「港北ニュータウン建設事業の課題と展開」(遠藤包嗣・当NPO正会員、元横浜市企画調整室勤務)
今日は、田村さんの特に関係したところを少し踏み込んで、お話ししていくつもりです。全体の流れは、金沢のときもお話ししましたけれども、復習みたいな形になりますが、六大事業は、昭和40年にスタートしています。飛鳥田さんはその2年前に市長になられています。田村さんが横浜市に来られたのが、昭和43年と。いわば、六大事業を発表してから3年後になって来られました。田村さんはそれから56年までの10年間横浜にいて、街づくりを担当されています。
1、横浜市の実力
(1)持続的な都市づくりを進める時間
飛鳥田市政から半世紀、ピーク時毎年10万人(S43~46)の人口急増期の都市経営の
危機を乗り越え、300万都市としての基盤整備がほぼ完成し、国際都市横浜の都市づくり
は、「みなとみらい21」地区、「横浜駅周辺地区」、「新横浜駅周辺地区」等を中心に、上大岡・戸塚・二俣川・鶴見・港北NTタウンセンター等の周辺部の街づくりも進んだ。
港北ニュータウンの関係は、4人の市長の名前書きましたけども、飛鳥田さんがスタートから大きな流れをつくって、細郷さんの時代に新横浜から港北ニュータウンにかけてっていう、この地下鉄問題のタイミングは、細郷さんの時代のポイントになります。高秀さんの時代にブルーライン、3号線がオープンして、都筑区・青葉区の分区になります。中田市長のときに、グリーンラインが2008年開港150周年に合わせ開通します。私が港北区長の時に、グリーンラインが開通しました。日吉までですね。そんな流れで、4人の市長が関わっている、長い時間をかけた事業になっています。
2、飛鳥田革新市政の都市づくり:市民参加の都市づくり
<施政方針> ・「子供を大切にする市政」 ・「だれでも住みたくなる都市づくり」
*緑の保全と郊外部のスプロール防止、
*公害の防止と住環境の改善
*都心部の渋滞の解消など交通問題の抜本的改善(都市基盤整備の遅れ)
飛鳥田さんの市政の特色ですが、郊外の農業地域に対する思い入れが相当強かったんです。『時代背景』の所にありますけれども、ちょうど横浜の北ブロック。当時は港北区の中に全部、都筑も青葉も緑も入っていたのですね。だから、大港北区の時代のから、人口定着が進むことによって四つに分かれたと。それだけの大きな人口集積エリアに変わっていったわけですけれども、国道246号、第3京浜、それから、田園都市線ということで、東京圏の延伸拡大に一番影響受けた地域になっていきます。
この図面は、皆さんの資料中にもありますけれども、港北ニュータウン地域の現況という形で、昭和40年代の頃のです。これ見ると、右側の赤い線が第3京浜です。左側の赤いのが、246号で、246号と第3京浜に挟まれた中にはほとんど道路がないですね。丸子中山茅ケ崎線っていう斜めの細い道路が1本、県道ですね。それと、地方道で生田横浜線、これも狭い道路で。もう1本こちらに外側にあります、横浜上麻生線、昔の道路です。本当に、道路がないっていうことは、人口が少ないエリアになります。そのエリアが、港北ニュータウンの2530haという広大なエリアになります。
計画発表した昭和40年のタイミングでは、居住者5万人。公団の土地区画整理事業のエリアの中だけの話になると、居住人口が1万人です。だから、1317haっていうのは、公団の開発区域が確定したエリアになりますけれども、そこは、山林原野が大体54パーセント、畑と水田が41パーセントと、全体の95パーセントが山と田畑、緑地でした。だから残りの5パーセントの所に、ほとんどが谷戸の道路沿いに、農家の集落がありました。
3、郊外部の計画的住宅地開発:6大事業―港北NT開発計画(30万都市開発)
(1)時代背景
① S30年代後半に国道246号が開通し、S41年田園都市線が溝の口から長津田まで開通し、沿線の東急や住宅公団等の住宅開発が加速されていた。
② 当時、港北区北部にあたる地域は広大な山林の残る農業地域で、市内でも特に交通アクセス整備が遅れ、鶴見川治水対策など、スプロール型の開発の問題が危惧されていた。
③ 農業が継続を希望する熱心な農家も多く、将来的にも農業が継続できる環境整備を求められていた。
(2)6大事業での「港北NT事業」の課題
① 開発が遅れていた市北部(港北区区域)の骨格となる都市施設、良好な住宅地の整備
② 営農意欲の高い農家を支援し、地産地消の都市農業の確立
(3)計画発表1965年(S40)~基本構想1970年(S45):対象 区域2530ha、約5万人居住
① 乱開発の防止
② 都市農業の確立
③ 市民参加のまちづくり
*1967年6月(S42)港北NT開発促進協議会第1回総会
飛鳥田市長出席で、中川小学校講堂(港北区)で開催。市・公団・地元の三位一体による大規模な土地開発事業がスタート。
地元の意見で、名称を「港北NT開発対策協議会」に変更。4地区代表を加えることを確認。
「飛鳥田さんに思い入れがあった」といったのは、この(3)の③の所で、米印、昭和42年『港北NT開発促進協議会第1回総会』っていうふうに書いてありますけれども、飛鳥田さんは42年の第1回の会合を、港北区の中川小学校っていう現地まで行って、地元の人と小学校の講堂でお話をして、開発促進協議会を発足させました。
ただ、そこでの意見の中で、まだ開発について賛成したわけじゃないという意見が地元から出ました。「促進協議会」という言葉はまだ地元の人は使えないということで、「対策協議会」にしてくれという意見が地元から出て、この場で、名称を変えています。
それから、今言った中川小学校の位置っていうのは、地元でいくと、中川地区というエリアになります。国道246号に近い西側が山内で、北側のニュータウンの半分を占めるエリアが中川になります。それから、東側の港北区に接してる部分が新田地区。南側が都田地区と。港北ニュータウンは、この四つ地域に跨っています。四つの地域になりますが、一番影響受けるのは、中川と山内でしたので、最初の総会のときには、中川地区代表と山内地区代表が呼ばれていました。議論の中で、「都田と新田にも入ってもらわなければいけない」ということで、4地区の代表を加えるという形に確認されています。
いわば、スタートが、市長が直接出た会議で始まりましたから、地元と市長との関係っていうのは、すごく微妙な関係になっています。微妙な関係っていうのは、「市長はあのとき、公団と地元と三位一体でやっていくと言った」と。それが、公団からすればちょっとやりにくい、横浜市飛鳥田流の土地区画整理になってきています。
4、土地区画整理事業(日本住宅公団施行―1317ha、計画人口22万人、住民約1万人居住)
(1)3者の役割
① 公団の役割:事業用地買収、事業計画、造成工事、換地計画・処分、集合住宅の計画的建設、生活再建の相談窓口など、
② 市の役割:事業計画の指導、造成工事の安全指導(宅造協議・完了検査)、学校施設整備周辺関連道路・地下鉄建設、生活再建の相談窓口など、
③ 住民の役割:用地買収・工事への協力、生活再建準備、供用開始後の土地利用促進など、
*1968年2月(S43)港北NT開発対策協議会第2回総会
港北区公会堂で飛鳥田市長出席。中川地区・新田地区・山内地区・都田地区が参加。
専門委員会を設置:用地対策委員会、農業対策委員会、生活対策委員会
住宅公団の土地区画整理事業としてまとまっていく中で、計画人口22万人都市という規模は、多摩ニュータウンが30万都市という設定でいますから、平行して動いている多摩ニュータウンに匹敵するような、大規模な、それも土地区画整理事業でやるという。公団の開発事業者としてのプロ意識からすれば、相当大変な事業になりそうだという状況になっています。
多摩ニュータウンは新住法を中心にやっています。最初に土地買っちゃうのですね。その上で事業を進めていく。土地区画整理事業というのは、確かに先に、買うのですけれども、あくまでも権利者の土地を残し、協力して事業を進める。そういう前提での一部土地の先買いです。さらに言えば、土地区画整理でいう減歩で、公共施設を含めて、基盤施設を整えていく。土地所有者の権利を積極的に擁護する事業なのです。
この地元の地域は、多摩ニュータウンと比べてどこが違うかというと、開発予定地はほとんど山林だけれども、周りはもう東横線沿いと田園都市線沿いで開発が進んでいる。いわばその開発が近づいている山林です。だから、地元の方たちには、自分たちの土地は付加価値が高いという意識が強いのですね。そういう意味で、公団として事業採算を取るための先行買収がなかなかうまく進まなかった。先行買収がうまく進まないと、土地区画整理事業は成立しないのです。ところが、市長が入って動きましたから、土地区画整理事業やるというのが前提になっている。そうすると、地元からすれば、自分たちの要求をできるだけぶつけます。公団からすれば、まだ事業は決まったわけじゃない。ある程度の公団の土地が持てない限りは、事業はできないと。それのせめぎ合いが出だしにありました。
事業スケジュールをもう一回簡単に説明しますけれども。
40年に構想が発表された後、42年に市長が地元に入った。地元と市と公団の三位一体で事業を進めていこうと。ここに22万人の都市をつくる。併せて、都市農業としての農業専用地区もつくっていくという形で、計画的にしっかりした街にしていこうじゃないかという、総論としてはここで一致しました。
昭和43年って書きましたけれども、発足して2回目の協議会になるのですけれども、そこから土地買収交渉の議論が始まっています。開発区域を確定させたということは、その中で用地を買っていくと。公団は当初5割買収と言っていたのですが、4割まで下げ、地元と合意しています。
地元の役員の方たちは、そういう形で協力していますけれども、その地域には約6000人の農家がいるわけですね。当然、農業のほうを積極的にやりたいっていうことで、「農業専用地区の事業のほうに積極的に協力したい」という方と、そうじゃなくて、田園都市線沿線の地主さんたちは、不動産業も含めて相当手広くやっているわけです。
港北区側は東横線からちょっと離れていますから、まだ農業系が結構主力に残っている。いわば、東側の旧港北に近い所は、農業系があって南側も農業が結構強い。で、北はっていうと、もう、川崎市境にいっちゃいますから、開発をしない限りはもう何も動かない。西は、田園都市線ですから、ここは一番、採算意識が高いのですね。だからこの用地買収交渉が四つの地域の微妙なところでなかなか4割までいかなかった。すごい時間かかっています。
昭和46年に公団が計画を説明したってことは、やっとここで何とか見通しがつけた。平均で大体4割近くまでいって、初めてここで公団が事業計画の説明をしたのです。
46年に公団が説明して、それを受けて横浜市のほうが48年にニュータウン計画としてまとめます。事業計画っていうのは、都市計画道路も含めて、横浜市の事業をどれだけ取り込んで、費用負担をどうするか。相当厳しい議論をして、それがまとまって初めて事業計画認可の申請にいけるのです。ですから、46年に公団としての事業イメージがあったけど、それを横浜市と整理するので2年ぐらいかかった。
(2)公団・土地区画整理事業の特色
① 広域交通計画・河川計画:8本の都市計画道路網と2本の鉄道整備により、横浜北部地域の交通利便性の抜本的向上、鶴見川上流の早淵川と大熊川の河道改修を行い、鶴見川総合治
水対策を市と協力して国に推進要望。
② グリーンマトリックスシステム:寺社、屋敷林、竹林、池等「ふるさとの緑」を活かし、緑道や歩行者専用道路で有機的に結ぶ公園緑地ネットワーク計画により、タウンセンタ
ー・駅前センターや学校・保育園などへの安全で快適なルートを確保する。
③ 区役所等の行政施設、地区センター等の社会福祉施設、小中学校・保育所・高校、総合病院、バス営業所等の交通施設、清掃工場、配水池等の用地の確保
*小学校=25、中学校=13、集合運動場=13、保育所=13、高校=6
④ 換地制度では現地換地が基本だが、商業やマンション経営、工場・倉庫業、暫定農地経営を目的とする用地(特別な用地)は、生活再建の希望に合わせて選択換地を計画的に実施する。
⑤ 区画整理区域に取り込まれた存置家屋や、早期に建設予定で戸建て用地を購入していた権利者にも配慮した計画(先行使用宅地の造成整備)とする。
一番大変だったのはやはり、学校計画の議論だったのです。横浜の場合には、この高度成長期に、世帯当たり、児童出現率が0.3とか0.4っていう、今はもう0.1の時代になっていますから、3分の1くらいです。いってみれば、今の3倍のスケールで子どもが増えていた。だから、この時期の横浜市でいくと、さらに、増える可能性があるから、さらに増えたときのリザーブの学校用地を確保するように。それを各中学校に1カ所づつ、計画しました。1.5ヘクタールぐらいの。学校用地は、宅開要綱が背景にありますから、安い金額で横浜市に提供すると。通常の処分価格じゃなくて、横浜市に配慮した価格で、かつ、必要なときに提供する。だから、リスクを公団が持たざるを得ないという前提での計画になっています。公共事業、道路にしても河川にしても、市の土地区画整理に関係する公共事業については、公団が国の補助事業の裏負担を出すと。当時、横浜市は、お金がなかったですから、港北ニュータウンで発生する市の関係する事業というのは、大変な数だったし、大変な事業費が想定されていたのです。ここの開発利益を、横浜市の事業に乗せるように調整がされています。
実際、公団の側でまとめたのは川手先生です。昭和44年から港北の事務所長になられていましたから、川手さんが公団側の中心でやっていましたし、横浜市のほうは、田村さん、廣瀬さん、内藤さん、計画局では高井さんが中心にやっていたと思います。
こっちの図面で見てください。ニュータウンの中に茶色い太い道路がみんな入っていますけれども、8本あります。ニュータウン関連街路で、都市計画道路8本、最低幅員22~36メートルぐらいの骨格道路です。
計画図だけ見れば立派なのですけれど。このときに横浜市の道路は、さっきの原っぱみたいな図面ありましたね、これが、計画図にある道路水準、鉄道水準まで変わっていくっていうのは、本当に大変な費用負担を事業として受けざるを得ない。ですから、事業認可の昭和49年までの間の議論の中で、負担関係について相当厳しい調整をしています。
事業計画が大体42年に認可受けた後、ここから問題になるんですけれども、46年、いわば、公団の計画説明って書いてありますが、ここで、説明したスケジュールがもう既に、事業計画決定がで49年ですから、まず、黙って3年遅れてるわけです。
それからもう一つ言うと、オイルショックがこの間に入りますから、事業費の見通しも完璧に狂ってくるわけです。そういう中で、工事が進まないのです。この時期の工事っていうのは、最初に防災調整地を造ります。山林の木を切っちゃいますから。もともと 鶴見川は氾濫危険河川でしたから、それに入る水を抑えるためにまず遊水地を川の上流部に全部造っていた。まず、遊水地は造らなければいけない。それは、部分協議で審査され、そこの部分だけの、遊水地関係の工事としてやることで、本当の前段の工事だったのです。大事なのはその後、将来計画に基づく工事。通常、二次造成と言います。下水計画でちゃんと下水管が入って、上の道路舗装をして、敷地が宅地として使えるように必要な擁壁が作られる。そういう二次造成っていう工事の見通しが全く立たなかった。これが昭和51年、飛鳥田市長へ集団陳情っていう形で出たのです。ちょっとため息出てくるところですけど。
僕は51年に港北ニュータウン建設課に異動しましたから。僕がニュータウンに出会ったのは、昭和50年からです。で、51年に行く前後で、僕の企画調整室の最初の係長が田代さんですが、48年に田代さんが港北ニュータウン建設部に建設課長で行っていました。事業計画が大体まとまる場面で田代さんが行って、田村さんと連携して推進する形になったと思います。
このときに、事業を考えれば、最終的な土地が使えるようにするまでの行程を議論しているはずなのです。事業計画の認可受けたら、次は換地設計、それから土地の供用開始という手順にいくはずなのです。それがいかなかった。理由は二つあったのです。
一番大きな理由は、このときの計画局、その後都市整備局になりますけれども、ここに宅地開発についての指導する権限が全くなかった。宅地開発の権限っていうのは、公団が最終的な、擁壁にしても道路にしても下水にしても、設計書を出したときに、それについては審査して、かつ、現場の工事を監督して、完了検査をして、宅地の使用を認める、そういう一連の権限があるわけです。権限の無い計画局港北ニュータウン建設部が、公団と道路、下水、建築、緑政局この4局の間に入って、開発協議のいい意味での潤滑油になるはずだったのですが、結果は潤滑油にならなかった。公団は、全国的に実績のある技術者集団ですから、「他の県ないしは他の都市で認められてきた話が、なんで横浜市はそんなに公団に対して不信感を持って協力しないんだ」。横浜市からすれば、洋光台、港南台を含めて、いろんな所で公団の開発があったのですが、そこで常に苦労してきた経験があった。どこで苦労するかっていうと、最後に収まらない設計がでて、現場での設計変更に苦労した。担当者が受け、処理しなければならない。本来、最初の設計で整合しているはず。整合しているっていうのは、それは、4haでも20haでも整合するんですが、今回の場合には1300ha。北と南の二つのブロックに分かれていて、片一方でも500ha以上ある。いっぺんに工事にかかることはまずないわけですね。だから、公団からしたら、「工事にかかる所から設計協議をしてほしい」。でも横浜市のほうは、「全体としての実施設計をちゃんと持ってくるように」。敷地の外側の外周部、これは既に人が住んでいる地域、ないしは既に開発されている土地と整合しなければいけない。そこまで全部設計書ができて初めて協議になる。意見の相違による混乱がこの時期にあったはずです。
小林部長が、昭和50年にニュータウン建設部長になられ、「このままでは、公団も困るし、地元も困る。本当は、計画局が責任を取るのだけれど、権限がないから調整できない。」というもう本当どうしようもなかった場面が、ここであったはずなのです。私は港北ニュータウンの担当チームには51年に異動してから、小林さんや田代さんにいろいろと話を聞きました。どうも結論はそういうことだなと。
誰も責任取らなかった話を、小林さんが公団の川手さんと一緒に責任取った。51年に飛鳥田市長に中川地区の350人が陳情に来る前に、50年の12月に公団が「事業が遅れます。60~62年くらいに完成が遅れます」っていう説明を協議会でしたのです。それまでは、遅れるのではないかなと皆が思っていたんだけれど、原因が何で、どのぐらい遅れるのかは全く分からなかった。「もう確実に、10年近く遅れます」と。昭和50年の時点で完成は、60~62年ですっていう、10年の時間かかりますと説明して、それで地元は怒ったわけです。そういう怒る場面に当時の小林部長は、相当な覚悟で飛び込んでいったのです。飛び込むことによって、事業の仕組みを変えていく。いわば、港北ニュータウン建設部が権限を持つ形で、直接公団と交渉して、公団の現場の事務所がありますから、全部やっていける態勢を整えようっていうのが、このタイミングの市長陳情を受けた「次のシナリオ」になっています。
(3)第1の課題「事業の大幅な遅れ」とその解決
*S46年の公団説明ではS55年完成目標が大幅に遅れる説明がS50年12月にある。
*1976年1月(S51)、中川地区住民350名が市庁舎へ抗議の陳情。
① 埋蔵文化財発掘調査による遅れ:公団施行区域内に約250箇所(教育委員会)
<具体的な対策>
*約200カ所を調査し記録保存、一部を公園内に存置保存。
*大塚・歳勝土遺跡(弥生)の保存と都市計画道路計画(センター地区)の調整を図る。
② 宅地造成工事計画の遅れ:宅地造成工事の実施設計協議が遅れる(住宅公団)
<具体的な対策>
*基本確認:「開発区域全体の実施計画整合を求める」。道路、下水など、一体の施設の完了検査は全体計画に整合して確認されるため、市の基本を確認。
*組織整備:1976年(S51)から翌年に掛け、計画局港北NT建設部に、審査関係の各局(道路・下水・建築・緑政)からベテラン職員を異動し、兼務辞令により、集中審査~現場中間検査~完了検査まで責任を持って公団を指導する体制を整える。
公団は、1976年5月(S51)に開発事務所が港北開発局に昇格、1977年5月(S52)に港北開発局に工事部を設置、3部制とする。
*協議時間の短縮:協議日程を事前に優先確保し、開発区域境界部の設計協議を先行(全体協議その1)、終了後区域内側の設計協議(全体協議その2)を実施。
*1979年(S54)に公団が「S62年概成・造成工事スケジュール」を発表。
③ 港北NT事業推進連絡協議会(S51改組)
住民:生活再建の準備にむけて仮換地計画の議論に入る(特別な用地:センター・アパートマンション・工場倉庫・集合農地地区)
公団:工事の推進と並行して、特別な用地の換地計画の調整。
市 :供用開始の条件(全体協議の実施・存置家屋・先行使用宅地)、高速鉄道事業の推進等。
資料の中にも書きましたが、『第1の課題「事業の大幅な遅れ」とその解決』として、②ですね。宅地造成工事計画の遅れ、宅地造成工事の実施設計協議が遅れることに、具体的な対策として、組織整備をやったと。私がいた51~50年にかけて、港北ニュータウンの建設に各局の審査関係からベテラン職員を異動させて、その方たちに兼務辞令を出す。今後は、港北ニュータウン建設部の職員が直接審査をして、かつ、直接現場で指導できる、検査で検査済書を切れるという仕組みをつくったのです。横浜市の中でこれができるっていうのは、関係局の局長が全員の了解が必要です。もともと宅造の関係業務っていうのは厳しい業務なのです。民間事業者からすれば、いかに利益上げるか、いかに短期間で工事に入って完成させて、かつ手直し工事がないというのが一番いい話ですから。関係局の職員は実施設計の審査・修正をやり、現場の中間検査から最後に完了検査の確認まで、大変な責任持っています。このときに道路局からは野村係長、鈴木さん、竹間さん、下水道局からは室岡係長、箱崎さん、高橋さん、建築局からは竹内さんが、緑政局からは門脇さんが来ました。港北ニュータウンの小林部長が寺内局長と、寺内さんも企画調整室で田村さんの下にいましたが、道路局長の池澤さんと連携してまとめたのです。小林さんと池澤さんは陸士の出で、昔から土木の仲間としてプロ意識を持ってやってきた人たちです。そして、市長の側に田村さんがいて、この事業を動かすにはこれしかないという現場からの説明・提案を受けて、新しい方針が決定されたのです。この51年に横浜市の組織がガラッと変わって、今までは各局がばらばらにやっていた業務を、兼務辞令を持つ職員が直接の窓口になって進め、最後の後始末も確認もできるようになった。完成後は、公共施設の管理引継ぎがあるので、審査は各局の部署と一緒にやっていきます。計画局は、権限はあるけれども、最後の責任持つ方と一緒にやっていくっていう態勢で、やっと動きだした。
公団側もこの時期、51年の段階で開発事務所から、港北開発局になって、島田局長と川手さんが事業部長という形で新しい体制になりました。さらに翌年、工事部が新設されました。公団も横浜市の連携で、協議をするときに、取りあえず、開発区域の境界の実施設計だけは先にやろう。境界の道路、河川、宅盤だけを取りあえず決める。次に広大な内側の実施設計を決める。二段階方式で実施設計協議をやって、何とか51~53年に1317ヘクタール全体の宅地開発の設計協議を終わらせたのです。目途がついた54年に造成工事スケジュールとして、57年供用開始、62年に概成を発表しています。終わるのには10年かかるが、早くできる区域では3年先には土地が使えるようになるという約束をしています。
僕も、51年に港北ニュータウン建設課に行ったときには、「宅造チームの仕事やりたい」ってことで異動しました。これだけ大きい開発の中で、最初に工事関係がどのように進んで、どういう問題があるのかを、勉強したかったのです。
①に戻ります。埋蔵文化財調査です。この図面はちょっと見にくいのですが、丸ポチがいっぱい付いています。このエリアに大体、300~500個あります。この地図の中の丸ポチが全部に文化財があるので、開発するのだったら調査が必要と指摘されてる所です。実際、1317haの公団の開発地域の中でも、300箇所近くが指摘されていました。
なぜこれが大変かっていうと、埋蔵文化財は丘陵部の一番上にあるわけです。これを削んない限り、谷戸を埋め立てられないし、宅盤が作れないわけです。埋蔵文化財調査は「はけ」で調べますから時間と費用がかかります。これは大塚・歳勝土遺跡で、教科書に出てきた弥生の遺跡です。住居遺跡と、方形周溝墓というお墓の遺跡が一緒の所に出てきました。「これはもう、オールジャパンの遺跡だ。絶対残せ。」という学者が多かったのですが、大塚遺跡っていう楕円形のひょうたんみたいな遺跡の西側に、都市計画道路が入るわけです。タウンセンターの敷地に接する都市局道路は、高低差が20~30メートルになります。普通に切ったら、大塚遺跡の半分が無くなる工事になるのです。タウンセンター計画の整合性をどうするかっていうので、大変な議論になった。それ以外に、丘の上にも、200数十カ所散らばっている遺跡の調査を、どうやったら早く終わらせるか。何せ、この写真の右下にあるこの小さい土器の遺跡もそうで、最後は「はけ」なんですね。結局、調査が終わんない限り、本格的な工事に入れないとなると、大変な工事の遅れになってくる。文化財調査は法律で決められているので協力はするが、何で早くできないのだと苦情が出ます。
調査費も当然、区画整理の事業費から出ています。当初は、46~48年くらいまでに終わらせるっていうことで、4億円の予算を組んで始めました。48年っていうのはまだ工事が積極的に動きだしてくる前で、ここから本格的な工事が出てくる。そこにまだ大幅にかかるっていうことで、49年には再度、53年以降の調査を総額8億円で、覚書を結んでいます。あと、「大事な遺跡で公園計画が近くにある場合は、公園用地の中にその遺跡を入れる」ことで、保存して、発掘調査はしない場所を約20何カ所調整して決めています。
(4)第2の課題「生活再建と換地計画」とその解決
① 「換地申出調査」:1976年3月(S51)から5月に、特別な用地への「調査」を実施。
*公団によりタウンセンター地区の基本設計(造成計画)がまとめられ、企画調整局アーバンデザイン担当が中心になり、駅前広場からデパート、スーパー等の大型施設から専門店ビル等の中規模施設、行政施設等、模型をもとに宅地の活用についての検討され、空間デザインが提案された。
② 「建築協定案」:特別な用地について、1977年9月(S52)に建築協定案の意見交換会が開催される。希望が多かったセンター地区等は短冊換地(選択換地)を行い、宅地の利用に際しては、共同開発を条件とする建築協定案がまとめられた。
③ 1977年10月(S52)、第2地区の、翌年2月(S53)に第1地区の「仮換地の供覧」を実施
する。供覧による意見書は、公団による検討後に土地区画整理審議会に諮られる。
地元の方からすれば、造成工事の次は、仮換地の問題になります。
51年に港北ニュータウン対策協議会から推進連絡協議会に変えて、メンバーも入れ直しています。港北ニュータウン推進協議会のテーマは生活再建です。自分の換地をどう設定し、将来の生活再建を図るか、そういう検討が進んでいきました。この51年の中での公団と地元の関係っていうのは、本当に大きく動いたのですね。
これが、57年の供用開始から62年概成計画の図ですが、大事なのは、この中で道路がいつ開通するのか、それが供用開始の前提になります。57年に供用開始するっていうのは、その地域の土地利用させるために必要な道路、下水も整備を終えることです。54年にこのスケジュールを発表したっていうことは、それに合わせてすごいスケジュールが動きだしているのです。
地元の生活再建っていうのは、40%は先行買収で土地を売り、平均35%の減歩をして残った土地の活用になります。平均35%ですから、一般宅地の減歩率と商業施設の減歩率が当然違うわけですね。タウンセンターなんかは8割減歩っていうくらい厳しい、それだけ土地の評価が高くなりますから。そういう前提で見たときに、地元の権利者の方がどういう所に換地の希望を持っているか。公団は、51年に換地申出調査を実施しました。結果は、商業地域への希望が圧倒的に多かった。この図がそのときの「特別な用地」で、タウンセンター・駅前センター・近隣センター、アパート・マンション地区、工場・倉庫地区、集合農地の4つです。「そう簡単に売れないから、集合農地できるだけ長く農業やりながら、街が出来上がったときに売りましょう」という人や、センターでの商業ビルやアパート経営等の不動産事業をイメージしている方もいます。工場・倉庫も多くあります。港北区は今でも、東京の大田区や川崎の大企業の工場のネットワークに入っている優良な工場が多いのです。計画的に工場・倉庫用地を配置し、まとまりやすい形を作っています。
このときに、タウンセンターだけは、企画調整局アーバンデザイン担当の岩崎さんを中心に大高事務所にいた西脇さんと、空間デザイン「模型」を作っています。これは50年に大体作業やって申出換地の事前説明の時に、「商業地域はこういう状況になるのです。上の建て方をちゃんと理解してください」と、そういう目的で作った、空間デザイン模型です。
タウンセンターは、アッパータウンとダウンタウンと高低差が相当出ます。何せ一番下は早渕川になります。その高低差をセンターのデザイン設計の中でイメージさせ、坂道のある商業地域として街をつくってかないといけないと。結果、地元権利者には「出たいです」っていう方が相当多かった。
実際の換地図があったので写真を撮りました。短冊換地っていうのはどんなものかっていうのを見てください。タウンセンターは、民間の宅地だけで大体19haあります。その宅地に対して、757件の換地希望がありました。1件当たり250㎡です。250㎡というのは、一般宅地だったら広いですが、商業施設のこういう坂道があったりすると、同じ宅地で利用がっていい宅地とそうじゃない宅地出てきます。それをやってくともう収拾がつかないから、集合で使わなきゃいけない所は建築協定を結ぶ。そういう前提で建築協定結ぶから、短冊換地でいきましょうというブロックを作るわけです。大規模商業施設のブロック、小規模の商業施設のブロック。小規模のほうは、単独でもやれる。それから、小規模の商業と住宅のブロック。これは、確か、共同型になるはずです。あと、商業と住宅の大型ブロック。4種類くらいに分けて議論しています。
昭和52年に第二地区から、53年に第一地区の仮換地の供覧。仮換地の図面の供覧というのは、「仮換地の指定の前に、皆さんの意見聞きます」という形でやります。自分の換地案について、提案内容に意見や不満がある人は意見書をだす。相当の意見書が出ています。それは、土地区画整理審議会で整理しています。宅盤の関係の議論は結構あったはずなんです。道路が斜めで宅地は平らなんていうのは。そうすると絶対、擁壁は必要になってくる。擁壁が必要になってくるってことは、地下駐車場型の敷地活用を考えるのか、それとも、擁壁を作るか。結構そういう議論もあったはずです。53年には大体、皆さんの換地についての意見を全部受け止めて、57年の第一次供用開始に向けての準備をしていきます。
(5)第3の課題「最初の人口定着・新住民の入居」とその解決
① 1982年末(S57)に供用開始された第2地区の100haには、公団・県公社・市公社の集合住宅の1400戸(5000人)規模を建設し、1983年(S58.8)完成・入居の予定。
② 生活利便施設の整備:駅連絡バス(市が尾・江田・新横浜駅前にバスバースを新設)、
*中学校(1)、小学校(2)、保育園(1)、幼稚園、荏田近隣センター、医院等、
*都市計画道路新横浜元石川線、歩行者専用道路、公園、緑道等
三つ目の「最初の供用開始」、「新住民の入居」は、57年に100haの地域での供用開始っていう形になりました。57年度の末に土地が使えるようにしますから、住宅だったら建築が始まります。人が住めるようになるまでに半年掛かります。集合住宅だと、頑張っても1年かかります。だから、集合住宅58年の8月目標っていう。これは、57年度末、3月に共有開始をした場合、57年度末っていうのは58年の3月ですから、それから半年で一応、新住民が住まれたときに対応できる環境にしましょう。供用開始は57年の末だけれども、人口定着は58の8月からですよという設定にしました。集合住宅もこれにめがけて造る前提ですから、1年半前から入れるように宅地の準備をして、供用開始のための仮検査切って、動いています。住宅公団と市住公、県住公で1400戸、5000人の入居を想定して造ったのは、一般の方の住宅がタイミングでバタバタできるとは想定していません。ただ、早い時期に土地を買われていて、住宅をニュータウンの中に造りたかった方は、50坪とか60坪とか、そういう土地を権利として持っていた。その方から3割減歩なんかできませんから、そういう小規模宅地の方については、減歩率を下げて、できるだけ早く使える土地を提供する。これは先行使用宅地と呼び、既存の住宅地や、地区外に隣接する住宅地の生活利便施設を使える土地に30戸とか50戸という単位で先行使用宅地を造っています。新しい所では、全部ゼロからスタートということで、道路を作り、駅との連絡バスシステムを作って、学校も中学校、小学校も作っていく。施設は58年の8月にめがけて全部造っていくわけです。ここで一番苦労しているのは、駅との連絡バスです。開発区域が西側に近い川和でしたから、真ん中にある幹線道路・新横浜元石川線を使って、何とかこれで行けば、田園都市線に出られる、反対に行けば、新横浜に出られるっていうので、これを軸線にして集合住宅も造っています。
けやきが丘が公団で、かしのき台が市で、しいの木台が県だったかな。ちょっと不正確ですが、確かそういう名を付けました。荏田南中学校と荏田南小学校、荏田東小学校ができました。集合住宅もしいのき台は公園のわきにありますから、デザインをしっかりやっています。斜面緑地を持っている集合住宅の場合には、高層住宅を入れ計画もしています。新しい中学校と新しい小学校は、フラミンゴピンクという珍しい色を使っています。これは隣接する鴨池公園です。当初は、これも防災調整池でしたが、そのまま地区公園の中に入れて、池を生かした公園にしています。今は、こういう形で一般の住宅地が広がっていますが、当時はほとんど原っぱでした。保育園とか幼稚園、バス停の所は歩行者専用道路のネットワークでつながっています。安全性・利便性のすごく高い地域です。
(6)第4の課題「高速鉄道の開通」とその解決
① 建設工事費の削減:NT地区内は地下鉄補助方式ではなく、NT方式で開発者負担が基本。
*地下式を掘割・高架型構造中心に設計変更し工事費を削減(都市計画決定の変更)
*車両基地を港北区新羽町の調整区域に確保(車両基地上部の土地利用を想定)
*田園都市線とあざみ野駅で接続(新百合ヶ丘方向への延伸を想定)
次の話が、地下鉄問題です。
結局、タウンセンターを供用開始するには、地下鉄が入んないと無理なのです。大型商業施設とか区役所も含めて、タウンセンターが活性化するためには、バスだけではだめです。そういう意味では、いかに早く3号線を引くかっていうのがテーマだったのですが、3号線の遅れは、三つ理由がありました。
一つは、市長が六大事業でやったときは、市営高速鉄道・地下鉄をやりますといいました。あの頃は、鎌倉街道を関内から上大岡まで市街地の工事を計画していましたから、当然地下鉄です。でも郊外に行けば、別に地下じゃなくていいのですが、言葉としては地下鉄がずっと残っていました。地下鉄方式の運輸省の補助は補助率が高いのですが、郊外部はニュータウン方式という、「開発利益」を活かした事業が普通なのです。
港北ニュータウンの場合には、あざみ野のほうと新横浜は市街地といえるが、この間は山です。当初の設計は地下鉄を意識して、路線は地下構造が主力でした。わざわざ穴を掘って作るので、工事費かかるのです。運輸省には相当しつこく説明しましたが、やっぱりはね返されて、設計の見直しをしないと工事の免許が難しくなっていました。
もう一つは、土地区画整理事業は基本的に人口定置が遅れる。将来計画は立派でも、本当に20万の計画人口になるまでに相当長い年月がかかります。鎌倉街道の3号線を実施した時は、既成市街地の中の事業ですから、当然、採算ベースになります。でも、港北ニュータウンの場合には、事業採算に乗らなければ交通事業者は大変になると指摘されていました。夜間人口が中心の土地区画整理事業では、採算の担保は難しいのです。宅造を担当する公団にしても、人口定着の促進に鉄道が必須ですが、採算の担保は示せません。
三つ目には、車両基地問題がありました。「ニュータウンの中に車両基地が作れないか」という議論も随分しました。車両基地は広大な面積が必要なので、地元からすれば、4割買収、35%減歩を受けていて、当初計画にない車両基地の話は無理だという立場です。最終的に、新横浜と港北ニュータウンの間の港北区新羽町の調整区域で地元の協力を得て、車両基地計画をまとめています。
57年に供用開始して58年の8月に集合住宅が入居して、工事も最盛期になる中で、鉄道の構造を高架や掘割を中心に設計変更し、工事費を削減しました。地元では、高架や掘割に設計を変更しても早く地下鉄ができるためにはやむを得ないって判断がありました。
公園の中でトンネル構造が一部上に出た所もあります。公園の中に鉄道施設の橋や掘割ができるわけなので、都市計画の変更が必要になりますが、公園計画上は支障ありませんと、横浜市が公団と一緒になって建設省に説明しています。だから3号線のルートの緑道、公園の関係性、それから仲町台の辺りの関係、皆、線路を上げています。
ニュータウン方式の補助制度を受け入れ、採算性の改善も含めた計画の見直しもしました。供用開始から3年の61年にで免許が取れ、全体のスケジュールが軌道に乗ったのです。
採算性の問題では、昼間人口の確保を目指しました。先ほど言いましたが、40年代と50年代後半を比べると、児童出現率が大きく減少します。学校の必要数が大幅に減るのです。計画人口は変えませんが、学校の数を減らし、学校予定地の土地利用の変更を検討しました。活用案の一つは、研究開発機関の誘致です。昼間人口の増加に繋がる、新しい多様な都市機能を入れる計画です。大型工場は住宅地の環境に微妙な影響があるので、東京の本社に近い立地に適する、最先端の研究所の誘致を図っています。
活用案の二つ目は、年間で公団が建設できる住宅の規模は、そんなに大きくない。住宅開発は田園都市線沿線や横浜線沿線でも並行して進んでいました。年間の供給量を港北ニュータウンに集中するわけにはいきません。公団仕様の、公団が対象とする顧客層に対して、民間デベロッパーが対象のほうが幅広く、お金持ち対応の大型居住、グレードの高い居住施設の提供も含めて、多様な顧客層を持つ民間デベロッパーと協力して集合住宅の開発進める方向で、集合住宅用地を売ることも合わせて進めました。公団用地に大型の研究所が立地することも、人口計画の枠を変えない前提で、認めていきました。大幅な事業計画の見直しです。
58年の同じ時期に第1期で誘致したのはリコー研究所とデュポン研究所でした。高齢者用マンションも立地しています。引き続いて、京セラ研究所や、私立学校のドイツ学園、サレジオ学院、東京都市大学も立地しています。このタイミングで公団は自分で開発したほうがいい宅地と、民間事業社に任せる宅地を分けています。使いにくい所は民間のデベロッパーに渡したり、研究開発機能を持ってきています。
ニュータウン方式を前提とした開発負担金も確保できるように、この時期にしっかりとした資金計画に修正しています。
5、港北NT事業・街づくりの展開
① 1986年(S61)高速鉄道3号線の免許取得~1993年(H5)新横浜~あざみ野間開業
② 1994年(H6)都筑区・青葉区が分区し誕生
③ タウンセンター地区に大型商業施設、総合病院等が誕生し活性化
④ 2008年(H20)高速鉄道4号線(グリーンライン)が中山~日吉間開業、東横線・横浜線と接続
ニュータウン方式を前提とした開発負担金も確保できるように、この時期にしっかりとした資金計画に修正しています。
3号線(ブルーライン)が平成5年にやっと開業しました。免許取ったのが86年で、開業が93年だから、6年で新横浜からあざみ野までつながりました。あざみ野駅の接続箇所と、新羽の車両基地建設が大変だったと思います。93年に開通して、次の年に分区があってタウンセンター南に都筑区役所ができました。都筑区と青葉区に分区したとき、都筑区は人口11万人でした。これが平成24年。13年経つと、もう20万人になっています。毎年5000人規模で都筑区は人口が増えていったのです。タウンセンターには東急百貨店や阪急百貨店が出てきて、それ以外にも大型商業施設が相当入りましたし、横浜北部病院(昭和医大病院)も完成しました。大体敷地の計画はうまくいっていますね。で、最後に4号線(グリーンライン)が2008年に東横線の日吉駅と、横浜線の中山駅を結んで完成しました。高い利便性の20万都市に成長しています。
ここから先はちょっとスライドを眺めながら。
これは公団が一番やりたかった緑道、ふるさとの自然を残す計画です。宅地の上だけ切って谷戸を埋めるのですが、切った所と埋めた谷戸の間の緑地を斜面緑地として積極的にを残しました。斜面緑地を残したときに、管理問題どうするかっていうことで緑政局との調整に時間がかかりました。結局、自然山林、斜面緑地を誰が管理するのかという管理責任は、公団が責任持つということで斜面緑地は残ったのです。公園・緑道の中の自然緑地は、当然、緑政局の管理になりますが、集合住宅の緑地は住民がボランティア組織を作り、大切にしっかり管理しています。
緑道の中にはせせらぎの水を残しましたが、これも公団と市でいろいろ議論をしています。当時緑政局は、池やせせらぎを嫌っていました。港北ニュータウンの場合は、試行実験を4~5年やりました。せせらぎ公園という最初の公園も調整池を活かして池を造ったのですが、水漏れが出たり、夏に水量不足で池が干上がったりしました。当然、池の底は粘土で固めてありますが、固め方が甘かったのか構造的な問題もでました。子供が池で事故に合わないようにするための検討もしました。結構湧水が出ていた場所だったのですが、造成工事の影響で、湧水が切れた所があるのです。せせらぎも活かすために、100メートル掘って防災井戸として一定量を常時流し、緊急時に生かせる仕掛けもしています。
これは道路のスケールです。都市計画道路中山北山田線と新横浜元石川線です。道路の
真ん中に鉄塔が入っていますが、この用地の関係で大変な議論がありました。地元と区画整理審議会入れて議論してきました。建設省は「道路の真ん中に鉄塔入れるのはもってのほかだ」と言う。しかし、他に置く場所はないため、鉄塔集約して、鉄塔の底地を東電が持つ。線の下の敷地は最終的に東電が買って市に寄付したと思います。
古民家も、これも文化財の先生方から「大事な古民家がニュータウンに三つとか四つある」って言われて。そのうちの1戸は移築してせせらぎ公園に持ってきて、コミュニテイ施設になっています。フェンスの向こう側は公団の集団住宅の緑地になっています。住民が愛護会をつくり、市のほうも愛護会活動を支援して協力しています。ここは茅ケ崎の生態系の保存を前提として、保存のためのフェンスのある公園です。立ち入り禁止で、調査の人しか入れませんという公園も作っています。昔からあるため池を中心に保存して、外周部は散策できるように計画しています。
ブルーライン沿線ですが、あざみ野駅周辺が随分良くなっています。3・4枚目が中川の駅前センターです。この左側のビルの下が地下鉄の駅になっています。5・6枚目が仲町台の駅前センター周辺です。
グリーンラインは3号線のブルーラインと比べると、車両が小さいのです。日吉駅の地下に入っていますが、大変な工事でした。グリーンラインは、港北区内は市街地を走っているので、構造は地下鉄の形になっていますが、建設費用を落とすためにトンネルの穴を小さくして車両も小さくしています。ただ、日吉と中山と短い路線ですので、あまり問題は感じません。
これは、3号線と4号線の高速鉄道の間に歩行者専用道路を作っています。本当にこんな所、人が歩くのかと思ったのですが、日曜日に行ったら、北と南の間1kmあるのですが、多くの人が利用していました。都市デザインの成功でした。
これは大塚遺跡で、木の柵があるように、この柵のうしろに掘割を掘って住居が建てられていました。住居は復元した形になっています。最勝土遺跡は、方形周溝墓というお墓の跡です。住居とお墓が一緒になっている大塚歳勝土遺跡は大型の貴重な遺跡と言われていました。山の頂上まで大体道路から30メートルぐらいあるので、鋼管パイルを直に打ち込んで擁壁を作って、さらに控え柱でとめています。その巨大な擁壁をちょっとデザインしています。右の三角の建物が、港北ニュータウンの遺跡の遺物を中心に展示をする横浜歴史博物館で、大高正人先生が大塚・歳勝土遺跡と一体になるように歩行者動線を計画して完成しています。
早渕川のセンター間の土地は、当初調整区域だったのですが、非住居系の大型施設で収めてきています。そういう意味で、随分良くなったかなと感じました。
最後に一言、田園都市線と横浜線が15分でつながっているのには、驚きました。日吉からニュータウンのセンター北まで10分で行き、センター北からあざみ野が5分。結局、15分で行っちゃう。かつてはバスで大変な時間がかかっていたのに、やはり鉄道のパワーはすごいと、いまさらながらちょっと感激して、報告は終わりにしたいと思います。
参考文献
・港北ニュータウン基本計画:1974年、横浜市
・港北ニュータウン(縮刷版第26~50号、第51~75号):横浜市都市整備局港北ニュータウン建設事務所
・都市デザイン横浜:ヨコハマ都市デザインフォーラム会議資料(1992年3月 SD別冊)
・港北地区公園緑地整備計画報告書:1978年4月、(社)日本都市計画学会
・古代のよこはま:1986年、横浜市港北ニュータウン埋蔵文化財調査団編
・港北ニュータウン物語:2006年5月、著者・徳江義治、山本光雄、田園都市出版