いてみたいと思いお願いした。
2016年
6月
22日
水
田口俊夫論文『みなとみらい21開発の経緯』
当該研究論文は、2016年4月3日に開催された『田村明からのメッセージ』記念シンポジウムの場で発表されたものです。これまで詳細には語られることがなかったみなとみらい21開発に係る歴史的事実を幾ばくか掘り起こしたものです。
横浜のまちづくりには、田村明が中心となり、多くの人々が関りました。かつ長い時間の流れの中でその理念と姿勢を継承した人々がいて、そして今後もいることにより、今のみなとみらい21とこれからの横浜の歴史がつくられていきます。論文作成に際してはおおくの人々、そして研究仲間に支えられました。有難うございました。
(田口俊夫)
2015年
12月
24日
木
2015年12月18日 研究会報告
田口会員より1年以上に亘る調査研究活動を経て、「みなとみらい21事業の経緯」を分析した論文発表がなされました。まずは、会員(正会員、賛助会員)限定で論文発表会を聞き、当日参加した会員間で意見交換が活発に行われました。
田口論文は、昭和39年の六大事業構想の提案に遡る戦後直後から、田村明が横浜市に入り現場で三菱や国鉄との調整を図り、田村が持論とした「民間主体の開発」方式を昭和53年3月まで追いかけた第一期から始まります。造船不況や飛鳥田市長退任で三菱造船所移転問題が停滞した後に、飛鳥田を継いだ細郷市長を補佐して企画調整局の小澤恵一企画課長が、再び三菱との再調整を図り、事業化の枠組みを作った第二期に繋がります。開発に不安をおぼえる三菱は先導する公的開発を求め、結果として港湾業界の圧力もあり、みなとみらい21の事業規模は大きくふくらみ、埋立地が拡大していきます。57年4月の小澤異動後に着任した、同じく田村明の薫陶を受けた廣瀬良一が、みなとみらい21の事業化を受け継ぎました。廣瀬は三菱からも土地の譲渡を受け、関係者が共同して事業化を開始します。ただし、当初からの懸案事項であった国鉄との調整は遅れてしまったのです。なお、当該論文はまだ途中段階であり、当時の関係者を含め会員からのフィードバックを受けた上で、最終的な取りまとめを行うこととなりました。
2015年
7月
12日
日
みなとみらい都市開発での負担の構造
田村明たちが意図したみなとみらい開発計画は行政主導・民間主体の開発手法であった。当時の社会経済的情況のため、飛鳥田市長と田村企画調整局長在任中に開発が目に見えて動き出すことはなかった。その後の細郷市長時代に受け継がれたといえるが、その開発手法は田村たちが意図したものと違っていたという。それゆえ、双方の手法を比較検証することによって、田村たちの意図を浮き彫りにしたいと考えた。
2015年
7月
12日
日
みなとみらい事業前史での小さな埋立て
田村明著『田村明の闘い』に三菱造船所内の埋立て申請を取り下げさせた、という記述があった。市が埋立てを行い三菱に貸与したという。不思議な話であった。みなとみらい開発の中心部となる造船所で、なぜこのような話がおこり、その意義は何であったのかを探った。
2015年
5月
04日
月
いまやっている作業・・・・・・
(文:田口俊夫)
みなとみらい(以下「MM」と言います)について調査研究を進めています。MMのパンフレット類はたくさんある、しかし昔のことは書かれていない。私にとっての「昔のこと」とは、昭和39年に六大事業が発表されてから昭和53年に飛鳥田市長が去り、細郷市長が就任し急にMMが事業化に向けて動き出す昭和53年から58年頃にかけてである。
2015年
3月
26日
木
田村明の初仕事としての香川県観光総合計画づくり
環境開発センターによる初仕事となる『香川観光綜合開発計画マスタープラン報告書』を横浜菊名の田村明さんの書斎で発見した。不思議なことに報告書に年代が記されていないが、1962(昭和37)年当時のものである。浅田孝が主催する「環境開発センター」に入社する田村明はまだ日本生命大阪本社にいた。田村は前年、休暇をとって浅田孝たちの作業を手伝った。高山英華東大教授も加わり、瀬戸内海でタコ釣りを楽しんだ写真らしきものが残っている(田村家資料)。そして、田村明は入社前の1962年8月、環境開発センター名で『地域計画機関のあり方について』を発表している。まだ日本生命在職中だったが、これから転職する都市計画事務所のあり方と決意を述べた。総合的でなければならない、と提言した。田村36歳であった。1962年暮、都市づくりを行うプランナーになるために東京に戻り、1963年1月環境開発センターに正式に転職する。
2015年
1月
26日
月
横浜市史資料室『小澤恵一寄贈資料集』について
小澤恵一(敬称略)は、昭和48年に飛鳥田・田村時代の企画調整局企画課長に就任し、昭和53年以降の細郷道一市長時代に「みなとみらい開発」の具体化におおきな足跡を残しました。残念ながら昨年末に亡くなり、小澤恵一が所蔵していた当時の資料類が一括、横浜市史資料室に寄贈されました。現在、副本づくりのための資料撮影が進められています。原本は請求により適宜公開されています。
2014年
10月
31日
金
Webマガジン『はまれぽ.com』に掲載されました
高速道路地下化に関連しまして、研究会幹事の田口氏がWebマガジン『はまれぽ.com』の取材を受けました。以下のリンクより記事をご覧ください。この記事は現在500名以上の方から「面白かった」とのご評価をいただいており、記事に対するコメントも5名の方からいただいております。研究会のテーマに対する市民の方々の潜在的な関心は高いのかもしれません。
<Webマガジン『はまれぽ.com』>
横浜市営地下鉄桜木町駅の「使われていない幻のホーム」、今もぴおシティにあるって本当?(2014年10月15日)
※田口氏は当該記事の2ページ目に登場します。
2014年
10月
30日
木
第4回公開研究会(『高速道路の地下化』第2回)開催報告
去る10月29日、開港記念会館にて第4回公開研究会(『高速道路の地下化』第2回)を開催しました。当日は会員10名ほどが集まり、田口氏の発表の後、参加者全員で活発な意見交換をしました。議事録は後日公開予定ですので、しばらくお待ちください。
10月29日の発表を終えての感想(田口俊夫)
田口の発表の後、参加者全員で意見交換をした。なぜ田村明は昭和44年3月4日大雪の日に建設事務次官に会いに行き、一体何を話したのだろうか。大通公園にランプをつくれなどというレベルの話を事務次官とするために出向いたのか……、そんな話は専門官や担当者レベルで済む話でないか。有力政治家を挟んでする話ではない、本当には何の話をしたのだろうか。
2014年
5月
13日
火
横浜市の借金を増やしたの誰か?
自治体の公的借金である「市債」について調べてみた。
横浜市の借金を増やしたのは、飛鳥田・田村であるとの見方をもつ市会議員や研究者がいる。あの時代にあれだけの事業ができたのは、飛鳥田・田村が借金をしまくったからである、との決め付けである。
2014年
5月
07日
水
高速道路地下化に関る新発見資料
田村家より横浜市史資料室に寄贈された田村明関係資料から、横浜都心部における首都高速道路地下化に関するものを発見しました。昭和43年3月22日に開催された市首脳部会議議事録です。まだ田村明は市に入っていません。この首脳部会議を契機に、高速道路の地下化はおおきく動き出すことになります。
また、この議事録に添付されて多くのメモ類があります。以上のものを閲覧した田口がタイプ打ちしました。これらをどう読むかは、まだ多くの議論があります。今後の研究活動で徐々に明らかにしていきます。
2014年
4月
30日
水
高速道路地下化の決定的資料を発見
市史資料室での副本づくりに向けた整理作業で、昭和43年3月22日首脳部会議議事録とその添付資料を発見しました。田村明が横浜市に入る直前での高速道路ルートと形態に関する緊迫した会議の状況が読み取れます。飛鳥田市長のこだわりと抜きん出たリーダーシップも垣間見られます。また、運河埋立を認める過程で、昭和41年7月当時の横浜市河川利用審議会で高速道路の地下化を求める行き詰る議論もあり、詳細は近いうちにお知らせします。
2014年
4月
28日
月
田村明資料を横浜市史資料室で精査しています
横浜市史資料室に田村家より寄贈された5千点の資料について、研究の用に供するため副本づくりを開始することになりました。原資料のみでは、コピーや写真をとることもできないため研究者にとっては使いにくいことになります。副本をつくることでそれらが可能となります。
2014年
4月
07日
月
首都高速道路公団の工事記録誌を入手
首都高速道路公団神奈川建設局『横羽線(2期)及び三ツ沢線工事誌』を横浜市立中央図書館で発見しました。横浜都心部における高速道路地下化の経緯と工事記録を首都高公団の視点で詳述しています。これまでの横浜市内部の動きが第三者的に裏づけされる貴重な資料といえます。
2014年
4月
05日
土
首脳部会議資料を発掘
横浜市の情報公開制度により昔の決裁文書(稟議書)を閲覧しコピーを入手しました。目的は、高速道路地下化に関る文書を発掘することで、昭和43年前後を重点的に調べました。
2014年
4月
03日
木
横浜市高速道路課課内誌の紹介
横浜都心部で首都高速道路の地下化を担当した横浜市道路局高速道路課内の親睦記念誌を入手しました。発足後の20年誌と30年誌です。当時の担当者たちの興味深い記述があります。ご一読ください。
2014年
4月
02日
水
日本の都市計画家の系譜
田村明を日本の都市計画家の系譜のなかで、どう位置づけるか、簡単な話ではない気がする。日本の、といっても近現代の話で明治以降となる。かつて、田村明に学んだ者たちは「田村明を除いて現代を代表する実践的都市計画家は存在しない」ほどの熱烈なる思い入れをもってしまう。